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バグった世界と青い瞳

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東京、渋谷。世界で最も過密なスクランブル交差点は、いつも通りの喧騒に包まれていた。押し寄せる人の波、ビルの壁面を彩る巨大なデジタルサイネージ、鼓膜を震わせる雑多な流行歌。十七歳の海藤魁人は、そのノイズの海を泳ぐように歩いていた。隣を歩くクラスメイトの白石莉音の、制服のスカートが風に小さく揺れている。


「ねえ、海藤くん。最近、なんだか街の様子が変だと思わない?」


 莉音がふと足を止め、黒髪の隙間から端整な横顔を覗かせた。彼女の澄んだ瞳が、交差点を行き交う人々を静かに見つめている。


「変、って?」


「うーん、なんて言えばいいのかな。みんな同じ顔をして、同じタイミングでスマホを見ているような……まるで、誰かに決められたプログラム通りに動いているみたいに見えるの」


 魁人は苦笑いした。莉音は時折、こういう奇妙なことを言う。だが、彼女の言葉を単なる妄想だと切り捨てることはできなかった。なぜなら、魁人自身も幼い頃から、この世界に対して言葉にできない違和感を抱き続けていたからだ。まるで、自分が生きているこの現実そのものが、精巧に作られた薄い膜の一枚に過ぎないような、そんな奇妙な感覚。


 無意識のうちに、魁人は自分の首の後ろに手を当てた。そこには、生まれつきだと言い聞かされてきた、小さな金属製の端子のような突起がある。皮膚に埋め込まれたそれは、時折、冷たい金属の感触を指先に伝えてきた。


 その時だった。


 キィィィィィン――。


 鼓膜を直接針で突き刺すような、殺人的な高周波のノイズが魁人の脳内を駆け抜けた。


「うっ……!」


 魁人は思わず頭を押さえてうずくまった。隣の莉音も耳を塞いでいる。しかし、異常はそれだけでは終わらなかった。周囲の喧騒が、嘘のように一瞬で消え去ったのだ。


 いや、消えたのではない。世界が「静止」したのだ。大型ビルの巨大スクリーンに映し出されていた映像がノイズまみれでフリーズし、交差点を渡っていた数千人の歩行者たちが、足を一歩踏み出した不自然な姿勢のまま完全に静止している。宙に舞い上がったハトさえも、羽を広げた状態で空間に固定されていた。まるで、動画の再生ボタンを一時停止されたかのように。


「何だ、これ……? みんな、どうしちまったんだ?」


 魁人が息を呑んだ瞬間、目の前の空間が「剥がれ」始めた。アスファルトの道路、そびえ立つビル群、そして静止した人々の身体の表面が、パラパラとモザイク状に崩れていく。その下に現れたのは、現実の物質ではない。無限に広がる、青い光の二進法コードと幾何学的なグリッドラインだった。


 それこそが、この世界の真の姿――全人類の意識と記憶を支配する量子サーバー『ガイア・グリッド』の記述言語だった。普段は高度なレンダリング技術によって「現実の東京」として出力されている風景が、致命的なバグによってその素肌を晒しているのだ。


 空間のあちこちが歪み、世界が青いデジタルノイズに染まっていく。恐怖に身を強張らせる魁人の耳に、空間が「裂ける」ような不気味な破裂音が届いた。


 バリバリ、と音を立てて渋谷スクランブル交差点の真ん中に巨大な黒い亀裂が走る。そのノイズの裂け目から這い出てきたのは、現実の生物ではあり得ない異形だった。太い電子基板の脚、赤く発光するエラーコードが高速で流れる無数の瞳、そして銅線のように絡み合う巨大な牙。それは、システムのエラーデータが実体化したバグモンスター『アラクネ』だった。


 キシャァァァァァッ!


 アラクネが耳を劈く咆哮を上げる。その赤く光る瞳が、フリーズしたままの一般通行人に向けられた。アラクネの脚から放たれた青いデジタル糸が、近くにいたサラリーマンの身体に触れる。次の瞬間、その男の肉体は悲鳴を上げる間もなく、青い立方体の粒子――ボクセルへと分解され、空間のノイズの中に消去(デリート)されてしまった。塵一つ残らない、完全な存在データの抹消だった。


「逃げなきゃ……! 海藤くん、走って!」


 莉音が魁人の手を強く引っ張った。彼女の瞳には、なぜかこの異常事態を予測していたかのような、冷静で、かつ鋭い光が宿っていた。だが、今の魁人にそれを疑問に思う余裕はなかった。


「あ、ああ! あんな化け物に触られたら消される!」


 二人は静止した人々を押し退け、駅前のビルが立ち並ぶ路地裏へと走り出した。背後からは、アラクネの金属質な脚がアスファルトを削る不気味な音が迫ってくる。現実の物理法則が狂い始めた街は、走るだけで足元がぬかるみのように沈み込むような感覚を魁人に与えた。


「こっちだ! あの非常階段を上るぞ!」


 魁人は路地裏の雑居ビルに取り付けられた、鉄製の非常階段を指差した。上へ逃れれば、あの巨体の蜘蛛からは逃げ切れるかもしれない。そう判断した二人は、階段に飛び乗り、鉄のステップを駆け上がり始めた。しかし、その判断は致命的な世界のバグによって裏切られることになる。


 三段目を踏みしめた瞬間、魁人の足元で不吉な「ノイズ音」が響いた。


 ピシ、ピシピシ――。


 見上げると、非常階段全体のテクスチャが急速に剥がれ落ち、ただの灰色のワイヤーフレームへと姿を変えていく。空間のレンダリングデータが消失し、物質としての「判定」を失っていくのだ。


「しまっ――足場が消える!」


 叫ぶ間もなく、鉄の階段はデジタルノイズの塵となって崩壊した。魁人と莉音は宙に投げ出され、コンクリートの地面へと激しく叩きつけられた。


「痛っ……!」


 全身を襲う激痛。だが、痛みに悶える時間すら、世界のバグは許してくれなかった。路地裏の狭い空間に、アラクネの巨大な影が滑り込んできたのだ。逃げ場のない行き止まり。アラクネの無数の赤い瞳が、冷酷に二人をロックオンする。


 アラクネの牙から、再び青いデジタル糸が射出された。その鋭い糸の先端は、倒れ込んだ莉音の胸元を正確に狙っている。触れれば、彼女の存在データは一瞬でボクセル化し、この世から消え去るだろう。


「白石――っ!」


 考えるより先に、魁人の身体が動いていた。彼は身を挺して莉音の身体を抱きしめ、自らの背中でアラクネのデジタル糸を遮るように覆いかぶさった。


 死を覚悟した、その瞬間。


 ドクン、と魁人の心臓が爆発するような鼓動を上げた。


 熱い。首の後ろの金属端子が、まるで沸騰したお湯を流し込まれたかのように、凄まじい熱を帯びて発熱し始めたのだ。脳のニューロンが過電流を起こし、耳の奥で激しい電子音が鳴り響く。激痛に耐えかねて魁人が右目を開いた時、彼の視界は完全に書き換わっていた。


 視界の右半分に、青い幾何学的な仮想ターミナルが強制起動していた。流れる無数のシステムログ、エラーメッセージ、そして世界のすべての物質の表面に張り巡らされた青いグリッドライン。魁人の右目は、世界のソースコードを直接視認し、操作するための特異能力『バグ・アイ』として覚醒したのだ。


「これは……世界の、コードなのか……?」


 バグ・アイを通じて見るアラクネの姿は、もはや単なるモンスターではなかった。それは、複雑に絡み合った『0』と『1』の二進法コードの塊であり、その胸の奥には、赤く点滅する脆弱な『エラーコード』が露出しているのが見えた。そしてアラクネの動きは、特定の規則的なループパターンによって制御されている。


 同時に、魁人のバグ・アイは、足元のアスファルトの奥深くから放たれている、強烈なゴールドの光を捉えた。グリッチによって剥がれ落ちた地面の底、地下百メートルの深淵から、世界の記述言語に直接干渉するための古代の物理コンソール――『始まりの端末』が、物理的なポートとして空間に浮き上がってくる。


 キシャァァァッ!


 アラクネの牙が、魁人のすぐ目の前まで迫っていた。デジタル糸の先端が、魁人のスマートウォッチの表面に触れ、火花を散らす。脳内チップの過電流が限界に達し、右目の視界に激しいデジタルノイズが走る。脳が焼き切れるような熱狂と、極限の恐怖の中で、魁人は本能的に理解した。


 あの端末に触れなければ、俺たちはここで完全に消去される。


「……やらせるかよ!」


 魁人は、激痛に震える右腕を強引に突き出した。指先から極細の光のラインが伸び、空間に浮かび上がった『始まりの端末』の物理ポートへと、吸い込まれるように繋がっていく。その指先が、古代のコンソールに触れた瞬間、魁人の脳内に、現実を根底から書き換えるための膨大なデータストリームが津波のように流れ込み始めた――。

HẾT CHƯƠNG

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