沈黙するキーボード
強烈な光が、網膜を白く焼き潰すようにロビーへなだれ込んできた。
銀行の巨大なガラス窓の外、夜の闇を裂いて照射されたサーチライトの光は、血に染まった大理石の床に俺たちの影を無慈悲に引き伸ばしている。地響きのような重低音が、足元からコンクリートを伝って心臓を揺さぶる。
「……違う」
俺の制服の袖を、桐生紗季がちぎれんばかりの力で引っ張った。全盲の彼女は、抱きしめたバイオリンケースを盾にするように身を縮め、恐怖に歯を鳴らしている。
「カイトくん、あれは警察じゃないわ。あの車のエンジン音……世界を監視する、冷酷な『システム』の音がする。奴ら、人質を助けに来たんじゃない。ロビーにいる全員を、消し去るために来たのよ……!」
紗季の絶対音感が捉えたその警告の意味を、俺の脳は瞬時に理解した。システム公安部。世界の物理定数を制御する「オメガ・システム」の存在を隠蔽するためなら、テロリストも、人質となった一般市民も、すべてを等しく「バグ」として処理する国家の掃除屋。その室長である氷室零次の冷酷な意志が、あのサーチライトの光の中に満ちていた。
俺は息を荒くしながら、動かない左腕をかばって一歩後退した。重力ハックによる脳への過負荷――ニューラル・ヒートはすでに七二%に達し、こめかみが焼け付くように熱い。左目は完全に潰れ、視界の半分は「0」と「1」のバイナリコードが砂嵐となって明滅している。かろうじて生きている右目のスマートグラスに、外の重装甲車両のデータが投影された。
「指向性EMP装甲車『オロチ』……!」
オロチの屋根に設置された、巨大な放電プレートが不気味な青い光を帯びて回転を始める。空気がパチパチと静電気を帯び、肌の産毛が逆立った。
(まずい……ハックを、防壁を記述しなきゃ間に合わない!)
俺は震える右手の指を、左腕のカスタム・ターミナルの物理キーボードへと走らせようとした。だが、指先がキーに触れるよりも早く、紗季が悲鳴のような声を上げた。
「カイトくん、耳を塞いで! 空気が、世界が悲鳴を上げてる!」
直後、無音の衝撃波がガラス窓を透過してロビー全体を突き抜けた。
キィィィィィィン――!!!
脳髄を直接巨大な針で貫かれたような、凄まじい高周波の痛みが走る。スマートグラスの青いホログラム表示が激しくブレ、次の瞬間、完全にブラックアウトした。視界から「システム・アイ」のコード情報が消え去り、ただの薄暗い大理石のロビーが剥き出しになる。
「が、あぁっ……!」
左腕のターミナルからバチバチと激しい火花が散り、俺の手首に鋭い高圧電流の痛みが走った。液晶画面が明滅し、無慈悲な赤いテキストがスクロールしていく。
`[CRITICAL ERROR: HIGH-OUTPUT EMP DETECTED.]`
`[HARDWARE PROTECT PROTOCOL INITIATED.]`
`[SYSTEM REBOOTING... 120s]`
「うそ、だろ……リブートに、百二十秒……!?」
液晶に表示された無慈悲なカウントダウンが、俺の絶望を秒単位で刻み始める。キーを叩いても、青いバックライトは消え失せ、いかなる入力信号も受け付けない。ハッキングという、俺の唯一の武器が完全に封印された。
世界が、デジタルな変数から、冷酷で頑強な「物理の現実」へと戻っていく。脳の過熱に喘ぎ、床に膝をついた俺の前に、本物の死が迫っていた。
ガシャァァァン!!!
正面玄関の強化ガラスが、爆薬ではなく、完全なアナログの破城槌(ブレーチング・ラム)によって一瞬で粉砕された。飛び散るガラスの破片を浴びながら、漆黒の戦闘服に身を包んだ兵士たちが、煙の中から次々と滑り込んでくる。
システム公安の特殊強襲部隊「スイーパーズ」。
顔全体を覆う防弾バイザーに、音を立てない重装甲。彼らが構えているのは、レーザーサイトも電子トリガーも搭載していない、完全機械式のアサルトライフルだった。ハッキングによる無力化が一切通用しない、電子戦の天敵たち。
その先頭に立つ男――スイーパー03が、ガスマスクの排気弁を短く鳴らし、冷酷な合成音声で告げた。
「エリア内の生命反応をすべてバグと認定。機密保持プロトコルに基づき、全員をデリート(消去)する」
救助ではない。ただの殲滅だ。彼らのアサルトライフルの銃口が、ロビーの隅で震える人質たち、そして床に膝をつく俺へと一斉に向けられた。
「下がってろ、カイト」
その銃口と俺の間に、一人の影が立ちはだかった。制服のシャツの袖をまくり上げ、両拳にケブラー繊維のバンテージを固く巻き直した男――真壁蓮だ。
「蓮……お前、何をする気だ! 相手は実弾を持った軍隊だぞ!」
「関係ねえよ」
蓮は低く、地を這うような声で言った。彼の自慢の「特殊導電性ナックル」は、先ほどの重装甲兵ブルとの死闘で完全に大破し、ただの焦げた金属片となって床に転がっている。今のアイツの手にあるのは、鍛え上げた己の肉体と、空手の拳だけだ。
「お前のその腕の機械が動き出すまで、百二十秒だろ。その間、俺が一人もここから先へは行かせねえ」
蓮は深く腰を落とし、真壁流実戦空手の「三戦(サンチン)」の構えを取った。全身の筋肉が鋼のように引き締まり、彼の呼吸がロビーの静寂に鋭く響く。
「……無駄な抵抗を」
スイーパー03が冷酷に引き金を引いた。容赦のない機械的な銃撃音がロビーを震わせる。
ダダダダダッ!!!
「走れ、カイト! 紗季と佐藤さんを連れて柱の裏へ!」
蓮は叫ぶと同時に、大理石の床を爆発的な踏み込みで蹴り破り、前方へと地を這うように滑り込んだ。彼は弾丸の軌道を肉眼で見切るかのように、ブルとの戦闘で破壊された大理石の柱の瓦礫の死角へと身を隠す。
激しい銃弾が柱の角を削り、無数の石片が火花を散らして飛び散る。蓮はその粉塵の煙幕を逆に利用した。煙の向こうから、一瞬にして先頭の兵士の懐へと踏み込む。
「せいッ!」
蓮の鋭い叫びとともに、バンテージが巻かれた右拳が、兵士の顎の下、ヘルメットの隙間の無防備なネックガードへと叩き込まれた。骨の砕ける鈍い音が響き、重装甲の兵士が声を上げる暇もなく床へと崩れ落ちる。
「散開しろ! 標的は近接格闘の達人だ、距離を取れ!」
スイーパー03の指示に従い、兵士たちが半円状に散開し、蓮を取り囲むように銃口を向ける。だが、蓮は彼らに照準を合わせる隙を与えなかった。床に転がっていたブルの重い防弾盾を片手で強引に引きずり、それを物理的な遮蔽物として銃弾を弾き返しながら、次の兵士へと突進する。
ズガァァン!!!
盾を叩きつけられた兵士が壁まで吹き飛び、蓮はその反動を利用して跳躍、空中からの鋭い回し蹴りで三人目の銃を叩き落とした。ハックという超常の力を奪われたこの空間で、蓮の泥臭くも圧倒的な「肉体の暴力」だけが、公安の冷徹な死の行進を力ずくで食い止めていた。
(くそっ……リブート、早くしろ……!)
柱の裏で、俺は感覚のない左腕のターミナルを右手で狂ったように叩いていた。だが、画面の文字は非情に明滅を続けるだけだ。
`[REBOOTING... 75s]`
空気中に残留する高濃度の電磁ノイズが、ターミナルの安全回路を刺激し、再起動のプロセスを遅らせている。手動でバイパスコードを入力しようにも、キーボードが信号を一切受け付けない。額から冷たい汗が流れ、目元に血の混じった涙が滴り落ちる。
「ハァ……ハァ……!」
ロビーの中央では、蓮の呼吸が明らかに荒くなっていた。いくら達人級の武道家とはいえ、生身の高校生だ。重装甲の兵士たちを相手に、防弾盾の質量を支え、実弾の射線をかいくぐり続けるスタミナが無限にあるはずがなかった。彼の制服の肩や脇腹は、飛び散るコンクリートの破片で切り裂かれ、じわじわと赤い血が滲み始めている。
それでも、蓮は俺の後ろにある、紗季と佐藤さんが隠れる柱のラインを一歩も割らせなかった。
「カイト……まだ、かよ……!」
蓮が息を吐きながら、四人目の兵士の腕を極め、床に叩きつける。だが、その背後から、別の二人の兵士が同時にアサルトライフルの銃口を蓮の背中に向けた。
「蓮、後ろだ!!」
俺の叫び声と、スイーパー03の冷酷な引き金を引く動作が、完全に重なった。
バァン!!!
乾いた一発の銃撃音が、ロビーの天井に響き渡った。
蓮の身体が、衝撃で大きく跳ね上がった。彼の右肩から、鮮烈な赤い血が吹き出し、白い大理石の床へと点々と滴り落ちる。貫通銃創。蓮は苦痛に顔を歪めながらも、声を出さずに歯を食いしばり、そのまま倒れ込むようにして背後の兵士の脚を払って倒した。
「が、はっ……クソ、が……!」
蓮の右腕が、力なく床に垂れ下がる。肩から流れ出る血が、彼の制服を急速に黒く染めていく。前衛としての防衛ラインが、ついに物理的に崩壊した。
「蓮!!」
俺は柱の影から飛び出そうとしたが、その身体を、スイーパー03の冷たい影が遮った。割れたガラスを踏みしめる重い戦闘ブーツの音が、目の前で止まる。
スイーパー03は、倒れた蓮を一瞥することすらなく、ただ排除すべき「最大のバグ」である俺の前に立ちふさがった。
彼の構えるアサルトライフルの、冷たく黒い銃口が、俺の眉間のわずか数センチ前でぴたりと静止する。銃口の奥にある、螺旋状のライフリングまでが、右目のスマートグラス越しに恐ろしいほど鮮明に見えた。
(終わる……のか、ここで)
俺は動かない左腕のターミナルを見つめた。
`[REBOOTING... 3... 2... 1...]`
リブート完了まで、あと三秒。だが、スイーパー03の指が、アサルトライフルの引き金を絞り込む速度の方が、確実に速かった。
死のコンマ一秒前。引き金が引かれる金属音が、俺の耳に絶望的なスローモーションで響き渡った。
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