プログラムされた占拠
ガラスが砕け散る。その無慈悲な金属音が、東京中央銀行渋谷支店の重厚な大理石のロビーに響き渡った瞬間、世界は一変した。
「動くな! 全員床に伏せろ!」
自動小銃を構え、全身を黒のタクティカルギアで固めた男たちが、破壊された正面玄関から雪崩を打って侵入してくる。顔を覆うのは、不気味なカラスを模したタクティカルマスク。超能力犯罪集団「ボイド・ゲイズ」の実行部隊だ。日常は、たった数秒の暴力によって容易に剥ぎ取られた。
都立渋谷東高校の紺色のブレザーを着た海藤魁人は、冷たい床に額を押し付けながら、激しく鼓動する心臓を必死に抑えていた。普通の、どこにでもいる17歳の高校生。それが、魁人が周囲に見せている仮面だった。だがその裏で、彼はネットの深淵で「K」と呼ばれる天才ハッカーとしての顔を持っていた。しかし、この圧倒的な物理的暴力を前にしては、キーボードのない指先など何の役にも立たない。
「おい、そこの女。立て」
冷徹な声がロビーに響く。ボイド・ゲイズの部隊長、烏丸蓮――コードネーム「クロウ」。カラスのマスクの奥から、冷酷な獣のような眼光が人質たちを見下ろしていた。クロウがその強靭な腕で引きずり上げたのは、白いワンピースを纏った全盲の少女、桐生紗季だった。彼女は細い両手で、古びたバイオリンケースを壊れ物のように抱きしめている。
「見せしめが必要だ。警察への警告にな」
クロウが自動小銃の銃口を紗季の額に突きつける。人質たちから短い悲鳴が上がり、ロビーの空気が凍りついた。紗季は目が見えない恐怖の中、唇を噛み締め、声も出さずに震えている。
(くそっ……何か、何か方法はないのか……!?)
魁人の脳細胞が超高速で回転を始める。だが、手元に端末がない。ハッキングする手段がなければ、ただの非力な高校生だ。焦燥と絶望が魁人の視界を赤く染めかける。
その時、魁人の指先が、大理石のカウンターの死角に転がっている「異物」に触れた。
それは、頑丈な金属フレームと小型の物理キーボードが一体となった、左腕装着型のウェアラブル・ターミナルだった。奇妙に古びているが、その構造は極めて高度だ。なぜこんな場所にこんなものが落ちているのかを考える余裕はなかった。魁人は死に物狂いで腕を伸ばし、そのデバイスに左腕を滑り込ませた。
カチリ、と金属のロックが締まる。
【警告:未登録の生体反応を検知。DNAスキャンを開始します】
ターミナルの小型液晶に冷たい文字が走り、魁人の手首に微細な針が突き刺さる。激痛が走った。
「が、あ……っ!」
【DNA照合率:99.8%。開発者・海藤護の血縁者と断定。ルートユーザー権限を一時譲渡します。システム、強制同期を開始】
(親父の……コード……!?)
10年前に失踪した父親の名がシステムログに明滅した瞬間、魁人の脳神経に膨大なバイナリデータが直接流れ込んできた。脳が沸騰するような、凄まじい熱量がこめかみを焼き切ろうとする。ニューラル・ヒートの警告灯が脳内で赤く点滅する。頭痛に視界が歪む中、魁人の「眼」が覚醒した。
世界が、コードに変わっていく。
スマートグラスのレンズ越しに、大理石の床、防犯ゲート、天井の照明、そしてテロリストたちの肉体すらもが、青く発光する記述言語の文字列――「オメガ・スクリプト」として現実世界に重ね合わされて見え始めた。これこそが、世界の物理法則を規定するソースコードを視認する異能「システム・アイ」だった。
「おい、そこのガキ。何をごそごそやっている」
クロウの部下が、魁人の不審な動きに気づき、アサルトライフルの銃口を向けながら近づいてくる。紗季の額に突きつけられたクロウの指が、引き金にかかる。残された時間は、コンマ数秒。
(まずはこの防犯扉を閉めて、奴らの射線を遮る!)
魁人は左腕の物理キーボードに指を走らせた。凄まじい速度でのタイピング。だが、初めて触れるデバイスのキー配列と、脳への過負荷による手の震えが邪魔をする。
`physics.gate_lock(A-1) = Truè
エンターキーを叩く。しかし、画面に非情な赤いエラーが明滅した。
【Syntax Error: undefined variable 'gate_lock'.】
(構文エラー……! 綴りを間違えたか!? 駄目だ、物理扉のハックは記述が複雑すぎる、間に合わない!)
クロウの指が引き金を絞り込む。紗季の命が消えるまで、あと0.2秒。
(標的を変えろ! 扉じゃなく、奴の『視覚』をハックする!)
魁人は瞬時に思考を切り替えた。スマートグラスの焦点を、ロビーの天井に設置された防犯カメラと、クロウが装着しているタクティカルマスクの映像受信機に合わせる。カメラの映像バッファを強制的に遅延させ、自身の位置情報をカモフラージュしつつ、クロウの視覚を狂わせるコードを即興で記述する。
`camera.render.frame_delay = 5.00s̀
`mask.vision.offset = Vector3(1.5, 0, 0)`
「インジェクション、実行……!」
魁人がコマンドを送信した瞬間、クロウのマスクのバイザーに強烈なグリッチノイズが走った。彼が見ている「現実」の映像が、右側に1.5メートル強制的にズレ、さらに5秒前の過去の映像へと固定される。
引き金が引かれた。
激しい銃声がロビーに響き渡る。だが、放たれた弾丸は紗季の頭部を大きく外れ、背後の大理石の柱を粉砕した。クロウの視界には、そこにいないはずの紗季の幻影が映っていたのだ。
「チッ……! バイザーがバグったか!?」
クロウが頭を振り、不気味なカラスのマスクを剥ぎ取る。その下から現れたのは、凶暴な肉体を持つ男の、困惑と怒りに満ちた素顔だった。紗季はその隙に床へ崩れ落ち、辛うじて一命を取り留めた。
「誰だ……! 誰かがシステムに干渉している!」
クロウが怒号を上げる。魁人は左腕のターミナルを抱え、カウンターの陰に身を潜めた。脳の過熱による激しい頭痛で、呼吸が荒くなる。何とか最初の危機は脱した。しかし、スマートグラスの端に、新たな不穏な警告メッセージがポップアップした。
【警告:外部接続からの逆探知(トレース)を検知。敵ハッカーが侵入者を解析中。接続維持限界まで、あと300秒】
ボイド・ゲイズのお抱えハッカーが、魁人の放ったコードの脆弱性を突き、その物理的な居場所を特定しようと動き始めたのだ。銀行は完全に包囲されたまま、電子の死神が魁人の首元へ手を伸ばしつつあった。
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