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氷点下の論理爆弾

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「ハァ、ハァ……冷える、な……」


吐き出す息が、真っ白な霧となって視界をかすめた。俺――海藤魁人は、凍える体を抱きしめながら、東京中央銀行の地下三階、銀行中央サーバー室「オメガ・ノード」の鉄扉の前にへたり込んでいた。


ここは、世界経済のマネーフローと物理定数を司る超伝導量子サーバーが鎮座する聖域。システムを冷却するための冷気が、室内から吹き抜けのダクトを通じて容赦なく俺たちの体温を奪っていく。室温は氷点下。キーボードを叩く指先が、寒さで急速に感覚を失い始めていた。


「カイトくん、体が震えてる……冷たい……」


全盲の少女、桐生紗季が、いつものバイオリンケースを必死に抱きしめながら、俺の体に寄り添ってきた。彼女の華奢な肩もまた、寒さと低酸素症で小刻みに震えている。


「大丈夫だ、紗季。ここを……ここを突破すれば、みんなを助けられる」


俺は右目だけで前方を睨みつけた。左目の視界は、先ほどの光学ハックの代償により、青と白のバイナリコードが激しく明滅する砂嵐に塗りつぶされている。失われた左の視界は、俺の肉体がデータ破損を起こし始めている冷酷な証拠だった。


だが、感傷に浸っている時間は一瞬すらない。スマートグラスの右上に、真っ赤な文字が冷酷に回転している。


【論理爆弾「ブラック・バグ」起爆まで、残り75秒】


サーバー室の鉄扉に埋め込まれたメインコンソールが、狂ったような警告音を上げ、アラクネの仕掛けた侵入者排除プロトコルが稼働していることを示していた。アラクネ――銀行のシステムを乗っ取り、人質を窒息死させようとしているテロ組織「ボイド・ゲイズ」の専属ハッカー。


『あははは! 生きてレーザー回廊を抜けたんだ? いいおもちゃね、あなた』


スピーカーから、ノイズ混じりの女の声が響いた。サディスティックな、狂気を孕んだ笑い声。アラクネだ。


『でも、そこでおしまい。あなたの安っぽいおもちゃ(ターミナル)のIPアドレスは完全に特定したわ。今からそっちの基板を物理的に焼き切ってあげる!』


その瞬間、俺の左腕に装着されたカスタム・ターミナルが、不気味な高周波の振動を始めた。液晶画面に、無数の赤いエラーウィンドウがポップアップし、視界を埋め尽くしていく。


【警告:異常な高電圧シグナルを検知。CPU温度急上昇中。基板融解のリスク:極高】


「くっ……!」


左腕が、氷点下の寒さとは真逆の、不気味な熱を帯び始める。アラクネが送り込んできたのは、ハードウェアの制御プログラムを暴走させ、バッテリーやコンデンサを強制ショートさせて物理的な爆発を引き起こす、極悪な論理爆弾だった。脳の過熱を示すニューラル・ヒートはすでに68%。これ以上、端末に熱負荷がかかれば、俺の脳神経ごと焼き切られる。


(正面から暗号を解読する時間はもうない……。奴の攻撃コードが俺のメインメモリに到達する前に、隔離する!)


感覚のない指先を、俺は死に物狂いでキーボードの上で走らせた。右目だけで、流れるコードの文字列を追う。氷点下の冷気で指が凍りつき、思うように動かない。カチ、カチと、打鍵音がもどかしいほど遅く響く。


(動け……動いてくれ、俺の指!)


俺は奥歯を噛み締め、オメガ・スクリプトの防御メソッドを記述し始めた。


`import system.security.sandbox̀

`sandbox = Sandbox(allocated_memory=0.5)`

`sandbox.deploy(target=incoming_payload)`


「サンドボックス展開……インジェクション、実行!」


キーを叩きつけた瞬間、俺の周囲に幾何学的な青い光のシールドが展開され、ターミナルの異常振動がピタリと収まった。アラクネの送り込んできた破壊プログラムが、俺のメインシステムから完全に隔離された仮想領域(サンドボックス)へと吸い込まれ、無害化されたのだ。


【システム:サンドボックス展開成功。脅威プログラムの隔離完了】

【警告:仮想領域の維持のため、システムの最大演算帯域の50%が常時占有されます。処理速度が半減します】


「はぁっ、はぁっ……防いだ、ぞ……」


だが、代償は大きかった。ターミナルの処理能力は半分に低下し、記述速度が物理的に遅くなる。おまけに、氷点下の寒さで手の感覚はさらに麻痺していく。サンドボックスが敵の攻撃エネルギーで飽和し、崩壊するまで、あと数十秒もない。


『な、何よこれ……!? 私のウイルスが、隔離された……!?』


スピーカーの向こうで、アラクネの余裕に満ちた声が驚愕へと変わった。


「お前のコードは、スピード重視で排他制御が甘いんだよ」


俺は右目だけで、アラクネの攻撃パケットのヘッダ情報を睨みつけた。彼女が俺のIPを特定して攻撃を仕込んできたということは、逆に言えば、その攻撃経路を辿れば彼女の接続ポートを特定できるということだ。


(親父の手帳にあった、リバースコンパイルのロジックを応用する……。アラクネ、お前の端末のIPを逆探知(トレース)してやる!)


俺は震える指で、逆コンパイルのコマンドを打ち込み始めた。処理速度が半減しているため、プロセスの進捗バーの動きが遅い。焦燥感が、冷たい汗となって背中を伝う。


`decompile.trace_route(incoming_session)`

`target_ip = trace_result.get_ip()`

`target_port = trace_result.get_port()`


【逆探知完了。標的IP:192.168.12.44、ポート:8080 を捕捉】


「見つけたぞ、アラクネ」


俺は口元に、冷酷な笑みを浮かべた。今度は、こちらの番だ。俺がハッカー「K」として活動していた頃に自作した、最凶の破壊ウイルス――論理爆弾「ブラック・バグ」の起動シークエンスを入力する。


このウイルスは、相手の端末のCPUを強制的に100%で稼働させ、冷却ファンを停止させてマザーボードを物理的に発火・爆破する。アラクネが俺にやろうとしたことを、そのまま倍にして返す。


`import virus.black_bug̀

`black_bug.inject(target_ip, target_port)`

`black_bug.execute_overflow()`


「消えろ……!」


エンターキーを叩きつけた。俺のターミナルの全帯域が瞬間的に消費され、青いノイズが放水路の壁面を走る。


『キャ、アアアアアアアアアアアアア――っ!?』


スピーカーから、アラクネの耳を突き刺すような悲鳴が響き渡った。続いて、バチバチという激しいスパーク音と、何かが物理的に爆発する破裂音。どうやら、彼女の自慢のモバイルターミナルが、キーボードごと彼女の目の前で物理的に爆破されたらしい。


スピーカーの通信が、完全な砂嵐の音へと変わった。電脳戦の、完全な勝利だった。


【システム:敵対ハッカーの無力化を確認。銀行システム管理者権限(一時的Root)を掌握しました】


「やった……のか?」


俺は、感覚を失った左腕を抱え、その場にへたり込んだ。アラクネを倒し、ついにこの銀行のシステム制御権を手に入れたのだ。


だが、その勝利の余韻をかき消すように、紗季が青ざめた顔で俺の腕を強く引いた。


「カイトくん、喜んでる場合じゃないわ! 大金庫室の人たちの呼吸の音が、どんどん弱くなってる……! もう、限界よ!」


スマートグラスの画面を見る。大金庫内の酸素残量を示すゲージは、すでに危険域の黄色から、死を意味する赤色へと変わろうとしていた。


【警告:大金庫内酸素濃度:8%。人質全員が窒息死するまで、残り時間:120秒】


アラクネは倒したが、暴走した防犯システムによる真空化プロトコルは、まだ止まっていない。残り2分。人質たちの命を救うため、俺は凍える指で、次なる禁忌の環境ハック――空気バルブの強制解除コマンドの記述へと指をかけるのだった。

HẾT CHƯƠNG

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