幽霊ハッカーの境界線
「海藤様、舞様のシナプス崩壊率が本日、新たにゼロコンマ零二パーセント進行しました。現在の生体維持コードの整合性は残り、二百四十時間。これ以上の遅延は、脳幹データの完全なフォーマットを意味します」
耳奥に埋め込まれた骨伝導インプラントから、海藤家AI「ホームズ」の掠れた英国風紳士の声が響いたとき、海藤魁人は六本木の夜空を見上げていた。地上二百五十メートル。ガラスと鋼鉄で組み上げられた超高層ビル「ミッドタウン・ゼニス」の最上階ペントハウスは、東京中の富と特権を吸い上げたかのように輝いていた。
魁人は無意識に、学ランのポケットの中で冷たくなっている古いスマートフォンを握りしめた。脳裏に浮かぶのは、築四十年の古びた海藤家のアパート。その薄暗い一室で、青い光ファイバーの束に繋がれ、白いシーツに横たわる十四歳の妹・海藤舞の姿だ。彼女の生体データ監視モニターは、毎日少しずつ、その青い輝きを失い、死を意味する灰色のノイズに侵食されつつある。
「わかっている、ホームズ。だから、ここにいる」
魁人は低く呟いた。彼の右目は、前髪の隙間で時折、奇妙な青いバイナリコードの残響を放っている。世界のバグを視認できる特殊な瞳――「グリッチ・アイ」。それが、魁人が生まれながらに背負わされた呪いであり、唯一の武器だった。
ミッドタウン・ゼニスのロビーは、美術館のような静寂に包まれていた。全面ガラス張りのエントランスに足を踏み入れた魁人の前に、光学的網膜スキャンゲートが立ち塞がる。青いレーザーが彼の左目を走った。
『システム警告:未登録端末を検知。生体スキャン完了。海藤魁人、十七歳。権限レベル:ゲスト・ユーザー(一般市民)。閲覧専用パケットのみを割り当てます。物理法則の変更権限はありません』
網膜ディスプレイの端に、白く無機質なステータスログが表示される。この東京という都市は、目に見える現実のすべて――重力、慣性、摩擦、温度にいたるまで――が、「最高管理者ギルド」の巨大なサーバーによって制御された、偽りの物理システムだった。一般市民はただの「ゲスト・ユーザー」として、その管理された物理法則を一方的に受け入れることしか許されない。
エレベーターが音もなく上昇し、最上階ペントハウスの扉が開いた瞬間、魁人の五感は圧倒的な光と音の奔流に晒された。天井にはホログラムの調光照明「ルクス」が乱舞し、富裕層やギルドの役員たちが高級なグラスを傾けている。彼らは世界の「ソースコード」にアクセスできる特権階級だ。彼らにとって、東京の天気や重力を書き換えることは、スプレッドシートの数値を編集するのと同義だった。
魁人は壁際に身を寄せ、冷徹な目で周囲を観察した。彼の目的は、このパーティーに紛れ込んでいるはずの、ギルドのデータベースへの「差し込み口」を探すこと。そして、舞の脳内エラーを修復できる「S級バグ修復パッチ」の手がかりを掴むことだ。
そのとき、耳を裂くような破壊音がペントハウスのガラス壁を打ち砕いた。
突風が吹き荒れ、空中庭園のバルコニーから、黒いタクティカルスーツを纏った武装集団がロープで突入してきた。テロ組織「リベレイターズ(榊一派)」――その先頭に立つ男、榊龍牙の胸元には、青く不気味に発光する重力歪曲デバイス「グラビティ・アジャスター」が装着されていた。
「動くな、ギルドの寄生虫ども!」
榊の咆哮と同時に、自動小銃の掃射が天井のホログラム照明を粉砕した。光の破片がデジタルノイズとなって散り、会場は悲鳴と混乱の渦に突き落とされる。周囲の富裕層たちは、重力の変更権限を持たない「ゲスト・ユーザー」として、ただ床に伏せ、恐怖に震えることしかできない。
魁人は瞬時に身を翻し、大理石の太い柱の影に滑り込んだ。彼の右目の「グリッチ・アイ」が、急速に周囲の空間をスキャンし始める。視界が青みがかり、宙を舞う銃弾の軌道データ、そして空間の物理定数が、無数の数式の羅列として視覚化された。
(敵は十二人。装備は軍用。ビルの防衛レーザーは……強制ロックダウンされている)
魁人はポケットからスマートフォンを取り出し、ビルの防犯カメラの通信パケットを傍受しようと、指先を高速で動かした。ローカルネットワークの隙間を突いて、制御ノードへ侵入を試みる。
しかし、画面に表示されたのは非情なエラーログだった。
`Fatal Error: Access Denied. Required Level 5. Current Level 1 (Guest). Connection Terminated.`
ギルドが構築したファイアウォールの圧倒的な壁。魁人の一般スマホ端末の電子回路が、セキュリティの逆流電流によって過負荷を起こし、バチバチと青い火花を吹いて焼き切れた。プラスチックの焦げる臭いと共に、外部との連絡手段が完全に絶たれる。
「くそっ……!」
魁人は熱くなった端末を床に投げ捨てた。自分の権限レベルでは、このビルの電子防御を正面から突破することは不可能だ。物理的な「直接の差し込み口(ハードウェア・ポート)」を探さなければ、この死の迷宮から生きて脱出することはできない。
そのとき、重厚な軍靴の足音が、魁人の隠れている柱のすぐ近くで止まった。
「おい、そこのガキ。隠れて何をしている?」
テロリストの一人が、自動小銃の銃口を魁人の額に真っ直ぐに突きつけた。銃身から放たれる鉄の冷たさと、微かな火薬の匂いが魁人の皮膚に突き刺さる。男の指が、引き金にかかり、ゆっくりと絞り込まれていく。
死が眼前に迫ったその刹那、魁人の網膜の最奥で、眠っていた世界のバグが激しく共鳴した。彼の右目――「グリッチ・アイ」が、人間の限界を超えた輝きを放ち、周囲の空間から隠された「未定義の接続」を告げる、青いバイナリコードの滝が視界全体を埋め尽くした。
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