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摩擦係数ゼロの滑走

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「チッ……! バイザーがバグったか!?」


不気味なカラスのマスクを剥ぎ取り、烏丸蓮――クロウが床に叩きつける。その素顔に浮かぶのは、想定外のシステムエラーに対する剥き出しの怒りだった。人質の中に潜むハッカーの存在を疑うクロウの鋭い視線が、ロビー全体をなめるように走る。


魁人はカウンターの影で息を潜め、自身の左腕に固定された「カスタム・ターミナル」のキーボードに指を置いたままでいた。こめかみを突き刺すような激しい頭痛。脳波と同期したデバイスが発する熱が、じわじわと体温を押し上げていく。「ハッキング・スマートグラス」の視界の端には、無慈悲なカウントダウンが刻まれていた。


【警告:外部接続からの逆探知(トレース)を検知。敵ハッカーが侵入者を解析中。接続維持限界まで、あと280秒】


(くそっ、もう30秒も削られた……! 敵のハッカー、アラクネとか言ったか。なんて解析速度だ)


焦燥が背中を冷たい汗で濡らす。だが、それ以上の物理的な危機がすぐ目の前に迫っていた。


ザッ、ザッ、と重いタクティカルブーツの足音が、魁人の潜伏するカウンターの裏へと近づいてくる。クロウの指示を受けたボイド・ゲイズの哨戒兵だ。アサルトライフルの銃口を低く構え、カウンターの陰を一つずつクリアしている。その距離、わずか五メートル。障害物越しに、スマートグラスが敵の骨格を青いワイヤーフレームで透過表示する。このままでは、あと十秒もしないうちに確実に発見され、脳天を撃ち抜かれる。


「……ひ、ぅ……」


すぐ傍らで床に崩れ落ちている全盲の少女、桐生紗季が、恐怖に震えながら小さく息を漏らした。彼女はその細い両手で、18世紀製のストラディバリウスが納められたバイオリンケースを、まるで自身の命の灯火を守るように強く抱きしめている。彼女を置いて一人で逃げる選択肢など、魁人の辞書には存在しなかった。


(戦うしかない。だが、生身の高校生がプロの兵士に敵うわけがない。銃も、力も、俺にはない……)


魁人は左腕のターミナルを見つめた。青く脈動するホログラム。システム・アイが捉えるロビーの床には、無数の数式が幾何学的なグリッドとして重ね合わされている。その中に、一つのパラメーターが浮かび上がっていた。


`physics.floor_friction = 0.62`


大理石の床が持つ、通常の摩擦係数。これこそが、人間が地面を踏みしめ、歩行し、突進するための物理的な前提だ。


(俺の権限はまだ『デバッガー・ランクF』。複雑なオブジェクトの消去や空間の書き換えは構文エラーになる。だけど、この床の『変数』を一つ書き換えるだけなら……!)


魁人は奥歯を噛み締め、震える右手の指先をターミナルの物理キーボードへと走らせた。一文字のタイピングミスも許されない。シンタックスエラーは即座にハックの失敗を意味し、それは自分と紗季の死に直結する。超高速のタイピング音が、極限の静寂の中で微かに響いた。


`physics.set_friction(area_lobby_floor, 0.0)`


「インジェクション……実行!」


魁人がエンターキーを叩いた瞬間、哨戒兵がカウンターの角を回り込み、魁人と目が合った。兵士の目が冷酷に細まり、アサルトライフルの引き金に指がかけられる――そのコンマ一秒前、哨戒兵が床を踏みしめた右足が、あり得ない挙動を示した。


「――なっ!?」


哨戒兵の体が、まるで凍りついた湖の氷上に放り出されたかのように、不自然に宙を舞った。


摩擦係数ゼロ。大理石の床からすべての「引っかかり」が消失したのだ。歩行の推進力を得ようとした兵士の足裏は、一切の反作用を得ることなく虚空を滑り、慣性の法則に従ってその巨体が激しく前方へと投げ出された。重いタクティカルギアを装備した肉体が、大理石の床に激しく叩きつけられる。凄まじい金属音とともに、アサルトライフルが手元から滑り落ち、遥か彼方の壁際へと消えていった。


「何が起きた!? 突入しろ!」


背後のロビーからクロウの怒号が聞こえる。他のテロリストたちがこちらへ向けて走り出す足音が響く。だが、彼らもまた、摩擦を失った「死の氷原」に足を踏み入れた瞬間に、次々とバランスを崩して滑稽に転倒していくはずだ。


(今だ、逃げるぞ!)


魁人はとっさに自身の靴底の摩擦係数も「ゼロ」に書き換えた。そして、床にへたり込んでいた紗季の手を強く握りしめる。


「えっ……だ、誰……!?」


「喋るな! 俺に捕まってろ!」


魁人は床を強く蹴る代わりに、カウンターの角を左手で強く押し出した。作用・反作用の法則。摩擦が消えた世界において、そのわずかな押し出す力は、魁人と紗季の肉体を驚異的な速度で滑走させる推進力へと変換された。


滑る。大理石の床の上を、まるで氷上のカーリングストーンのように、音もなく、超高速で滑走していく。スマートグラスが弾き出す最適な軌道に沿って、魁人は紗季を抱きかかえながら、テロリストたちの銃撃の死角へと滑り込んでいく。背後で、滑る床に対処できずに転倒した兵士たちが、無駄な銃声を天井に向けて響かせていた。


しかし、物理法則を書き換えるという「不条理」は、決して無償では提供されない。


(が、はっ……あ、熱い……!)


突如、魁人の左腕を襲ったのは、皮膚を直接焼きゴテで抉られるような凄まじい激痛だった。ターミナルの冷却ファンが悲鳴のような金属音を立てて高速回転し、排気口から超高熱の蒸気が吹き出す。


「くっ、うあぁぁ!」


魁人は痛みに耐えかねて声を漏らした。脳内で、失踪した父親・海藤護が残した手帳の記述がフラッシュバックする。


『質量保存の法則。世界のソースコードを書き換えた代償は、必ず熱や衝撃として記述者へとフィードバックされる』


(摩擦という『運動を阻害する力』をゼロに書き換えた……。消えたはずの摩擦抵抗のエネルギーは消滅したんじゃない。等価交換のルールに従って、熱エネルギーに変換され、このターミナルを通じて俺の肉体に逆流したんだ……!)


左腕の神経が、高熱のノイズによって直接侵食されていく。感覚が麻痺し、指先が強張る。ニューラル・ヒートは一気に50%へと跳ね上がっていた。


さらに、摩擦ゼロの滑走には致命的な欠陥があった。速度は維持されるが、地面を蹴って方向転換することができないのだ。行く手に迫るのは、大金庫へと続く通路の頑丈なコンクリートの柱。


「カイトくん!? キーンという、おかしな音がどんどん大きくなってる……! 壁が近い!」


紗季が目が見えないながらも、空間の物理的な歪みが発生させる「システムノイズ」を聴覚で察知し、悲鳴を上げた。


「捕まってろ!」


魁人はとっさに右足を伸ばし、柱の角を強引に蹴り飛ばした。だが、慣性を殺しきれず、魁人の左肩がコンクリートの角に激しく激突した。鈍い衝撃音が響き、肩の骨がきしむ痛みが走る。それでも、その衝突の反動を利用して、二人の体は辛うじて大金庫室の通路へと滑り込むことに成功した。


背後で、ロビーと通路を仕切る重厚な防火隔壁が、システムのエラーを感知してゆっくりと閉まり始める。防犯AIが侵入者を遮断するための自動プロトコルだ。魁人は紗季の体を抱え、閉まりかける隔壁の隙間を滑り抜けた。


ズゥゥン……!


地響きとともに、数トンの鋼鉄の扉が完全に閉鎖され、ロビーの喧騒とテロリストたちの追跡が遮断された。薄暗い通路に、二人の荒い息遣いだけが響く。


「はぁ、はぁ……助かった、のか……?」


魁人は大の字に床に倒れ込み、激しく胸を上下させた。左腕のターミナルは依然として拍動するように青い光を放ち、火傷のような熱を皮膚に残している。神経を蝕むような不気味な熱量。世界のルールを捻じ曲げた代償は、確かに魁人の肉体を削り始めていた。


だが、安堵したのも束の間、通路の天井に設置された防犯スピーカーから、無慈悲な電子音声が鳴り響いた。


『警告。不正な物理干渉を検知。防犯AIシステム「ガーディアン・ゼロ」を起動します。プロトコル・オメガを実行。これより、金庫室内の空気を強制排出します』


スマートグラスの視界が、一瞬にして真っ赤な警告色へと染まり、新たなカウントダウンが開始された。


【金庫室内真空化まで、残り15分】


ロビーからの退路は完全に閉ざされた。そして、閉じ込められたこの閉鎖空間は、数分後には酸素ゼロの死の部屋へと変貌する。魁人の額から、再び冷たい汗が流れ落ちた。

HẾT CHƯƠNG

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