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デリート・コマンド

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「始まりの端末」――空間の裂け目から露出したゴールドに輝く物理ポートに、魁人の右腕から伸びた光のラインが物理接続された瞬間、彼の脳髄は未だかつて経験したことのない暴力的かつ高熱のデータストリームに直撃された。


「が、あ、あぁぁぁっ……!」


 脳が沸騰する。数万、数億行の二進法コードが、生体CPUとして覚醒しつつある魁人のニューロンへ直接、濁流のように流れ込んでくる。視界の右半分を占める青い仮想ターミナルが、処理限界を超えたシステムログで埋め尽くされ、真っ赤な「WARNING: MEMORY OVERFLOW」の警告が点滅を繰り返す。首の後ろの金属製端子は、まるで直接半田ごてを押し当てられたかのように熱を帯び、魁人の肉体を内側から焼き焦がそうとしていた。


 目の前では、電子回路の蜘蛛『アラクネ』が、巨大な基板の脚を振り上げて魁人と莉音を押し潰そうと迫っている。その赤い無数の瞳に流れるエラーコードが、獲物を確実に消去(デリート)するプロトコルの完了を示していた。


(動け……! ここでフリーズして、たまるか……!)


 魁人は歯を食いしばり、必死に意識を繋ぎ止めようとした。だが、流れ込むデータの濁流は彼の論理思考を完全にマヒさせ、指先一つ動かすことすら許さない。右目のバグ・アイが、アラクネのコードと周囲のグリッド線を二重、三重のブレとして捉え、視界が急速にノイズで歪んでいく。


 その時、脳裏に直接、極めて微弱だが、ノイズに埋もれない奇妙なナビゲーション信号が響いた。


『――ターゲットの右関節ノードに周波数脆弱性を検知。接続コード:Arachne_R_Arm_098A。そこに撃ち込め、ヒよっこ』


 誰の声だ? いや、声ではない。それは、魁人が接続している「始まりの端末」の深部から、彼の脳内チップへ向けて送信された、明確なハッキング・ナビゲーションだった。魁人のバグ・アイが、その信号に導かれるようにアラクネの右腕の付け根を捉える。そこには、周囲の黒いコードとは明らかに異なる、赤く明滅する「記述エラー(バグ)」の一行が剥き出しになっていた。


「コード入力の物理原則」――ハックは万能ではない。現実を書き換えるには、正確なコマンド入力を物理的に実行しなければならない。魁人は本能的に、震える右手を空間にかざした。指先から青い光のラインが伸び、虚空に半透明のキーボードがレンダリングされる。


「デ、DELETE……!」


 焦りと高熱による手の震えが、入力の精度を狂わせた。空間に打ち出された文字は、無情にもスペルミスを告げる。


『DEELTE [Arachne_R_Arm_098A]』


 システムログが冷酷な電子音と共に赤く染まる。[ERROR: Command Not Found]。


 アラクネの巨大な脚が、空気を切り裂いて魁人の頭上へと振り下ろされた。バリアコードの記述すら間に合わない。魁人は莉音の身体を抱き寄せ、無様に地面を転がった。直後、彼らがいたアスファルトが轟音と共にボクセル状に粉砕され、テクスチャが剥がれ落ちた奈落の虚無が顔を覗かせる。一歩間違えれば、存在ごと消去されていた。


「海藤くん、無茶だよ! 早く逃げて!」


 莉音が叫ぶ。その瞳には、恐怖だけではない、何かを隠し持っているような鋭い光が一瞬だけ宿っていた。だが、魁人にそれを分析するメモリの余剰はなかった。


「まだだ……! まだ終わらせない!」


 魁人は立ち上がり、再び右手を空間に突き出した。脳の処理速度を極限まで引き上げる。並行思考の領域を強引にこじ開け、右目のノイズを意志の力でねじ伏せる。アラクネの右腕ノードのIDが、バグ・アイの視界の中で赤く発光している。


 今度は、一文字のミスも許されない。魁人はコンマ数秒の世界の中で、指先を神速で動かし、空間のキーボードを叩いた。


『DELETE [Arachne_R_Arm_098A]』――Enter。


 コマンドの確定と同時に、渋谷スクランブル交差点の地下百メートルから、地響きのような駆動音が響き渡った。地中の暗闇から起動したのは、10年前に放棄されたはずの巨大なメンテナンス用重機ロボット「零号」だった。


 バリバリとアスファルトを突き破り、錆びついた巨大な金属製の4本アームが地上へと出現する。零号の制御システムは、魁人の「エラーコード00」の管理者権限によって完全に上書きされていた。零号のアームは、魁人のタイピングと完全に同調し、アラクネの右腕を物理的に強固に掴み取った。


 キシャァァァァッ!?


 アラクネが苦悶の咆哮を上げる。零号のアームを通じて、魁人の『クイック・デリート』コマンドが直接アラクネのシステム領域へと注入された。アラクネの右腕を構成していた『0』と『1』の二進法コードが、青い光の粒子となって激しく点滅し始める。そして、次の瞬間、巨大な蜘蛛の右腕全体が、ボクセル状のデジタルノイズとなって一瞬で分解され、空間から完全に消去(デリート)された。


 だが、ハッキングはタダでは済まない。「デリートの代償」――質量保存の法則に基づき、消去されたアラクネの右腕の質量は、凄まじい熱エネルギーへと変換された。アラクネの傷口から、青い光を纏った超高熱の熱風(バックブラスト)が爆風となって吹き荒れる。


「うわあああっ!」


 魁人はその衝撃波に吹き飛ばされ、路地裏のコンクリート壁に激突した。制服の学ランは熱風で焦げ、右手の指先は激しい電気ショックを受けたかのように一時的に完全に麻痺し、感覚を失っていた。


 右腕を失ったアラクネは、自身のシステム構造が致命的なエラーを起こしたことを検知し、無数の赤い瞳を激しく点滅させながら、空間の裂け目であるノイズの底へと退散していった。空間の歪みが急速に収束し、剥がれ落ちていた現実の風景が、何事もなかったかのように元の渋谷の街並みへとレンダリングし直されていく。


 ハトが羽ばたき、静止していた人々が一斉に動き出す。喧騒が戻る中、魁人はその場に崩れ落ち、麻痺した右手を抱えて荒い息を吐いた。


「海藤くん!」


 莉音が駆け寄り、彼の肩を支える。その瞳には、深い懸念と、何か重大な事実に気づいてしまったかのような複雑な色彩が交錯していた。だが、彼女はすぐにいつもの優しいクラスメイトの表情を作り、魁人の顔を覗き込んだ。


「大丈夫……? 怪我は?」


「ああ、なんとか……。でも、今の、一体何だったんだ……?」


 魁人は自分の首の後ろに触れた。熱は引いていたが、冷たい金属の端子の感触は、先ほどの出来事がすべて現実であったことを冷酷に証明していた。日常に戻ったはずの渋谷。しかし、魁人の目には、ビルの隙間や街頭カメラのレンズの奥に、かすかな「青いグリッドの残像」が焼き付いて離れなかった。


 ――その夜、笹塚の古い自宅アパートに帰宅した魁人は、養母の美沙子が作った唐揚げの匂いにもどこか集中できず、自分の部屋へと引きこもった。美沙子の「お帰り、魁人。今日も学校お疲れ様」という優しい言葉に、かすかなデータの「不整合」を感じてしまう自分自身に、強い恐怖を抱いていた。


 魁人は、部屋の物置の奥深くに眠っていた、義父・誠一の遺品を引っ張り出した。それは、誠一が「絶対に手放すな」と遺した、10年前のレトロな携帯ゲーム機を模したエミュレーター端末だった。


 魁人は、端末の側面から伸びる、古い規格の有線ケーブルを見つめた。そして、意を決して、その端子を自身の首の後ろの金属ポートへと直接物理接続(ペアリング)した。


 カチリ、と冷たい金属音が響き、魁人の脳内に再び微弱な電流が走る。


 エミュレーターの液晶画面が不自然に明滅し、ノイズ交じりのドット絵が表示された。画面に浮かび上がったのは、粗いドットで描かれた、ローブを羽織った偏屈そうな老賢者の姿だった。次の瞬間、魁人の右目の仮想ターミナルが勝手に起動し、老賢者の声が、脳内に直接響き渡った。


『よう、ヒよっこ。随分と手荒なデリートをしてくれたじゃねえか。おかげで俺の起動シーケンスまで強制パッチが当たっちまった』


「喋った……? お前、何なんだ?」


『俺の名はクロノス。お前のオヤジ、海藤誠一が遺した自立型ハッキングAIだ。そして、お前の首の後ろにあるその端子……』


 ドット絵の賢者が、魁人の脳内データをスキャンするように、右目のターミナル上に複雑な波形ログを展開した。


『一般ユーザー権限を逸脱する固有エラーコード「Error-00」。お前の脳は、ただの肉じゃない。世界のシステムを根底から書き換える生体CPU、「プロジェクト・アダム」の成果物だ』

HẾT CHƯƠNG

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