窒息へのカウントダウン
酸素が消えるまで、あと四百五十秒。死のカウントダウンが、今、完全に始まった。
「ゴォォォォォ……!」という、鼓膜を抉るような重低音が地下通路に響き渡る。通気ダクトの排気口が、まるで飢えた獣の顎のように、周囲の空気を猛烈な勢いで吸い込み始めていた。
気圧の急激な低下が、容赦なく俺たちの肉体を襲う。耳の奥でピシピシと不快な音が鳴り、強烈な目まぐるしさが視界を歪めた。肺の中の空気が無理やり引きずり出されるような錯覚に、俺――海藤魁人は、思わず胸を押さえて膝をついた。
「が、はっ……げほっ!」
隣では、負傷した警備員の佐藤健太さんが壁に背を預けたまま、激しく咳き込んでいた。右腕の銃創からの出血に加え、酸素濃度の低下が彼の体力を急速に奪っている。その顔色は、すでに土気色に変色し始めていた。
「カイト、くん……呼吸が……上手く、できない……」
全盲の少女、桐生紗季がバイオリンケースを細い両腕で抱きしめたまま、苦しげに喘いでいた。彼女の長い睫毛が、恐怖と酸素欠乏による苦痛で小刻みに震えている。光を失ったその瞳が、見えない暗闇の中で彷徨うように俺を探していた。
「紗季、深く息を吸おうとするな! ゆっくり、浅く呼吸するんだ。肺に余計な負担をかけるな!」
俺は彼女の肩を抱き寄せ、少しでも気圧の変化から守るように身を縮めさせた。スマートグラスのレンズ越しに見える世界は、赤く点滅する警告プロンプトで埋め尽くされている。
【警告:気圧低下中。現在の酸素濃度:16.2%。生存可能時間:約6分】
【防犯システム「ガーディアン・ゼロ」:排気プロトコル・オメガ継続中】
「クソッ、あの防犯AIめ……!」
俺は左腕のカスタム・ターミナルを叩いた。アラクネの逆探知は退けたが、この銀行を支配する自律防犯AI『ガーディアン・ゼロ』は、侵入者を抹殺するために大金庫室エリア全体の真空化を加速させている。人質の安全など、最初から計算式に入っていないのだ。これが、この銀行の裏に隠された「システム」の冷酷な本質か。
(まずは、この防火隔壁をハックして物理的にこじ開ける!)
俺はターミナルの物理キーボードに指を走らせた。左腕の火傷の痛みが神経を焼き切ろうとするが、アドレナリンがそれを無理やり麻痺させている。現在の俺の権限は『デバッガー・ランクE(ユーザー権限)』。単純な物理変数を一つだけ書き換えることができるはずだ。標的は、目の前を塞ぐ肉厚五十センチの超合金製防火隔壁。
`physics.set_mass(target_gate_A, 0.0)`
`door.unlock(target_gate_A)`
エンターキーを叩きつける。だが、ターミナルの画面に非情な赤いエラーコードがフラッシュした。
【Write Error: オブジェクト質量が許容上限を超過しています】
【現在の権限:デバッガー・ランクE では、質量 1,000kg 以上のオブジェクトに対する直接の定数改変は実行不可能です】
「嘘だろ……! 質量制限に引っかかったか!」
隔壁の質量が大きすぎる。ランクEの貧弱な演算帯域幅(パケット)では、この巨大な物理構造を書き換えるための数式を処理しきれず、システムに拒絶されてしまうのだ。無力感が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……カイトくん、無駄よ」
紗季が俺の制服の袖を弱々しく掴んだ。
「この隔壁の向こう側から、巨大な金属のロックが物理的に噛み合っている音がする。私の耳には、それがシステムで制御されているのではなく、完全にアナログな『重力落下式のデッドボルト』として落ちた音が聞こえたわ。電子的な信号じゃ、もうあのボルトは動かせない……」
「アナログの、デッドボルト……」
俺はポケットの中の「マスター物理キー」を握り締めた。佐藤さんから託されたこの鍵束なら、物理的に扉を開けられるかもしれない。だが、この巨大な隔壁の鍵穴は、向こう側のロビー側にある。こちらから物理的にアプローチする手段はない。
(扉が駄目なら、排気システムそのものを止めるしかない。この真空化の命令を出しているのは、中央サーバー室の『オメガ・ノード』だ)
スマートグラスのトポロジーマップを睨む。ここから中央サーバー室までは、肉厚のコンクリート壁を隔てて直線距離で約三十メートル。しかし、人間が通れる通路はすべてロックされている。残された唯一の物理的ルートは――頭上の通気ダクトだけだ。
「佐藤さんから貰ったマスターキーを使う!」
俺は通路の壁面を見上げ、直径八十センチの金属製ダクトの点検用ハッチを見つけた。ポケットから真鍮製のマスターキーを取り出し、錆びついた鍵穴に差し込んで回す。ガチリ、と鈍い金属音がして、ハッチが手前に開いた。ダクトの奥からは、凄まじい風速で空気が吸い込まれていく轟音が響いている。
「ハァ、ハァ……カイト、これを使って」
俺は首元から自律型ドローン「ビット」を起動した。手のひらサイズの球体ドローンが、青い光を放ちながらホバリングを開始する。
「行け、ビット! ダクトの奥へ侵入して、中央サーバー室への最短有線接続ルートを探索しろ!」
俺の音声コマンドを受け、ビットは金属製のダクトの中へと吸い込まれるように飛び込んでいった。スマートグラスの視界の端に、ビットの超小型カメラが捉えた映像がリアルタイムで投影される。狭く、埃っぽい金属の迷路。ビットのセンサーが周囲の物理演算パラメーターをスキャンし、ダクトの構造を青い3Dワイヤーフレームで描き出していく。
【ビット:探索ルート同期中。中央サーバー室まで、残距離22メートル】
「よし、いける……!」
だが、俺たちの残された酸素は急速に枯渇しつつあった。気圧の低下はさらに悪化し、肺が内側から押し潰されるような苦しさに、俺は壁に手を突いて激しく喘いだ。視界の端で「ニューラル・ヒート」が58%に上昇している。呼吸困難による脳の酸素欠乏が、ハッキングによる神経負荷をさらに倍増させていた。
(このままじゃ、ビットがサーバー室に到達する前に俺たちの意識が飛ぶ。少しでも気圧の低下を遅らせないと……!)
俺はターミナルのキーボードに指を走らせた。ランクEの権限を限界まで絞り出し、俺たちのいる地下通路の『空気の流出速度』を規定する物理定数を局所的にハックする。
`physics.fluid.air_density = 1.2`
`ventilation.outflow_rate(area_sub_corridor) = 0.1`
俺たちのいるエリア周辺の空気分子の粘性係数を一時的に引き上げ、排気ダクトへ吸い込まれる速度を強制的に遅延させる数式。記述完了と同時に、エンターキーを叩いた。
ピシィィン! というガラスが軋むようなデジタルノイズが空間に走り、ダクトの吸引音がわずかに弱まった。スマートグラスの酸素低下アラートが、一時的にその減少速度を鈍らせる。
【効果適用:局所排気遅延。生存可能時間:1分40秒延長】
「はぁ……はぁ……っ!」
成功した。だが、その代償は一瞬にして俺の肉体を襲った。左腕のターミナルからパチパチと青い火花が散り、強烈な高熱が腕の皮膚を焼く。脳神経が直接電子レンジで加熱されているような、恐るべき激痛に俺は悲鳴を上げそうになった。
「う、ぐあああああっ……!」
「カイトくん! ダメ、それ以上ハックしちゃダメ! あなたの頭の中から、金属が擦れ合うような凄まじいバグの音が聞こえるわ!」
紗季が俺の体を抱きしめ、必死の形相で叫んだ。彼女の絶対音感は、俺の脳細胞がデジタル過負荷(ニューラル・ヒート)で焼き切れかけている「音」を聴き取っていたのだ。脳温度が41度を超えかけている。
「大丈夫、だ……まだ、耐えられる……。ビット、サーバー室はまだか!?」
俺はスマートグラスに表示されたビットのカメラ映像を睨みつけた。ダクトの奥深く、あと数メートルで中央サーバー室の排気口に到達するというその時、ビットのセンサーが異常な「光学エネルギー」を感知した。
【警告:前方に極めて強力な熱源を検知。衝突危険】
カメラ映像の奥が、不気味な深紅の光で満たされていた。ダクトの分岐点の先に展開されていたのは、格子状に張り巡らされた高出力熱線レーザー網――『レッド・グリッド』だった。
「な、んだよ……あれは……」
防犯AI「ガーディアン・ゼロ」は、ダクトからの侵入をも完全に予測していたのだ。触れた物質を一瞬で蒸発させる赤色レーザーの檻が、ダクトの全域を完全に封鎖している。ビットのセンサーが、レーザーの表面温度が摂氏千二百度を超えていることを示していた。これに触れれば、ドローンなど一瞬で鉄屑に変わる。
中央サーバー室への物理的接続ルートは、完全に遮断された。そして、俺たちがハックで稼いだわずかな時間も、非情に溶けて消えていく。
【真空化完了まで、残り時間:3分12秒】
「嘘、だろ……」
目の前を塞ぐ、触れれば即死の赤い光の網。呼吸を奪う真空の地獄の中で、俺たちの生存の道は、完全に閉ざされようとしていた。
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