サンドボックスの挑戦者
安っぽい芳香剤の香りと、カップ麺の油分が混ざり合った退廃的な空気が、ネットカフェ「サイバー・ヘブン」の防音個室に満ちていた。
海藤魁人はリクライニングシートに深く身体を沈め、手元のアナログ充電器に繋がれたエミュレーター端末「クロノス」を見つめていた。カバンの奥で十分に充電されたそのレシーバーは、レトロな携帯ゲーム機の形をしていながら、今や魁人の命を繋ぐ唯一のデバイスだった。
首の後ろの金属製端子に、端末から伸びる極細の有線ケーブルを直接差し込む。カチリ、と冷たい金属音が脳髄に響くと同時に、魁人の右目の視界が揺らいだ。
「……やはり、まだノイズが残っているな」
暗い個室の虚空に、ドット絵の老賢者がホログラムとして浮かび上がる。自立型AI『クロノス』だ。老賢者は不機嫌そうにドットの眉をひそめ、魁人の右目を覗き込んできた。
「当たり前だ、ヒよっこ。昨夜、あの工作員田中の脳内チップを直接ハックした代償を忘れたか? 人間の生体脳をハッキングするなど、今の貴様の処理スペックでは禁忌に等しい。脳細胞が焼き切れなかっただけでも奇跡だと思え」
「わかってる。でも、母さんを守るためにはあれしかなかったんだ」
魁人は痛むこめかみを指先で押さえた。右目の視界の右半分は、未だにテレビの砂嵐のような灰色のノイズで塞がれている。この視野欠損(デバフ)は、空中タイピングの精度を著しく低下させていた。莉音を救うためのパッチを解読し、監査機関の追跡から生き延びるためには、この状態でも確実にコードを打ち込めるだけの『速度』と『正確性』を指に叩き込まなければならない。
「クロノス、サンドボックスを起動してくれ。特訓を始める」
「ふん、その意気や良し。だが、仮想空間内での時間加速は脳にさらなる負荷をかける。限界を感じたらすぐにロールバックしろよ」
老賢者が杖を振るうモーションを見せると、魁人の意識は急速に現実から剥離し、データストリームの奔流へと吸い込まれていった。
視界が完全にホワイトアウトする。
目を開けると、そこは無限に広がる純白の空間だった。床も壁も存在せず、ただ足元に青い幾何学的なグリッドラインが規則正しく走っている。クロノス内部の仮想訓練場――『サンドボックス』だ。
この空間では、現実の1秒が数千倍の時間に引き延ばされる。肉体に物理的なダメージを負うことなく、ハッキングのシミュレーションを繰り返すことができる唯一の聖域だった。
「よし、始めるぞ。まずは基本のタイピングからだ」
クロノスの声が頭上から響くと同時に、白い空間に無数の赤いバグオブジェクト――回路の塊のようなデジタル立方体が現れ、魁人に向かって高速で浮遊してきた。
「くっ……!」
魁人は両手を空間にかざした。右目のノイズのせいで、仮想キーボードのキーがブレて見える。それでも、彼は左目の『バグ・アイ』でオブジェクトのシステムIDを正確に捉え、指先を動かした。静寂の空間に、打鍵音のない、光のタイピングだけが刻まれていく。
『DELETE [Bug_Object_A01]』――Enter。
青い光のコードが指先から走り、迫り来る立方体を一瞬でボクセル粒子に分解して消去する。だが、次のオブジェクトがすぐに迫る。
『DELETE [Bug_Object_A02]』
「遅い!」
クロノスの叱咤が飛ぶ。
「タイピングが冗長だ、魁人! 右目のノイズに惑わされるな。コードをすべて記述しようとするから速度が落ちる。レイ・タカハシの言っていたことを思い出せ。ハックとは、美しき『引き算』だ!」
「引き算……!」
「そうだ。敵のプログラム全体を書き換える必要はない。システムの『最も脆弱な1行』だけを特定し、そこを消去してシステムエラーを誘発させるのだ。コマンドを『DEL』の3文字に省略し、オブジェクトの接続ポートの記述ミスだけを狙え!」
魁人は息を整え、迫り来る赤色オブジェクトの表面を流れるソースコードを凝視した。バグ・アイが、コードの配列に存在するわずかな『赤色に発光する脆弱性』を捉える。
指先を滑らせる。無駄な文字列をすべて排除し、ただ1点のみを撃ち抜く。
『DEL [Flaw_Node_03]』――Enter。
次の瞬間、オブジェクトはデリートコマンドが完了する前に、自らのシステムエラーによって自壊し、青いチリとなって消滅した。
「これだ……!」
タイピング速度が劇的に向上する。魁人は感覚を掴み、次々とオブジェクトを最小限のコードで分解していった。脳内の並行処理能力が拡張され、マルチ・スレッド思考が滑らかに駆動し始める。
だが、そのストイックな静寂は、突如として訪れた空間の「歪み」によって破られた。
バリバリ、と真っ白な空がガラスのように裂け、赤い警告ノイズが空間全体を覆った。
『警告:外部接続からの異常なデータトラフィックを検知。ローカルルーターへの過負荷攻撃(DDoS)が開始されました』
「何だ!? 監査機関の逆探知か!?」
魁人が身構えると、クロノスが険しい表情で叫んだ。
「いや、違う! この雑な物量ハック……監査機関の洗練されたプロトコルではない。ネットカフェの超高速回線を経由して、お前の『Error-00』の固有データを力技で奪い取ろうとする、野良のクラッカーだ!」
白い空から、津波のような青いバイナリコード(0と1の奔流)が降り注ぎ、サンドボックスのグリッドラインを侵食し始めた。ネットカフェの個室にある物理ルーターが悲鳴を上げているのが、精神を通じて伝わってくる。
「防音個室のIPを直接叩いているのか……! 防壁を展開する!」
魁人はすかさず両手を広げ、侵入経路となる仮想サーバーのゲートに『ロジック・バリア』を構築した。
『BARRIER_DEPLOY --port [NetCafe_Router_07] --filter』
青い幾何学的な光の壁が展開され、降り注ぐバイナリの津波を一時的に弾き返す。しかし、相手の攻撃は止まらない。相手は違法ツール『ブラック・ボックス』を起動し、魁人のバリアの隙間を縫って、彼のスマートウォッチの物理IPを逆探知しようと、無数のスキャンコードを放ってきた。
「ツバサ……いや、このクラッカー、若いがかなりの手練れだぞ」
クロノスがログを解析しながら呟く。
「多重プロキシを噛ませて自身のIPを完全に偽装している。魁人、力技で相手の居場所を探そうとしても、ダミーの壁に阻まれてメモリを消費するだけだ。どうする?」
魁人は、右目の砂嵐ノイズの奥で、激しく明滅するバグ・アイを起動した。視野は狭い。しかし、ノイズの隙間から、相手が使用している攻撃ツールの接続パケットが、奇妙な『揺らぎ』を伴って流れているのが見えた。
(相手のIPを追う必要はない。あの攻撃ツール自体のコードをハックする!)
魁人は、マルチ・スレッド思考をフル稼働させた。第1スレッドでロジック・バリアの維持、第2スレッドで敵のスキャンコードのフィルタリング、そして第3スレッドを攻撃に割り当てる。
バグ・アイが、ブラック・ボックスのポートバインディング(ポート接続)の記述をスキャンする。そこには、多重プロキシを制御するために、無理やり埋め込まれた『記述ミス(バグ)』が存在していた。それは、システム監査機関の古いセキュリティプロトコルを改造した際の、極めて小さな記述漏れだった。
「見つけた……。そこが、お前の脆弱性だ」
魁人は仮想キーボードの上に指を滑らせた。打鍵音を排した無音の空間で、彼の指先が残像を描く。入力するコードは、わずか3文字。
『DEL [Tool_Bind_Flaw]』――Enter。
青い光のコードが、バリアを透過して敵のパケットストリームへと逆流していった。
次の瞬間、白い空を覆っていたバイナリの津波が、ピタリと静止した。そして、侵入者が使用していたブラック・ボックスのツール自体が、内部の記述エラーによって無限ループを起こし、モザイク状に激しくブレ始めた。
「なっ……何だこれ!? 僕のツールが自壊していく!?」
ネットカフェの回線を通じて、スピーカーから変調された若い少年の狼狽した声が漏れ聞こえてきた。相手の通信経路が、魁人のハックによって逆流し、音声回線が強制接続されたのだ。
「まだ終わらない!」
魁人はさらに指を動かした。第4スレッドを起動。相手の通信ログをトレースし、彼が使用している物理的なキーボードのファームウェアへと直接、侵入を仕掛ける。
『LOCK_FIRMWARE --target [Intruder_Keyboard] --force』
カチャリ、と仮想空間内で南京錠が閉まるようなエフェクトが走った。
「うわっ! キーボードが反応しない! キーが完全にロックされた!? 嘘だろ、物理ファームウェアを直接書き換えられたっていうのか!?」
少年の焦燥に満ちた叫び声が響き渡る。魁人は、相手のハッキング手段を完全に無力化したことを確認し、深く息を吐き出した。
「ダイブを終了する」
意識が現実世界へと急速に引き戻される。
魁人は、ネットカフェの狭い個室のリクライニングシートの上で、勢いよく目を開けた。首の後ろの端子からケーブルを抜く。瞬間、脳内を襲った強烈な立ちくらみと熱に、彼は思わず頭を押さえてうめいた。
「う、あ……」
鼻から一筋の鮮血が流れ、リクライニングシートのシーツに赤い染みを作る。マルチスレッドの過剰使用による脳のオーバーヒートだ。魁人はカバンの奥からティッシュを取り出し、鼻を抑えながら、目の前のネットカフェの液晶モニターを見つめた。
強制ロックされたはずのモニター画面に、突然、テキストチャットのウィンドウがポップアップした。
『おい! さっきのハック、どうやったんだよ!?』
キーボードのロックをバイパスするために、相手はマウス入力のスクリーンキーボードを使って必死に文字を打ち込んでいるようだった。画面の向こうの少年は、怒るどころか、異様な興奮を隠しきれていない様子だった。
『僕の最新の違法ツールを、たった3文字のコードで自壊させるなんて……。お前、ただの指名手配犯じゃないな? 本物の『Error-00』の持ち主だろ!』
魁人がキーボードを叩き、返信を送る。
『君は誰だ。なぜ俺を狙った』
『僕はツバサ。このネットカフェを根城にしてるハッカーさ。お前の首に莫大な違法クレジットがかけられてるのを見て、小遣い稼ぎにハックしてやろうと思ったんだけど……。前言撤回するよ』
次の瞬間、画面の文字が激しく躍るように打ち出された。
『すげえよ、アニキ! 僕を弟子にしてくれ! その『引き算』のハック、僕にも教えてよ!』
魁人は、画面に映るその生意気だが無邪気な少年の言葉に、呆気にとられて言葉を失った。しかし、その時、カバンの奥で充電中のクロノスが、画面のドット絵を激しく明滅させながら、魁人にしか聞こえない骨伝導音声で、静かに、だが衝撃的な事実を告げた。
「魁人……あのガキが使っていたツールの記述ミス、あれはただのバグではない」
「え……?」
「あのプロトコルの残渣……10年前に、お前の義父である海藤誠一が、監査機関のメインフレームをハックするために設計した『アダム・バイパス』の初期コードの癖と、完全に一致している」
魁人は息を呑み、画面の向こうで「アニキ!」と連呼する少年のチャットを、凝視した。
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