戻れない我が家
激しい雨が、笹塚の古びたアパートの窓ガラスを叩きつけていた。外は漆黒の闇。だが、海藤家のリビングルームの中は、それ以上に息の詰まるような、死の静寂に支配されていた。
ソファの上で、養母である海藤美沙子がエプロン姿のまま、深く眠り込んでいる。彼女の首元に、冷酷な光を放つ極小の針型デバイス――『ナノスパイ・インジェクター』が突き立てられようとしていた。それを握っているのは、つい先ほどまで「親切な隣人」を演じていたサラリーマン、田中だった。
田中の目は、昼間の温厚なそれとは完全に異なり、獲物を冷酷に値踏みする監査機関の工作員そのものの光を宿していた。
(母さんに、触らせるものか……!)
ベランダの窓から音もなく侵入した海藤魁人は、ステルス・迷彩ポンチョのフードを深く被ったまま、田中の背後に音もなく忍び寄っていた。右手の指先には、昼間のヘルハウンド戦で受けた電気ショックの麻痺がかすかに残っている。右目の半分は、脳のオーバーヒートがもたらした灰色の砂嵐ノイズで塞がれ、視界の半分が失われていた。それでも、左目の奥で青く輝く『バグ・アイ』は、田中の脳内チップから放出される同期シグナルを鮮明に捉えていた。
「おい、魁人。無茶はするな」
耳元の骨伝導レシーバーから、通学カバンの奥に隠したエミュレーター端末「クロノス」の、ドット絵の老賢者思わせる掠れた声が響いた。音声は極限まで絞られている。
「あのインジェクターと田中のチップは、軍事規格の暗号シグナルで防護されている。ここからの無線ハックは弾かれるぞ。美沙子を人質に取られたくなければ、確実に一撃で奴のポートに直接、物理接続(有線接続)するしかない」
(直接接続……。奴の首の後ろにある接続端子に、俺のスマートウォッチの有線端子を叩き込むしかないってことか)
魁人は、手首に巻いたスマートウォッチの側面から、極細の物理ファイバーケーブルを引き出した。その先端には、誠一が遺したハッキング用の特殊端子が輝いている。魁人は、織田志郎にカスタマイズしてもらう前段階の、自身で調整した黒い『スマート・ハック・グローブ』をはめた右手を固く握り締めた。
だが、田中はプロの工作員だ。背後からただ近づくだけでは、間合いに入る前に気づかれ、美沙子の首元にインジェクターを突き刺される。一瞬のミスも許されない極限の状況。
(だったら、奴の『視覚』を完全に奪う)
魁人は左手でスマートウォッチの画面を操作し、アパート全体の電力管理システムへアクセスを試みた。バグ・アイの視界の中で、壁の裏を走る電力コードのグリッドラインが赤く発光する。魁人は脳内のマルチ・スレッド思考を起動した。
『SUDO SYSTEM_POWER_OFF --sector [Home_Breaker] --force』
コンマ数秒のタイピング。エンターキーの仮想パルスの入力と同時に――。
パチン、と乾いた音が響き、海藤家のアパート全体が完全な暗闇に包まれた。冷蔵庫の低い駆動音が消え、雨の音だけが室内に充満する。
「なっ……!?」
田中が驚愕の声を上げ、インジェクターを握る手を止めた。人間の目が急激な暗転に順応するには、少なくとも数秒の時間を要する。工作員としての訓練を受けていようとも、その生理現象からは逃れられない。
だが、魁人の左目は違った。バグ・アイは、暗闇の中でも田中の脳内チップが放つ赤緑の同期信号を、まるで夜光塗料のように捉え続けていた。
シュッ、と風を切る音が響く。
魁人はステルスポンチョを翻し、一歩で田中の懐へと踏み込んだ。驚いて振り返ろうとする田中の両腕を、背後から強引に組み伏せる。田中の身体が強張る。
「誰だ……! 海藤、魁人か!」
「動くな!」
魁人は右手のスマート・ハック・グローブを突き出し、スマートウォッチから伸ばした極細の有線端子を、田中の首の後ろの金属ポートへ直接、物理的に叩き込んだ。
カチャリ、と金属同士が噛み合う冷たい音が響く。その瞬間、魁人の脳内に、これまでに経験したことのないほどの強烈な電磁ノイズが逆流してきた。
「う、あぁぁぁっ……!」
魁人の口から、押し殺した悲鳴が漏れる。人間の脳内チップに直接ハッキングを仕掛ける――それは、バグモンスターや無機質なドローンをハックするのとは、次元の異なる負荷を伴う禁忌の行為だった。田中の脳波データ、体温、そして監査機関の防壁プログラムが、魁人のニューロンへと津波のように押し寄せる。
『警告:生体プロテクトを検知。ハック実行者の脳内温度が急上昇しています。マルチ・スレッド上限(4スレッド)まで残り1スレッド』
脳髄が直接、沸騰した油で煮られているような激痛。右目の灰色ノイズが激しく明滅し、視界が完全にブラックアウトしかける。
「魁人、耐えろ! 奴のチップの暗号化プロトコルをクロノスが逆コンパイルする! 3スレッドを防御に回せ!」
クロノスの絶叫が脳裏に響く。魁人は歯を食いしばり、血の涙が流れるような感覚の中で、コマンドを脳内ターミナルに叩き込んだ。
『SUDO BYPASS --target [Tanaka_D_Agent] --overflow』
田中のチップの防壁に、クロノスの演算力が風穴を開ける。防壁が突破された瞬間、魁人の視界に、田中の記憶領域が青いフォルダの羅列としてレンダリングされた。
そこには、魁人の起床時間、登校ルート、そして美沙子を人質に取るための作戦計画書が、冷酷なデータログとして保存されていた。さらに、魁人の顔写真と『Error-00』の覚醒度を示す機密データが、監査機関のメインフレームへとリアルタイムで送信される手前で保留されている。
(この男の頭の中から……俺に関するすべてを消す!)
魁人は、田中の脳内チップの記憶フォルダをロックオンした。初めて行う、人間への『クイック・デリート』。
『DELETE /memory/target_kaito_kaito/ --force』
エンターキーを叩く。青い光のコードが田中の首元の端子から彼の脳内へと侵入し、魁人の顔、名前、そして海藤家を監視していたすべての記憶データが、ノイズ交じりの立方体の粒子(ボクセル)へと分解され、消去されていく。田中の身体が激しく痙攣し、白目を剥いた。
「あ、が……あ……」
記憶を消去された脳への強烈な負荷により、田中の脳内チップが強制シャットダウンを起こす。田中はインジェクターを床に落とし、そのまま糸の切れた人形のように、リビングの床へと崩れ落ち、意識を失った。
静寂が戻ってきた。魁人は膝を突き、激しく喘いだ。首の後ろの端子が、触れられないほど熱くなっている。右目からは、一筋の鮮血が静かに頬を伝って流れ落ちていた。初めて人間の脳をハックしたことによる、激しい自己嫌悪と恐怖が、彼の細い身体を震わせる。
「やったな、魁人。奴の脳内から、お前に関する記憶は完全に消去された。監査機関のデータベースへの送信も遮断したぞ」
クロノスの声は、どこか労わるようだった。魁人は震える手でスマートウォッチのキーを叩き、部屋のブレーカーを復旧させた。
パッと明かりが灯り、リビングルームが再び照らされる。床に倒れた田中は、もう動かない。そして、ソファの上では、美沙子が何事もなかったかのように、穏やかな寝息を立てていた。彼女の手首には、誠一の遺品である古い腕時計が、静かに時を刻みながら、目に見えないノイズで彼女を守り続けていた。
魁人は美沙子のそばに歩み寄り、その穏やかな寝顔を見つめた。彼女を揺り起こし、すべてを打ち明けて、一緒に逃げようかという誘惑が脳裏をよぎる。
だが、魁人は首を振った。
(だめだ……。俺がここに留まる限り、監査機関は第二、第三の田中を送り込んでくる。親父の時計の防壁だって、いつまで持つかわからない。俺がこのアパートにいること自体が、母さんを殺す最大のバグなんだ)
美沙子の記憶の中では、魁人は彼女の「優しい普通の息子」のままでなければならなかった。彼が「テロリスト」として追われる裏社会の深淵に、彼女を巻き込むわけにはいかない。
魁人は、そっと美沙子の手に触れた。その手は温かく、かつて作ってくれた唐揚げの匂いが、かすかに残っているような気がした。
「……ごめんね、母さん」
ぽつりと、魁人は呟いた。それは、17歳の少年としての、普通の日常への永遠の別れの言葉だった。
「もう、ここには戻れない」
魁人は、田中の身体からインジェクターを回収し、ポケットにねじ込んだ。そして、ステルス・迷彩ポンチョのフードを深く被り、雨の滴るベランダへと引き返した。一度も振り返ることなく、彼は笹塚の夜闇の中へと飛び降りた。
雨はさらに激しさを増し、魁人の涙を冷酷に洗い流していく。
数時間後。深夜の渋谷、雑居ビルの5階に位置するネットカフェ「サイバー・ヘブン」。
薄暗い通路には、安っぽい芳香剤とカップ麺の匂いが立ち込めていた。魁人はフードを目深に被り、フロントの受付に立っていた。カウンターの奥では、覇気のない深夜アルバイトの坂田登が、眠そうな目でスマートフォンの画面を眺めている。
魁人は、懐から違法なクレジットデータが記録されたダミーカードを差し出した。お銀の店で手に入れた、監査機関の追跡を受けない闇の通貨だ。
「一番奥の防音個室を。それと……このアパートの監視カメラの映像ログ、今日の分をすべて消去してほしい」
坂田はカードに記録された違法クレジットの残高を見た瞬間、眠気を目から吹き飛ばし、卑屈な笑みを浮かべた。
「へへ、お安い御用ですよ、お客さん。うちのシステム管理者用パスワードを使って、入退室のログごと『デリート』しておきますんで。ごゆっくりどうぞ」
坂田がキーボードを叩き、魁人の姿が映った防犯カメラのデータを消去していく。小市民的な買収。だが、今の逃亡者である魁人にとっては、これが唯一の防壁だった。
狭く、窓のない個室に入り、重い防音扉を閉めると、ようやく魁人はポンチョを脱ぎ捨てて座椅子に崩れ落ちた。個室の壁は防磁仕様になっており、外部の電磁スキャンを微かに遮断してくれる。
クロノスのバッテリー残量は残り15%を示し、画面のドット絵の老賢者も、心なしかノイズでかすれていた。魁人はカバンの奥から充電用のアナログケーブルを取り出し、個室のコンセントに差し込んだ。魁人自身の脳も、過負荷による激しい疲労で、今すぐにでもシステムフリーズを起こしそうだった。
(莉音……君は今、どこにいるんだ。本当に、あの白い部屋で、記憶を消されかけているのか?)
首の後ろの端子の奥で、莉音が残した『ペアリングコード』の微弱な暗号シグナルが、まるで消えかけの命のように、かすかに脈動している。だが、そのシグナルを解析し、具体的な追跡ルートを導き出すためのパッチが、今の魁人には圧倒的に不足していた。
絶望的な孤独が、狭い個室の暗闇の中で魁人を押し潰そうとした、その瞬間――。
ピピッ、とスマートウォッチが微かに振動した。無線ハックを遮断しているはずの画面に、差出人不明の、不自然に暗号化されたテキストパケットが強制的にレンダリングされる。
『接続確立。Error-00、お前の求める『白石莉音』の脳内チップ信号の追跡プロトコルを送信する。救いたければ、記述されたポートをハックしろ』
画面の奥で、青い文字列が滝のように流れ始める。その最深部に表示された差出人のシグネチャには、ただ一言、こう記述されていた。
――『Echo』。
魁人は息を呑み、その青い光に染まる画面を凝視した。
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