日常に潜む監視線
「お前の脳内メモリには、世界を崩壊させかねない最高機密コードが眠っている」――不敵に笑うドット絵の賢者が告げたその言葉は、魁人の平凡な日常の終わりを告げる冷酷な宣告だった。
昨夜、自立型AI『クロノス』から告げられた自らの出生の歪み。生体CPU、プロジェクト・アダム、そして『エラーコード00』。それらの単語が脳内で電子の残響のようにリフレインする中、海藤魁人はいつも通りの都立笹塚高校の制服に身を包み、笹塚駅前通りの喧騒の中に立っていた。いつもと変わらない、どこにでもある東京の朝。主婦が自転車を走らせ、サラリーマンが足早に駅へと向かう。しかし、魁人の目には、そのすべてが薄氷の上の偽物にしか見えなかった。
魁人は周囲の目を盗み、右目の『バグ・アイ』を静かに起動した。
世界が一瞬にして剥がれ落ちる。華やかな街並みのテクスチャの裏側から、青い二進法コードと幾何学的なグリッドラインが剥き出しになる。その視界の中で、笹塚駅前通りに設置されたすべての街頭防犯カメラのレンズが、異様な動きを見せていた。カメラの光軸から伸びる、肉眼には見えない赤いセンサー光が、まるで意思を持つ触手のように魁人の身体を執拗に追跡しているのだ。魁人が一歩進むたびに、グリッド線が赤く明滅し、彼の座標ログをどこかへ送信している。
(やっぱり……俺はもう、システムに捕捉されているのか。渋谷でのデリートのログが、監査機関の網に引っかかったんだ)
魁人は冷や汗を拭い、学ランの襟をきつく合わせて首の後ろの金属製端子を隠した。カバンの中に深く押し込んだクロノス端末が、微弱な有線パルスを通じて「目立つな」と警告しているようだった。彼は足早に監視カメラの死角を縫い、都立笹塚高校の校門を潜り抜けた。
校内に入っても、その異常な包囲網は変わらなかった。廊下、昇降口、そして教室の隅に設置された防犯カメラのレンズが、すべて魁人の動きに合わせてかすかにモーター音を立てて同期している。まるで、巨大な蜘蛛の巣の中心に自ら飛び込んでしまったかのような、息の詰まる息苦しさだった。
朝のホームルームが始まる直前、教室のドアが開き、担任の佐藤健吾が入ってきた。くたびれたスーツに、どこか覇気のない冴えない表情。普段の「ちょっと口うるさい良い先生」そのものの姿。だが、魁人がバグ・アイを向けた瞬間、佐藤の輪郭が真っ赤な監視プロトコルで満たされた。佐藤は出席簿を教卓に置くと、不自然なほどまっすぐに魁人の席へと歩み寄ってきた。
「海藤、体調はどうだ? 昨日、渋谷の騒ぎの近くにいたそうじゃないか。怪我はなかったか?」
佐藤の声は優しかった。しかし、その目は魁人の表情のわずかな動きを逃さまいと、鋭く見開かれている。佐藤の手はスラックスのポケットに突っ込まれており、そこから微弱なミリ波の走査シグナルが放出されていた。
魁人のバグ・アイが、佐藤のポケットの中にある『教職用スマート出席簿』の画面を透過して捉える。そこには、魁人の起床時間、タイピング数、そしてリアルタイムでのバイタルデータを収集している『佐藤担任の「監視ログ」』がスクロールしていた。魁人の首元の端子から、佐藤の端末へ向けて強制的なバイタルスキャンが仕掛けられているのだ。
(しまっ……心拍数が急上昇している。このままじゃ生体CPUとしての異常な脳波パターンを検知される!)
魁人は机の下で、カバンの中のクロノス端末のボタンをブラインドで操作した。クロノスの『適合者データ』偽装パッチを起動し、自身のバイタルログを「一般の適合率98%の市民」に上書きする。佐藤のポケットの中の端末が、ピッと微弱な電子音を立てて「適合」の緑色サインを示した。佐藤の瞳の奥に、一瞬だけ落胆の色がよぎる。
「……いえ、佐藤先生。ただの電車の遅延に巻き込まれただけです。体調は問題ありません」
「そうか。ならいいんだが。無理はするなよ」
佐藤は魁人の肩をぽんと叩き、その手を離した。だが、二つの処理スレッドをフル稼働させてリアルタイムでのデータ偽装を維持した代償は、魁人の17歳の脳に過酷なオーバーヒートをもたらした。脳髄が沸騰するような激痛。魁人は授業中、視界が激しく点滅するのを感じ、こらえきれずに机の上に一滴の鮮血を滴らせた。
「あ……」
鼻血だ。魁人は慌ててティッシュで鼻を押さえた。周囲の生徒が怪訝そうにこちらを見る中、隣の席から、いつもと変わらない笑顔で白石莉音が話しかけてきた。
「海藤くん、大丈夫? 昨日からちょっと様子がおかしいよ。保健室、行く?」
莉音の清楚な美しさと、心配そうな優しい声。しかし、魁人は彼女の瞳の奥を凝視した。バグ・アイの視界の中で、莉音の思考ログは完璧に美しく整えられていた。昨日、渋谷でアラクネの襲撃を受け、非常階段から落下したはずの彼女。だが、彼女のデータには、昨日の出来事が「普通の放課後の買い物」として上書きされている。システム監査機関による『記憶の定期最適化』。彼女の記憶は、都合よく書き換えられていた。
だが、その完璧な「適合市民」のログの奥深く、莉音の瞳の最深部で、コンマ数ミリ秒だけ、赤い幾何学的なデバッグパターンが走るのを、魁人のバグ・アイは見逃さなかった。
(莉音……お前は本当に、ただ記憶を消された被害者なのか? それとも、俺を檻に閉じ込めるための、監査機関の『デバッガー』なのか?)
疑念が泥のように魁人の胸に沈殿していく。莉音の差し出すティッシュを受け取る手が、かすかに震えた。
放課後、嵐のような緊張感から逃れるように教室を出た魁人だったが、廊下で立ち塞がったのは、パソコン部部長の水野拓也だった。眼鏡の奥の目を不快そうに細め、水野は自身のスマートタブレットを魁人の目の前に突き出してきた。
「海藤、ちょっと面を貸せ。お前に聞きたいことがある」
水野に連れられたのは、人気の途絶えた旧校舎の非常階段の踊り場だった。水野はタブレットの画面をフリックし、校内サーバーのアクセスログを表示した。
「昨日、渋谷でシステムグリッチが発生した時間帯、うちの学校のローカルサーバーから外部の『始まりの端末』に向けて、異常な管理者バイパス接続が行われている。その接続元MACアドレス……お前が先週、部室に持ち込んだあの古いゲーム機の物理アドレスと完全に一致しているんだよ」
水野の言葉は、嫉妬と不審に満ちていた。パソコン部で常にトップを自負していた彼にとって、冴えない魁人が自分以上の高度なハッキングを行っているかもしれないという事実は、許しがたいプライドの侵害だった。
「どういうことだ、海藤? お前、裏で何をやっている? このログを佐藤先生や警察に提出されたくなければ、すべて白状しろ」
魁人の心臓が警鐘を鳴らす。今すぐ水野のタブレットをハックしてログをデリートすることは容易だった。だが、周囲にはまだ他の生徒たちの気配がある。ここで未承認コードを実行すれば、校内に張り巡らされた監視カメラが即座に『Error-00』の異常パケットを検知し、監査機関の追跡ドローンが1分以内にこの場所に急行するだろう。力技での解決は、自滅を意味していた。
「それは……ただのフリーWi-Fiの自動接続バグだよ。ネットで拾った古い接続アプリを入れてたから、勝手にポートが開いちゃったんだと思う」
「そんな子供騙しの言い訳が通用すると思っているのか!?」
水野が激昂し、魁人の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。その瞬間、非常階段の重い鉄扉が開き、莉音が姿を現した。
「水野先輩、何をしてるんですか? 先生たちが下で探してましたよ。パソコン部の活動予算の件で、至急職員室に来るようにって」
莉音の冷徹な、しかし有無を言わせない声。水野は舌打ちをし、魁人を睨みつけると、タブレットを抱えて足早に階段を駆け下りていった。
静まり返った踊り場。夕暮れの赤い光が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。魁人は壁にもたれかかり、荒い息を吐きながら莉音を見つめた。彼女はいつもの優しい、どこか儚げな笑顔に戻り、魁人に一歩近づいた。
「海藤くん、本当に大丈夫? 最近、何か大きな悩みを抱えてるみたい。私で良ければ、力になるよ?」
莉音の指先が、魁人のこわばった肩に触れ、そのまま吸い寄せられるように、彼の学ランの襟元――首の後ろの金属製端子が隠された皮膚へと滑り込んでいく。彼女の瞳の奥で、再びあの赤いデバッグ光が静かに明滅した。
その瞬間、魁人のポケットの中で、スマートウォッチが突如として激しい振動を始めた。液晶画面に、真っ赤な警告文字が浮かび上がる。
『警告:未承認の生体近接スキャンを検知(プロトコル:監査機関デバッガー・C級)』
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