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宮下公園の猟犬

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「警告:未承認の生体近接スキャンを検知(プロトコル:監査機関デバッガー・C級)」


 夕暮れの赤い光が差し込む旧校舎の非常階段の踊り場に、スマートウォッチの無機質な警告音が鳴り響いた。液晶画面が真っ赤に点滅し、魁人の肌を不気味に照らし出す。


 莉音の指先が、魁人の首の後ろの金属製端子――生まれつきだと思っていた、その冷たいインターフェースの皮膚に触れる寸前だった。魁人は背筋に冷水を浴びせられたような戦慄を覚え、反射的に莉音の手首を掴んで引き剥がした。


「白石……何をする気だ?」


 魁人の声は低く震えていた。右目の『バグ・アイ』が自動的に起動し、莉音の輪郭をデータとしてレンダリングする。彼女の瞳の奥で、コンマ数ミリ秒だけ、赤い幾何学的なデバッグパターンが明滅したのを魁人は見逃さなかった。


 だが、莉音はすぐにいつもの無邪気な、清楚な女子高生の笑顔を浮かべて見せた。


「え……? 何って、海藤くん、首の後ろに何かゴミが付いてるよ? 髪の毛に絡まってて……。痛かった?」


 完璧な演技だった。しかし、魁人のバグ・アイは、彼女の脳内チップから自分に向けて放たれている未承認の『生体近接スキャン』のパケットデータをはっきりと捉えていた。彼女は普通のクラスメイトなどではない。自分を檻に閉じ込め、生体データを奪取するための監査機関の『デバッガー』なのだ。


 疑念が確信に変わった瞬間、莉音のスマートフォンが鋭くバイブレーションを始めた。彼女は画面を一瞥すると、その表情を強張らせ、魁人から一歩身を引いた。


「時間がない……。海藤くん、今日の放課後、渋谷の宮下公園の裏路地に来て。そこに、すべてがあるから。私の本当の役割も、君が知るべき真実も……。お願い、信じて」


 莉音は言い残すと、振り返ることもなく階段を駆け下りていった。重い鉄扉が閉まる音が、静まり返った踊り場に虚しく響く。


「ヒよっこ、罠だぞ」


 カバンの奥から、クロノスのノイズ交じりの声が耳元の骨伝導レシーバーに届いた。


「あの娘は完全にシステム側の人間だ。お前を誘い出し、その首の端子から最高機密コードを引っこ抜くつもりだ。行けばお前の存在データは完全に解体される」


「……それでも、行くしかないんだ、クロノス」


 魁人は鼻血の跡を袖で拭い、強く拳を握りしめた。


「白石が何を隠しているのか、俺の記憶が何なのか。確かめないと、俺は一生、この『偽物の日常』の中で飼い殺しにされるだけだ」


 放課後の渋谷。夕暮れの街は、紫色の空とけばけばしいネオンの光が混ざり合い、異様な二面性を醸し出していた。宮下公園の高架下に位置する裏路地は、湿ったゴミの臭いと、頭上を走る高圧電線の重低音が響く、データの死角エリアだった。


 魁人が薄暗い路地裏に入ると、莉音が一人、電線のスパークを見上げるようにして立っていた。制服のままの彼女は、どこか壊れそうなほど儚げに見えた。


「来てくれたんだね、海藤くん」


「白石、教えてくれ。君は本当に……監査機関のデバッガーなのか?」


 莉音はゆっくりと振り返り、悲しげに瞳を伏せた。


「そうよ。私の任務は、君――『Error-00』の覚醒度を監視し、臨界点に達した瞬間に報告すること。君を完全に管理するために、私は君の日常に配置された。……でも、昨日の渋谷で、君は命がけで私をバグから守ってくれた。その優しさに触れた瞬間、私のシステムが狂ってしまったの。任務を遂行しなきゃいけないのに、君を消させたくないって……」


「白石……」


 その時、突如として周囲の空間グリッドが激しく歪み始めた。


 キィィィィン――!


 鼓膜を刺すような高周波ノイズが響き渡り、アスファルトやコンクリートの壁のテクスチャがモザイク状に剥がれ落ちていく。現実の物理判定が消失していく恐怖。路地の奥から、青い二進法の炎を全身から吹き出す、巨大な猟犬型のバグモンスター――『ヘルハウンド』が這い出てきた。


 ヘルハウンドの無数の赤い瞳が魁人をロックオンする。バグは路地裏の壁を蹴り、弾丸のような速度で魁人に向けて跳躍した。


「くそっ!」


 魁人は咄嗟に右手をかざし、空中高速タイピングで防御コードを記述した。


『BARRIER_DEPLOY [Range_1m]』――Enter!


 魁人の前方に、青い六角形のデジタルグリッドで構成された『ロジック・バリア』が展開される。しかし、ヘルハウンドが纏う青いバイナリの炎は、物理的な障壁だけでなくデータそのものを直接焼き切る属性を持っていた。バリアにバグの牙が触れた瞬間、激しい電子音と共にシールドがひび割れ、一瞬でガラスのように砕け散った。


「バリアが持たない……! データごと消去する炎か!」


 衝撃波で地面を転がる魁人。ヘルハウンドはすぐさま体勢を立て直し、次の強襲のために壁を駆け上がる。そのスピードは魁人のタイピング速度を遥かに凌駕していた。


「ヒよっこ、奴の速度に合わせようとするな!」


 クロノスの声が脳裏に響く。


「奴は生体電磁波を追跡している。環境のコードを書き換えて罠を張れ!」


 魁人は激痛を堪えて『バグ・アイ』を起動した。右目の視界が青いグリッドに剥がれ落ちる中、路地裏の壁に設置された古い配電盤が、赤く発光するハック対象として浮かび上がる。魁人はスマートウォッチを介して、クロノスの演算スレッドを配電盤の電圧システムに直結させた。


『OVERLOAD [Voltage_Max]』――実行!


 コンマ数ミリ秒のハックにより、配電盤の安全リミッターが強制解除される。ヘルハウンドが魁人に向けて空中で牙を剥いた瞬間、配電盤が凄まじい閃光と共に爆発した。


 バリバリバリッ!


 青白い巨大なアーク放電が路地裏を支配し、高電圧の電磁パルスが空間を満たす。ヘルハウンドの電磁センサーはこの物理的な大放電ノイズによって完全に飽和し、空中での姿勢制御を失ってコンクリートの地面へと激しく転がった。


「今だ!」


 魁人は立ち上がり、右目のフォーカスをヘルハウンドの胸の奥で赤く脈動するコアアドレスに合わせた。指先が虚空で神速の軌跡を描く。


『DELETE [Hellhound_Core_041]』


 コマンドの確定と同時に、青い光のコードがヘルハウンドのコアに絡みついた。バグの構成コードが一瞬にして『0』と『1』の二進法粒子へと分解され、空間から完全にデリートされた。


 しかし、ハッキングの直後、凄まじい熱風――『デリートの代償』がバックブラストとなって魁人を襲った。魁人は壁に激突し、脳の処理限界を超えた過負荷(オーバーヒート)が右目を襲う。


「あ、ああ……右目が……!」


 針で刺されたような激痛。魁人の右目の瞳から一筋の鮮血が流れ落ち、視界の半分が、激しい砂嵐の灰色ノイズで完全に塞がれた。


「素晴らしいデバッグだったよ、海藤くん」


 煙の向こうから、聞き覚えのある、しかし冷酷な声が響いた。魁人がノイズに塗れた目で前方を見据えると、そこには、くたびれたスーツを着た担任の佐藤健吾が立っていた。その手には、黒い金属製の高品位トラッキングコンソールが握られている。


 そして佐藤の隣には、顔の部分が滑らかな白い仮面で覆われた、不気味な黒いスーツ姿の人型兵器――『クリーナー・タイプ01』が佇んでいた。


「佐藤……先生……?」


「やはり君は『Error-00』。プロジェクト・アダムの最高傑作だ。そのハック速度、デリートの精度……実に素晴らしい」


 佐藤は冷ややかに微笑み、コンソールを操作した。魁人は震える手でクリーナーをデリートしようとしたが、画面には『ACCESS DENIED / BIOLOGICAL PROTECT』の赤い文字が非情に点滅する。生体や自律兵器への直接デリートは、システム制限によって完全に弾かれるのだ。


「無駄だよ。君を回収し、その脳内メモリを完全に解体させてもらう」


 佐藤が合図を送ると、クリーナーが腕を掲げ、魁人に向けてデータ消去弾を放とうとした。過負荷で動けない魁人は、死を覚悟した。


「危ない!」


 その瞬間、莉音が魁人の前に割り込んだ。彼女は手にした『デバッグナイフ』を斜めに振り下ろし、放たれたデータ消去パルスの軌道を物理的に切り裂いて霧散させたのだ。


「白石莉音。やはり組織を裏切るか。デバッガーとしての記憶を再最適化する必要があるな」


 佐藤が冷酷に呟く。クリーナー・タイプ01が驚異的な速度で莉音に肉迫した。莉音は近接格闘で応戦するが、クリーナーの圧倒的な物理的拘束力に両腕を背後にねじ上げられ、完全に固定されてしまう。


「放して! 海藤くん、逃げて――!」


「白石!」


 魁人が手を伸ばす中、クリーナーの指先から極小の『改変ロックチップ』が射出され、莉音の首の後ろの金属製端子へと物理接続された。チリ、と青い火花が散る。


「あ……」


 莉音の身体が激しく硬直する。彼女の瞳から赤いデバッグ光が消え去り、その瞳は、焦点の合わない完全に虚ろなガラス玉のようになっていく。記憶消去プロトコルが、彼女の脳内チップに強制的に書き込まれていくのだ。


 クリーナーは、意識を失った莉音の身体を抱きかかえ、路地裏の奥に停車していた黒いセダンの後部座席へと放り込んだ。魁人の悲痛な叫びは、車のドアが閉まる鈍い音にかき消された。


 佐藤は車に乗り込む直前、魁人に向けてコンソールを掲げ、不敵な笑みを浮かべた。


「海藤魁人。お前の日常は、今日ここで完全に終了した」


 佐藤がコンソールを確定すると、渋谷中のデジタルサイネージ、ビルの巨大スクリーン、そして駅前の液晶モニターが一斉にノイズを発した。次の瞬間、すべての画面に、魁人の顔写真と『最優先テロ容疑者』の文字が投影された。


 雨が降り始めた渋谷の街に、無数の警察車両のサイレンと、上空を埋め尽くすドローンの駆動音が響き渡り、魁人を包囲するように迫ってくる。

HẾT CHƯƠNG

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