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指名手配エラー00

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冷たい雨が、渋谷のコンクリートを容赦なく叩きつけていた。紫色の夕闇に染まる空と、けばけばしいネオンの光が交錯する中、世界は一瞬にして敵対的な檻へと変貌していた。


「……おい、嘘だろ」


 高架下の暗がりに身を潜めた海藤魁人は、喘ぐような息を漏らしながら、大通りに面したビルを見上げた。壁面を埋め尽くす巨大なデジタルサイネージ、駅前の液晶モニター、そして走行するバスの電子広告までもが、一斉に激しい砂嵐のようなノイズを噴き出している。次の瞬間、そこに映し出されたのは、あまりにも見慣れた自分自身の顔写真だった。


『警告:最優先指名手配エラー検知。対象名、海藤魁人。凶悪サイバーテロ容疑者。発見者は即座にシステム通報プロトコルを実行せよ』


 赤く明滅する文字が、冷酷な警告音とともに渋谷中のスクリーンを埋め尽くしていく。通行人たちの脳内チップがその信号を受信し、彼らのスマートリングや視覚野が一斉に赤く警告を発しているのが、魁人の目には見えていた。人々が怪訝そうに周囲を見回し、互いの端末を突き合わせる。


 社会的デリート――世界システム「ガイア・グリッド」が、海藤魁人という一人の人間の存在を、社会の記述から完全に消去し、排除すべき「害虫」として再定義した瞬間だった。自分の名前と顔が、都市全体の敵として登録される圧倒的な孤立感と恐怖が、魁人の心臓を締め付ける。


「おい、ヒよっこ。立ち止まるな。街頭の全カメラがお前の顔認証データをメインフレームに照合しようとしているぞ」


 通学カバンの奥から、エミュレーター端末「クロノス」のノイズ交じりの声が、耳元の骨伝導レシーバーを通して響いた。


「わかってる……。でも、右目が……!」


 魁人は激痛の走る右目を手で押さえた。宮下公園の裏路地でヘルハウンドをデリートした際の過負荷(オーバーヒート)により、彼の右目の視界の右半分は、激しい灰色ノイズの砂嵐で完全に塞がれたままだった。激しいめまいと頭痛が、並行思考を鈍らせていく。


「お銀のババアから受け取った迷彩を起動しろ。ダミーIPの有効期限は残りわずかだぞ」


 クロノスの急かす声に従い、魁人は和服の上から羽織っていた、くすんだ灰色のポンチョのフードを深く被った。秋葉原のジャンクショップ「電脳堂」の女主人、お銀から授かった『ステルス・迷彩ポンチョ』。10年前の大崩壊時に特殊部隊が使用していたというロストテクノロジーの遺品だ。


 魁人はポンチョの内側にある簡易スイッチを押し、手首のスマートウォッチのキーを叩いた。指先がデリートの代償による電気ショックでかすかに麻痺し、タイピングがもどかしい。だが、何とかクロノスから送信された『ダミーIP認証プロファイル』をシステムにロードする。


 ピピッ、とスマートウォッチの画面に冷酷なカウントダウンが表示された。


『警告:ダミーIPの有効期限、残り5分。照合スキャン遅延処理実行中』


 駅前通りに設置された高密度監視カメラが、魁人の被るフードの隙間を狙うように走査線を伸ばしてくる。魁人は歩きながら、スマートウォッチの仮想キーボードをミリ秒単位で叩き続けた。ダミーIPの身分偽装プロファイルをリアルタイムで書き換え、カメラのスキャン処理を1ミリ秒ずつ遅延させる。脳内メモリを極限まで消費する、綱渡りのようなステルス逃亡だ。


 その時、頭上から「ロー、ロー」という不気味な風切り音が近づいてきた。監査機関の哨戒ドローン「CB-01」だ。赤いスキャンレーザーが、雨の降るアスファルトを舐めるようにして魁人の足元へと迫る。


(しまっ……上空からの熱源スキャンか!)


 魁人は迷わずポンチョの完全光学迷彩スイッチを過剰駆動させた。ポンチョの表面に編み込まれたマイクロ素子が、周囲の光と電磁波を強引に屈折させ、彼の質量と熱源のデータを空間の背景データと同調させる。


 ドローンの放つ赤いレーザーが、魁人が一歩を踏み出したまさにその地点を通過した。熱源センサーは魁人の姿を捉えることができず、ただの雨水が流れるアスファルトとして処理する。ドローンは不審なログを検知することなく、ゆっくりと頭上を通り過ぎていった。


 ふう、と息を吐き出した瞬間、カバンの奥のクロノスが警告音を鳴らした。


『警告:ポンチョの過剰駆動による電気的バックラッシュを検知。クロノス端末のバッテリー残量、30%まで急低下』


「おいおい、このポンチョは電力をバカ食いするな。これ以上の過駆動は端末自体のフリーズを招くぞ」


「わかってる……。でも、母さんのところに行かなきゃいけないんだ。アパートがマークされる前に」


 魁人は雨に濡れた商店街の影を縫うようにして、笹塚へと急いだ。脳内チップのキャッシュ領域に、微弱な暗号シグナルとして保存されている『莉音のペアリングコード』が、彼の首の後ろの金属製端子の奥でかすかに脈動していた。


(莉音……君が拉致される直前に残した、このコードだけが、君を救い出すための唯一の手がかりだ。待っていてくれ、必ず助けに行く)


 だが、その追跡を開始するためには、まず自分の安全と、何よりも養母である海藤美沙子の安全を確保しなければならなかった。魁人の脳裏に、優しく唐揚げを作ってくれた美沙子の笑顔が浮かぶ。彼女は監査機関によって「実の息子を失った記憶」を改変され、魁人を本当の息子だと信じ込まされている。魁人がテロリストとして指名手配された今、彼女の元にも必ず監査機関の手が伸びるはずだった。


 逃走を続けながら、魁人はクロノスのバックグラウンド解析ログをスクロールした。そこには、学校のサーバーから魁人のMACアドレスログが特定され、それがクラスメイトの水野拓也のタブレット端末を経由して、監査機関に送信されていた形跡が残っていた。


(水野の奴、学校のサーバーから俺のログを特定してやがったか……。だから監査機関の追跡がこれほど早いんだ。日常のすべてが、最初から俺を捕らえるための罠だったっていうのか)


 やり場のない怒りが、魁人の胸を焦がす。親友だと思っていた康平たちとの日常も、すべてが嘘のように崩れ去っていく。


 やがて、見慣れた笹塚の築30年の古いアパート、「海藤家のアパート」が見えてきた。雨に煙るアパートの外観は、普段通りの静けさを保っているように見えた。だが、魁人が『バグ・アイ』の灰色ノイズの隙間から周囲を凝視した瞬間、アパートの正面玄関の周囲に、不自然に配置された幾何学的なグリッドの歪みを発見した。


(正面玄関のセンサー……。赤外線トラップが仕掛けられている。やっぱり、もう監査機関の手が回っているのか?)


 正面から突入すれば、即座にアラームが鳴り響き、ドローン部隊に包囲される。魁人は正面突破を諦め、アパートの裏手に回り込んだ。雨に濡れたベランダの配管、錆びついた雨樋が、彼の唯一の潜入ルートだった。


 魁人はポンチョを濡らしながら、配管に手をかけた。右手の指先には、ヘルハウンド戦の過負荷による軽い麻痺が残っており、鉄のパイプを掴む力がうまく入らない。冷たい雨が体温を奪い、指先が滑る。


「くそっ……動け、俺の体……!」


 歯を食いしばり、魁人はベランダの柵に足をかけ、強引に2階の海藤家のベランダへと身体を引き上げた。アルミのサッシは、内側から誠一が施した古い物理ロックのままで、魁人がスマートウォッチから微弱なパルスを送ると、カチャリと小さな音を立てて解錠された。魁人は音を立てずに、暗い室内へと滑り込んだ。


 室内は静まり返っていた。雨の音が窓ガラスを叩く音だけが響いている。


 魁人がリビングへ進むと、ソファの上で、養母・美沙子が静かに眠っていた。その表情には疲労の色が濃く、エプロン姿のまま横たわっている。


(母さん……!)


 駆け寄ろうとした魁人は、バグ・アイの視界の中で、美沙子の手首に光る古い腕時計を捉えた。義父・海藤誠一の遺品であるその腕時計。バグ・アイの視覚を通すと、その腕時計から、目に見えない微弱な電磁ノイズが一定の周期で放出されているのが見えた。そのノイズは、美沙子の首の後ろの端子へと流れ込み、彼女の脳内チップの強制改変プロトコルを、まるで薄い防壁のように微かに妨害し、彼女の自発的な感情を繋ぎ止めていたのだ。


(親父の遺した腕時計が……母さんの脳内チップの改変を、無意識のうちに防いでいたのか。親父は、死んでからも母さんを守り続けていたんだ)


 誠一の家族への深い愛情に、魁人の胸が熱くなる。だが、その腕時計の防壁を嘲笑うかのように、アパートの階段を上る静かな、しかし確実な足音が近づいてきた。


 魁人はハッとしてリビングの物陰に身を潜めた。ポンチョのステルス機能を極小出力で維持し、息を殺す。


 足音は海藤家のドアの前で止まった。鍵穴に物理的なキーが差し込まれたわけではない。だが、ドアの電子ロックが、不自然なハッキングコードの干渉を受けて、カチャリと解錠された。ゆっくりと開いたドアから入ってきたのは、下の階に最近引っ越してきた、愛想の良いサラリーマンの「田中」だった。


 田中は普段の温厚な笑顔を完全に消し去り、冷酷な、機械のような目で室内を見回した。その手には、不気味に発光する極小の針型デバイス――『ナノスパイ・インジェクター』が握られていた。


 魁人の右目のバグ・アイが、田中のポケットから漏れ出ている不審な電波シグナルを捉えた。クロノスが瞬時にそのパケットを解析し、レシーバーに最悪の答えを告げる。


『解析完了:送信元プロトコル、システム監査機関・潜入工作員D級。海藤家への盗聴・監視ログの送信履歴を検出』


(田中……お前、ただの隣人じゃなかった。俺たちを監視し、母さんを人質に取るために送り込まれた、監査機関の工作員だったのか!)


 激しい怒りと焦燥が、魁人の脳内メモリを限界まで沸騰させる。マルチスレッドの演算領域が、田中の脳内チップの接続ポートをロックオンした。


 田中は音もなく美沙子の眠るソファへと近づき、ナノスパイ・インジェクターを彼女の首元の端子へと向けた。インジェクターの針先が青く発光し、美沙子の脳内チップへの強制アクセス、彼女の記憶を完全に焼き切るための同期プロトコルが開始されようとしていた。


(母さんに、指一本触れさせない……!)


 魁人は暗闇の中で、クロノスと直結した手を固く握り締め、田中の背後から静かに躍り出た。同期プロトコルの電波が、美沙子の首元で激しくスパークする緊迫の瞬間、二人の距離はゼロへと縮まろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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