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光を曲げる防壁

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「ゴォォォォォ……!」


頭上のダクトの奥から響く排気音は、すでに空気を吸い込む音ではなく、真空の虚無が立てる無慈悲な咆哮へと変わっていた。


東京中央銀行の地下金庫室通路。防火隔壁によってロビーから分断されたこの閉鎖空間で、酸素は確実に、そして急速に失われつつあった。スマートグラスの右上に表示されたデジタルタイマーが、血の滴るような赤色で冷酷なカウントダウンを刻んでいる。


【真空化完了まで、残り時間:3分12秒】


「はぁ、はぁ……っ、げほっ!」


俺――海藤魁人は、肺を内側から引き裂かれるような窒息感にのたうち回り、コンクリートの床に四つん這いになった。呼吸をしようと口を開けても、入ってくるのは薄く冷たい、乾ききった気体だけだ。肺胞が酸素を求めて悲鳴を上げている。脳の酸素欠乏が、ハッキングによる神経負荷をさらに数倍へと跳ね上げていた。視界の端で明滅する「ニューラル・ヒート」の数値は58%。限界値である60%――意識混濁の境界線まで、もう猶予はなかった。


「カイト、くん……」


全盲の少女、桐生紗季が、自身の命よりも大切そうにバイオリンケースを抱きしめたまま、俺の制服の袖を弱々しく掴んだ。彼女の指先は酸素欠乏による低体温症で氷のように冷たく、小刻みに震えている。


「大丈夫だ、紗季。まだ、手はある……」


俺は掠れた声で彼女を安心させようとしたが、壁際でぐったりと座り込んでいる警備員の佐藤健太さんは、すでに半ば意識を失いかけていた。右腕の銃創から流れる血が床に赤黒い水溜まりを作っている。佐藤さんを救うためにも、一秒の遅れすら許されない。


(扉をハックして開けるのは、質量制限エラーのせいで不可能だ。なら、この真空化を命令している中央サーバー室の『オメガ・ノード』を直接叩くしかない)


ダクトの奥へと送り込んだ自律型ドローン「ビット」のカメラ映像が、俺のスマートグラスにリアルタイムで投影されている。それは、ダクトの分岐点の先を完全に封鎖する、格子状の深紅の熱線レーザー網――『レッド・グリッド』だった。摂氏千二百度を超える光学の檻。触れた物質を瞬時に分子レベルで蒸発させる即死トラップだ。ビットがこれに接触すれば、中継器(プロキシ)としての機能ごと一瞬で鉄屑に変わる。


「レーザー発振器自体のシステムをハックして停止させるか?」


俺は右手の指をターミナルのキーボードに滑らせかけたが、即座に思考を破棄した。発振器の制御基板は完全なオフライン回路、あるいは国家公安レベルの暗号化領域で保護されている。この薄い酸素の中で、それを解読する時間など1ミリ秒たりとも残されていない。


(機械を止めるのが無理なら……光そのものの『ルール』を書き換える)


俺の脳裏に、失踪した父親の残したシステム手帳の記述が蘇った。オメガ・システムは世界の物理法則をデジタルコードで規定している。光の直進性、速度、そして――屈折率。


(光が直進するのは、それを規定する空間の『屈折率』が一定だからだ。なら、俺の周囲の空気の屈折率をハックして極端に歪めれば、レーザーの光線は俺を避けて曲がるはず……!)


それは、力学定数のハックよりも遥かに複雑な、第2層「光学定数ハック」の領域だった。スマートグラスの照準をレッド・グリッドへと合わせ、レーザー光の波長と空気の屈折率パラメーターをスキャンする。


【スキャン完了:対象オブジェクト・光学定数『Refractive Index』】

【難易度:極高。現在の記述速度では、演算完了までに60秒を要します】


「60秒……? 遅すぎる!」


その間に俺たちの脳は酸素欠乏で完全に死に至る。一瞬の迷いも許されない極限状態。俺は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、ターミナルに禁忌のコマンドを打ち込んだ。


`brain.clock_up(10x)`


【警告:クロックアップ・タイピングを起動します。脳神経パルスを強制加速。脳温度が急激に上昇します。生命維持に深刻なリスクがあります】


「構うな、実行(エンター)!」


瞬間、視界が青いグリッチノイズで激しく爆発した。こめかみを極太の焼きゴテで直接貫かれたような、凄まじい熱量と激痛が脳髄を駆け抜ける。肺の痛みが遠のき、周囲の音が超低音のうなり声へと変化していく。体感時間が10倍に引き延ばされた、スローモーションの世界。


ダクトから吸い込まれていく塵の動きが、目に見えるほどゆっくりと静止していく。その静寂の中で、俺の指先だけが残像を残してキーボードの上を狂ったように踊り始めた。カチカチカチカチと、鼓動の隙間を埋めるような超高速の打鍵音が、引き延ばされた時間の中で響く。


`import optics.refractioǹ

`physics.optics.air_density = 1.2`

`optics.set_refractive_index(area_around_me, curved_value)`


(くそっ、頭が割れそうだ……!)


脳温度が急激に上昇していくのがリアルタイムでわかる。スマートグラスの画面が真っ赤に染まり、警告アラートが網膜を刺す。


【警告:ニューラル・ヒート62%……65%。脳温度40.5度。これ以上の負荷は不可逆な細胞破損を招きます】


手の震えが止まらない。感覚を失った左腕が、逆流する高熱で悲鳴を上げている。その一瞬の焦燥が、コードの変数記述にわずかな狂いを生じさせた。


「あっ――」


屈折率の計算式が、コンマ数ミリ秒分だけズレた。その瞬間、ダクトの奥から伸びる熱線レーザーの端が、俺の都立東高校の制服の、右袖の先にかすり傷のように接触した。


ジッ、という音すらなく。熱を感じる間もなく、制服の紺色のウール生地が、一瞬にして消滅して白い灰にすらならず消え去った。皮膚のわずか数ミリ手前。もし、あと一歩踏み込んでいたら、俺の右腕は骨ごと存在を消去されていた。背筋に氷水を浴びせられたような、凄まじい冷や汗が全身から吹き出す。


「カイトくん! 嫌、死なないで!」


紗季の悲鳴のような叫びが、スローモーションの暗闇の中で響いた。彼女は目が見えないはずなのに、俺の肉体が消滅の危機に瀕していることを、空間の歪みが発するバグの「音」で正確に聴き取っていた。


(死ぬわけにはいかない……。美咲を一人にするわけにはいかないんだ!)


俺は痛む頭を無理やり稼働させ、エラーを吐き出した数式を脳内で再計算した。光を曲げるためには、空間の誘電率と透磁率のバランスを完全に調和させなければならない。澁澤さんの手帳にあった、あの数式の記述配列を脳裏に描き直す。


`optics.set_refractive_index(air_around_me, 4.5)`

`refraction.shield_on(my_body, 1.5m)`


文字通り、血を吐くような思いで、俺は最後のエンターキーを叩きつけた。


ピシィィィィン――!


金庫室のダクト内部で、あり得ない物理現象が発生した。俺のカスタム・ターミナルから放たれた青いバイナリの光波が、周囲の空気に直接干渉していく。俺たちの周囲半径1.5メートルの空間が、まるで肉厚のレンズ、あるいは歪んだガラスの球体のようにぐにゃりと歪曲した。光の進路そのものを規定する『屈折率』が、部分的に書き換えられたのだ。


直進していたはずのレッド・グリッドの深紅のレーザー光線が、その歪んだ空間の境界線に接触した瞬間、直角に近い角度で美しく湾曲した。光の刃は俺たちの肉体を避けるように球面に沿って流れ、背後のダクト壁面へと受け流されていく。


これこそが、光学定数ハックによる絶対防御壁――『レーザー屈折シールド(Refraction Shield)』。


「紗季、俺に掴まってろ! 走るぞ!」


俺は屈折シールドを展開したまま、紗季を強く抱き寄せ、佐藤さんのマスターキーをポケットで揺らしながら、レーザーの檻の中へと飛び込んだ。周囲は摂氏千度を超える光の刃で埋め尽くされている。シールドの境界線で曲げられたレーザーが、俺の髪の毛のすぐ数センチ外側をかすめて通り過ぎていく。凄まじい熱風が皮膚を炙るが、光自体は俺たちに決して触れない。


一歩、また一歩。俺たちは即死の罠で満ちたレーザー回廊を、無傷で、物理法則をねじ曲げながら突き進んでいく。ビットがそのシールドの影に隠れるようにして、俺たちの先頭を先導していく。


そして、ついにレーザー網の向こう側――中央サーバー室の頑丈な鋼鉄の扉の前に到達した。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


ダクトの非常口から、俺たちはサーバー室の床へと転がり落ちた。それと同時に、限界に達していた「クロックアップ・タイピング」を強制解除する。


引き延ばされていた時間が一気に元の速度へと戻り、周囲の音が鼓膜を激しく叩いた。それと同時に、耐え難い代償が俺の肉体を襲った。


「が、はっ……!?」


突然、左目の奥に、熱した針を直接突き刺されたような激痛が走った。視神経が焼き切れるような感覚。悲鳴を上げる間もなく、左目の毛細血管が破裂し、温かい血が目元から頬へと伝って流れ落ちた。


「カイトくん!? 血の匂いが……カイトくんの体から、激しいエラーの音が聞こえる!」


紗季が盲目の目で俺を抱き起こそうと、必死に手を伸ばす。しかし、俺は彼女に答えることができなかった。俺の左目の視界が、急速に光を失い、青と白のバイナリコード(0と1)が激しく明滅するノイズの嵐で染まっていく。現実の景色が消え去り、ただ壊れたディスプレイのようなノイズだけが左目を支配していた。


(目、が……見えない……。左腕だけじゃなく、俺の生体データまで破損し始めてるのか……?)


これが、物理法則をハックした代償。質量保存の法則の壁を越えるために、俺の肉体がシステムに支払った「存在定義の負債」の始まりだった。右目だけで辛うじて捉えた前方には、何万本もの青い光ファイバーが脈動する、巨大な水冷式サーバー室『オメガ・ノード』がそびえ立っている。


だが、その安堵も束の間、サーバー室のメインコンソールから、不気味な警告音が鳴り響いた。


【警告:外部接続を検知。ファイアウォール「アラクネ」が最終論理防壁を起動しました】

【対侵入者用・論理爆弾「ブラック・バグ」のプライミングを開始。起爆まで、残り90秒】


ノイズの走る視界の向こうで、サーバー室の扉が、アラクネの仕掛けた最後の防壁によって重々しくロックされる音が響いた。

HẾT CHƯƠNG

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