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パノプティコン・ネット

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ズゥゥン……という重苦しい金属音が、閉ざされた地下通路に虚しく響き渡った。


ロビーと地下金庫室を隔てる防火隔壁が完全に閉鎖され、テロリストたちの怒号は遮断された。しかし、俺たちを包む静寂は、救いなどではなかった。暗い通路の冷たい空気が、肌を刺すように冷え込んでいく。


「はぁ、はぁ……っ」


俺――海藤魁人は、コンクリートの床に倒れ込んだまま、激しく胸を上下させた。左腕が熱い。いや、熱いという生易しいものではない。皮膚を直接焼きゴテで抉られているような激痛が、拍動に合わせて脳を揺さぶる。摩擦という『運動を阻害する物理定数』をゼロに書き換えた代償――質量保存の法則に基づくエネルギーの逆流が、いまだに俺の肉体を蝕んでいた。


ハッキング・スマートグラスの視界の端で、脳の過熱状態を示す「ニューラル・ヒート」の数値が50%のラインで不気味に明滅している。そして、その下には、血のように赤いカウントダウンが刻まれていた。


【金庫室内真空化まで、残り14分42秒】


「カイトくん……大丈夫……?」


暗闇の中、全盲の少女、桐生紗季がバイオリンケースを抱きしめたまま、俺の様子を窺うように顔を向けた。彼女の瞳には光が宿っていない。しかし、その耳は、俺の荒い呼吸や、ターミナルの冷却ファンが悲鳴を上げて回る金属音を正確に捉えていた。


「ああ、なんとか……動ける。それより、一刻も早くこのエリアの制御システムを見つけないと、十五分後には俺たち全員、窒息死することになる」


立ち上がろうとした瞬間、左肩に激痛が走った。先ほど壁に激突したときの打撲痕だ。痛みを押し殺し、俺は壁に手を突いて体を起こした。スマートグラスの「システム・アイ」を起動する。だが、この頑丈なコンクリートに囲まれた地下通路は、電波の通りが最悪だった。外部の進藤陸からの支援通信も、ここではノイズに掻き消されて届かない。


その時、通路の奥から、低いうめき声と衣服が擦れる音が聞こえた。


「誰だ……!?」


俺はとっさに紗季を背後に庇い、警戒の姿勢をとった。テロリストの哨戒兵が先回りしていたのか?


しかし、暗闇の奥にスマートグラスの赤外線センサーを向けると、そこに倒れていたのは武装した兵士ではなかった。白髪交じりの、がっしりとした体格の男が、血に染まった右腕を押さえてコンクリートの壁に寄りかかっていた。東京中央銀行の警備員の制服――佐藤健太さんだ。


「うぐっ……君たちは……ロビーの人質か……?」


佐藤さんは苦しげに息を吐きながら、俺たちを見上げた。その傍らには、テロリストに奪われ、叩き割られた無線機が転がっている。


「佐藤さん、怪我を……! すぐに応急処置を――」


「いや、私のことはいい……。奴らは、銀行の最深部にある『オメガ・システム』の制御権を狙っている。防犯AIが暴走した今、この地下通路は数分で真空の地獄になるぞ……」


佐藤さんは激しく咳き込みながら、腰のベルトから重々しい真鍮製の鍵束を取り外した。金属同士が触れ合う、硬質な音が静かな通路に響く。


「これを持っていけ……。銀行の創設時に作られた、電子ハックに依存しない完全なアナログのマスターキーだ。これがあれば、地下のすべての物理扉や非常用ダクトを強制的に開閉できる。システムが完全に死んでも、物理的な鍵だけは裏切らない……!」


手渡された「マスター物理キー」は、ずっしりとした冷たい質量を俺の右手に残した。デジタル全盛のこの時代に、あえて残された「物理的な絶対権限」。これがあれば、AIの制御をバイパスして物理的に扉を開けられるかもしれない。


「ありがとうございます、佐藤さん。必ず、あなたも一緒にここから助け出します」


俺は鍵束をポケットに押し込み、通路の壁面にあるローカルのシステム保守用端子へと向かった。錆びついた金属カバーを剥ぎ取り、ターミナルから伸びる光ファイバーケーブルを直接ポートに突き刺す。


カチカチカチ、と俺の右手がキーボードの上で踊り始めた。左腕の感覚は麻痺しているが、右手だけでもタイピングは可能だ。目標は、銀行内の防犯カメラシステムを掌握し、テロリストたちの配置をリアルタイムで可視化する独自の監視ネットワーク――『パノプティコン・ネット』の再構築。


`import bank.security.camera as cam̀

`panopticon = cam.Network()`

`panopticon.override_protocol(auth_DNA)`


スマートグラスの視界に、銀行内のトポロジーマップが展開されていく。ロビー、地下通路、金庫室前。数千のカメラフィードが、俺のターミナルに吸い込まれていく。よし、いける――そう思った瞬間、スマートグラスの画面が激しく明滅し、青いノイズが走った。


【警告:不正な介入を検知。マスターサーバーからの強制切断プロトコルが作動中】


「しまっ……!?」


ターミナルの液晶画面に、不気味な蜘蛛の糸を模したプログラムコードが、滝のように流れ落ちてきた。


アラクネ。ボイド・ゲイズのお抱えハッカーだ。俺がシステムのカメラ回線に侵入したことを、彼女の監視AIが検知したのだ。敵の凄まじいタイピング速度が、回線を通じて俺のターミナルに牙を剥く。


`session.terminate(target_IP)`

`access_lock.apply()`


アラクネは、俺の接続セッションそのものをマスターサーバーから強制遮断(キック)しようとしていた。一度回線を切られれば、二度とカメラシステムには侵入できない。それどころか、俺の物理位置が特定され、クロウたちにこの場所が露呈する。


「ハッカーK……見つけたわよ、ネズミ野郎。大したハックだけど、私のオクタコアの帯域に勝てると思っているの?」


合成された女の声が、スピーカーから嘲笑うように響いた。同時に、アラクネは大量のダミーパケットを俺の接続ポートに向けて連射する。DDoS攻撃だ。毎秒数億バイトのデータゴミが俺のスマートグラスの描画エンジンを直撃し、視界が真っ白なノイズで埋め尽くされていく。


「くっ、うあぁぁ……!」


処理限界を超えたスマートグラスが異常発熱し、こめかみに強烈な熱線が走る。脳が沸騰するような痛みに、俺はキーボードの上で指を震わせた。アラクネの圧倒的なサーバー帯域幅に、ゲスト権限の俺が正面から立ち向かうのは無謀すぎる。防壁が、一枚、また一枚と剥がされていく。


「カイトくん、耳を澄まして……!」


背後で、紗季がバイオリンを構えた。彼女は楽器の弦に弓を当て、静かに、しかし極めて鋭い一音を奏でた。キィィン……という、ガラスが擦れ合うような高周波の旋律が、地下通路のコンクリート壁に反響する。


「ノイズの中に、規則的な機械の唸り音が混ざっているわ。この通路の先……サーバー室の冷却ファンの回転速度が、特定の周波数で共鳴している。そして、そのファンの振動を中継して、もう一つの電子信号がこの回線に干渉している……!」


「……! 紗季、それだ!」


紗季の絶対音感は、電脳世界のデータストリームが引き起こす物理的な「システムノイズ」を完璧に聴き分けていた。アラクネのハッキングは、銀行のマスターサーバーを経由しているのではない。彼女は、この銀行の地下にあるローカルの『オメガ・ノード』を中継基地として利用し、そこから俺に攻撃を仕掛けているのだ。


そして、その中継ノードの冷却ファンが発する物理的な振動周波数の中に、アラクネの接続プロトコルの「ポート番号」が、干渉ノイズとして漏れ出ていた。


「ポートは……22045! ターゲットの脆弱性は、ローカルサーバーのバッファ管理領域だ!」


俺はスマートグラスのノイズを無視し、紗季が指し示した「物理的座標」に対応するネットワークポートへと、逆コンパイルの照準を合わせた。アラクネはスピード重視の汚いコードを書いている。高速だが、セッションの排他制御が甘い。俺は、彼女がDDoSパケットを送信するコンマ数ミリ秒の「隙間」を狙い、キーボードを叩いた。


`log.purge_all(target_session)`

`session.redirect(port_22045, void_address)`


「これで……消えろ!」


俺はエンターキーを強く叩きつけ、自身が記述した『ログ消去プロトコル』を実行した。


一瞬の静寂。


次の瞬間、俺のターミナルを襲っていた大量のデータゴミが、嘘のように完全に消失した。アラクネの接続ログは、俺がインジェクションした消去コードによってシステムから跡形もなく塗りつぶされ、彼女のハッキングセッションは虚無のIPアドレス(Void)へと強制転送された。


「なっ……!? 私のセッションが消去された……!? どこへ行ったの、ネズミ――」


アラクネの通信が、ブツリと完全に切断された。俺の接続ログを逆探知する彼女の追跡も、これで完全に遮断された。勝ったのだ。


ハッキング・スマートグラスの画面が、クリアな青色へと戻っていく。そして、掌握した防犯カメラの映像が、俺の網膜に3Dホログラムとして重ね合わされた。ロビーにいるテロリストたちの位置、彼らの視線の向き、そしてアサルトライフルの射線が、青いワイヤーフレームでリアルタイムに投影されていく。


『パノプティコン・ネット』の構築完了だ。


「やったわね、カイトくん。キーンという嫌な音が消えて、システムがあなたの言うことを聞いてる……」


紗季がバイオリンの弓を引き、少しだけ安堵したような笑みを浮かべた。佐藤さんも「素晴らしい……」と、驚愕の目で見つめている。


しかし、俺たちの勝利の余韻は、一瞬にして打ち砕かれた。


カチ、という不気味なリレー回路の作動音が、天井のスピーカーから聞こえた。直後、通路の壁に設置された防犯用の警告ランプが、それまでの静かな回転を止め、血のように真っ赤な光を放ちながら、狂ったように激しく明滅し始めた。


ウゥゥゥゥン! ウゥゥゥゥン!


鼓膜を押し潰すような、大音量の非常警報が地下通路に鳴り響く。スマートグラスのカウントダウンタイマーが、ノイズとともに激しく明滅した。


【警告:不正な管理者権限の強奪を検知。防犯AI「ガーディアン・ゼロ」の自己防衛プロトコルが加速します】


【真空化完了までのタイムリミットを短縮します】


視界のタイマーが、一瞬にして書き換わる。


【残り時間:12分15秒 ――> 7分30秒】


「なっ……時間が半分に減った……!?」


通路の通気口から、ゴォォォ……という、空気が激しく吸い出される不気味な吸引音が聞こえ始めた。気圧の急激な低下により、鼓膜が内側から破裂しそうな激しい痛みが走る。空気が、酸素が、俺たちの周囲から急速に奪われていく。


防犯AI「ガーディアン・ゼロ」が、俺のパノプティコン・ネット展開に過剰反応し、人質の窒息死プロセスを狂気的に加速させたのだ。


赤い光が明滅する通路で、俺は激しい耳鳴りに耐えながら、狂ったように吸引音を立てる通気ダクトを見上げた。酸素が消えるまで、あと四百五十秒。死のカウントダウンが、今、完全に始まった。

HẾT CHƯƠNG

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