酸素の逆流
「ハァ、ハァ……くそ、指が……動け……!」
東京中央銀行の最深部、氷点下に保たれた「オメガ・ノード」の冷気が、容赦なく俺の体温を奪っていく。吐き出す息は白く凍り、キーボードを叩く右手の指先は、すでに感覚を失いかけていた。熱ダメージで麻痺した左腕は、ただの重りのようにだらりと下がっている。
それ以上に深刻なのは、俺の視界だった。極限ハックの代償により、左目の視界は完全に潰れている。網膜に焼き付いた「0」と「1」のバイナリコードが、青白い砂嵐となって不規則に明滅し、脳髄に直接、千枚通しを突き刺されたような激痛を送り続けていた。右目だけでホログラムディスプレイを凝視するが、それすらも低酸素症によるめまいで二重にブレる。
【警告:大金庫内酸素濃度:7.8%。人質全員が窒息死するまで、残り時間:112秒】
「カイトくん、急いで……! 大金庫の奥から、もう子供たちの泣き声すら聞こえなくなったわ。みんな、呼吸が浅くなって……このままだと、あと一分も持たない!」
傍らに膝をつく桐生紗季が、悲痛な声を上げた。彼女は全盲の暗闇の中、その驚異的な絶対音感で、ダクトを通じて漏れ聞こえる人質たちの「命の消えゆく音」を聴き取っていた。彼女の手は、大切なバイオリンケースの取っ手を白くなるほど強く握りしめている。
「わかってる……。今、こじ開ける!」
アラクネを撃破し、手に入れた一時的な管理者権限(Root)。だが、俺のシステムは限界寸前だった。アラクネの論理爆弾を隔離している「サンドボックス」が常時、最大演算帯域の半分を食いつぶしている。処理速度は通常の50%。コマンドの記述速度が物理的に遅い。
俺は右手の指を血がにじむほどキーボードに押し付け、超古代の電脳自律言語「オメガ・スクリプト」を打ち込み始めた。
`import system.facility.ventilatioǹ
`vent = VentilationSystem(target_sector="GreatVault")`
`vent.override_valve(force_flow="INFLOW", air_ratio=1.0)`
一文字でもシンタックスエラーを起こせば、その時点でハックは失敗し、人質は全滅する。右目だけに全神経を集中させ、流れるコードの整合性を脳内でデバッグする。ニューラル・ヒートはすでに69%に達し、こめかみから冷たい汗が流れ落ちた。
「エアー・バルブ・オーバーライド……インジェクション、実行!」
エンターキーを叩きつける。処理進捗を示す青いバーが、もどかしいほどの遅さで100%に達した。
ゴゴゴゴゴ……!
サーバー室の天井を走る巨大な金属配管から、錆びついたボルトがきしむ激しい駆動音が響いた。大金庫室へと繋がる巨大な空気バルブが、防犯AI「ガーディアン・ゼロ」の排気命令を物理レベルで上書きされ、逆方向へと強制的に回転し始める。ダクトの吸引音が消え、次の瞬間、凄まじい勢いで新鮮な酸素が金庫室へと逆流していく風の音が響き渡った。
「流れた……! 空気が、金庫室の中に勢いよく入っていく音がするわ!」
紗季が顔を上げ、歓喜の声を上げた。彼女の耳が、人質たちの喉が空気を得て喘ぐ、微かな蘇生の音を捉えたのだ。
だが、安堵の瞬間は一瞬すら与えられなかった。
「――待って。カイトくん、何かおかしい」
紗季の表情が、一瞬にして凍りついた。彼女はバイオリンケースに耳を押し当てるようにして、ダクトの風音に神経を集中させる。
「風の音の中に、別の音が混じってる……。不快な、金属が擦れ合うような摩擦音。それに……シューッという、高圧の気体が無理やり注入されているような、湿った音がするわ」
「なんだって……?」
俺はスマートグラスの「システム・アイ」の倍率を上げ、天井のダクト配管のトポロジーマップを透視した。空気バルブの逆流により、金庫室へ新鮮な空気が送り込まれている。だが、その吸気口の直前、ダクトの点検用ハッチの座標に、不自然な熱源が張り付いているのが見えた。
スマートグラスの網膜投影に、ガマスクを装着し、全身に不気味な化学兵器のボンベをぶら下げた男のシルエットが浮かび上がる。
「ヴァイパー……! テロ組織の化学兵器専門家か!」
奴は、逆流し始めたダクトの点検口から、直接神経ガスを注入しようとしていた。新鮮な酸素に混ざって、無色無臭の死の気体が大金庫室へ送り込まれれば、人質たちは呼吸を再開した瞬間に即死する。
「バルブを閉めれば窒息死、開ければガスで即死……。ふざけやがって!」
俺の脳裏に、激しい怒りと焦燥が火花を散らした。現在の半減した帯域幅では、ダクトの物理ハッチを遠隔でロックするコマンドのコンパイルは間に合わない。記述完了までに、ガスが金庫室に到達してしまう。
(なら、ガスの『動き』そのものを物理的にフリーズさせる!)
俺は手帳に記された物理定数の数式を脳裏に展開した。挑むのは、空気の密度や粘性係数を直接書き換える、禁忌のハック深度――第3層「流体力学ハック」。
`import system.physics.fluid̀
`fluid = FluidDynamics(target_zone="Duct_Segment_B")`
`fluid.air_density = 50.0`
`fluid.viscosity = 100.0`
「流体力学ハック……インジェクション!」
コマンドを実行した瞬間、俺の胸に凄まじい圧迫感が襲いかかった。肺がコンクリートで固められたかのように重くなり、呼吸が完全に停止する。ハックの反作用(代償)が、俺自身の呼吸器官の流体力学にフィードバックされたのだ。血の混じった唾を吐き捨てながら、俺はスマートグラスの画面を睨みつけた。
ダクト内部の空気の「粘性係数」が極限まで引き上げられ、気流がドロドロのハチミツのように重くなる。ヴァイパーが注入した神経ガスは、粘性を増した空気の壁に阻まれ、ダクトの入り口でピタリと拡散をフリーズされた。だが、これも持って十数秒。俺の肺が持たない。
「行け、デジ・モグラ……! 物理的にバルブをロックしろ!」
俺はポケットから、源さんのジャンク屋で改造した多脚型有線ハッキングロボ「デジ・モグラ」をダクトの隙間へと放り投げた。手のひらサイズの金属蜘蛛が、カチカチと細い脚を駆動させ、暗黒の配管内部を猛スピードで這い進んでいく。
スマートグラスの右半分(唯一生きている右目の視界)に、デジ・モグラの有線カメラが捉えた映像が映し出された。緑色の暗視画面の向こう、ダクトの点検口から、ヴァイパーが差し込んだ真鍮製のガス注入ノズルが不気味に突き出ているのが見える。
ハッチの外では、ガマスクを被ったヴァイパーが、ガスが流れていかないことに首を傾げ、ノズルのバルブをさらに回そうとしていた。
「そこだ……叩き落とせ!」
俺はキーボードの方向キーを右手だけで叩き、デジ・モグラに物理突撃を命じた。デジ・モグラは配管の壁を蹴り、空中を跳躍。内蔵された小型高熱ハンダ溶接機を最大出力でスパークさせながら、ヴァイパーのガスノズルに向けて激突した。
バチィッ! と激しい火花がダクト内で散った。
デジ・モグラの超高温のハンダが、ガスノズルの真鍮製バルブとダクトの金属壁を物理的に一瞬で溶接し、固定する。さらに、デジ・モグラの金属の脚が、ヴァイパーの手元から伸びるガス缶のチューブを物理的に薙ぎ払い、ノズルごとダクトの外へと叩き落とした。
「よし……! 物理ロック、成功!」
ダクトの点検口はデジ・モグラのハンダ溶接によって完全に閉塞され、神経ガスの侵入経路は物理的に遮断された。粘性ハックを解除すると、俺の胸の圧迫感が消え、激しい咳とともに新鮮な空気が肺に流れ込んできた。金庫室には、今度こそ純粋な酸素だけが逆流し、人質たちの呼吸を繋ぎ止めていく。
だが、その安堵の瞬間を、ハッチの向こうからの狂気的な駆動音が打ち砕いた。
カチ、カチ、カチ……と、ダクトの外壁に物理的な「タイマー」がセットされる金属音が、紗季の耳に届いたのだ。
「カイトくん、ダメ! 奴、ダクトの外側に……爆弾を仕掛けたわ!」
「なっ――」
ドォン!!!
ダクトのバルブは間一髪で物理ロックされたが、ヴァイパーが仕掛けたガス爆弾の圧力により、ダクト全体が激しく振動し始める。頭上の金属配管が悲鳴を上げ、天井のコンクリートに不気味な亀裂が走り始めた。
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