暗黒の闘技場
「バッテリー残量1%。予備電力枯渇。システムはあと60秒で強制シャットダウンします」
網膜の端で明滅する無慈悲な赤い警告を、海藤魁人は血の滲むような瞳で見つめていた。肺が求めていた酸素はようやく戻ったものの、極限の窒息環境を生き延びた代償はあまりにも重い。右手の指先は火傷でただれ、左腕の電磁拘束具改は過負荷で熱を帯びてピクリとも動かなかった。隣では、透過バグを酷使したシンが青白い顔で息を荒くし、竜崎が重い身体をコンクリートの壁に預けて喘いでいる。
「カイト、デッカーが落ちたら終わりだ……どうする?」
竜崎の掠れた声が、ジャンクヤードの薄暗い影に溶けていく。頭上からは、地響きのような歓声と、最下層のドブネズミたちが上げる狂気的な怒号が響いていた。この廃棄区画の真上に位置する、暗黒電子闘技場「アリーナ」――看守長鬼塚が支配し、囚人たちの電力を搾取する血生臭い娯楽場が、今まさに熱狂の絶頂を迎えているのだ。チャージ・ステーションからアリーナへと向かって流れる莫大な電力の奔流が、俺のコードアイには太い金色の線として視認できていた。
「充電する。あの電力の奔流を直接、デッカーに叩き込む」
「正気か!? アリーナの送電網は高圧だ。一歩間違えれば、その不完全な端末ごと脳ミソが焼き切れるぞ!」
ジョーが義足を軋ませながら叫んだが、俺は答えなかった。猶予はあと四十秒。俺は壁の隙間から露出している太い給電ケーブルを凝視した。太さ数センチの強電線。コードアイがその論理構造を分解する。
`Target_Line: Power_Grid_Arena_Sub;`
`Current_Voltage: 6600V;`
感電すれば一瞬で灰になる高圧線だ。だが、今の俺には選択肢などない。俺は右手の火傷の痛みを噛み殺し、電線の絶縁被覆をジャンクのチタン片で強引に引き裂いた。バチバチと青い火花が散り、オゾンの臭いが鼻腔を刺す。デッカーの物理接続プローブを、剥き出しの銅線へと直接ねじ込んだ。
「強制給電開始(Force_Charge)。インプット電圧、限界突破制限解除!」
バチィィィン!!!
凄まじい衝撃が左腕から全身へと駆け抜けた。デッカーのコンデンサが悲鳴を上げ、ホログラム画面が狂ったようにブレる。脳の奥を直接、灼熱の針で突き刺されたような激痛に、俺は歯を食いしばって絶叫を堪えた。新しくインストールしたばかりの「廃棄ロボットの演算チップ」が金色の光を放ち、凄まじい熱を帯びながら、流入する暴走エネルギーを力技で並列処理していく。
『警告:高電圧の流入を検知。デッカー・バッテリー:1%……40%……85%。充電完了。メモリオーバーフロー(精神汚染閾値):48%……52%。脳波の同期乱れを検出』
「ハァ、ハァ……ハッ……!」
デッカーの画面が青い正常な光を取り戻した。だが、脳内に逆流したシステムノイズのせいで、視界の端にデジタルな砂嵐が這い回っている。メモリオーバーフローはすでに危険域の五割を超えた。しかし、これで戦える。俺は立ち上がり、アリーナへと続く暗いダクトを見上げた。美咲を救い出すためのジェネレーター・コアへのコードは、アリーナの王者キメラが持つアクセスドングルに隠されている。ここで引き下がるわけにはいかない。
「リュウザキ、シン。お前たちはここで待て。これ以上は肉体戦じゃない。俺のハックと、奴のバグの論理戦だ」
「バカ言うな、カイト! 俺が盾になると言ったはずだ!」
「今のリュウザキの身体じゃ、一発で肉体が崩壊する。それに、奴のバグは物理攻撃を完全に無効化する。俺のコード記述でなければ、奴の『ルール』は書き換えられない」
俺は竜崎の肩を叩き、静かに首を振った。そして、シンの調整用ヘッドホンを軽く叩く。「シン、お前のおかげで生き延びられた。次は俺の番だ」
俺は暗いダクトを這い上がり、アリーナの舞台へと足を踏み入れた。
扉が開いた瞬間、鼓膜を破壊せんばかりの怒号が俺を包み込んだ。すり鉢状の巨大な闘技場。錆びついた鉄格子とコンクリートの壁は、幾星霜もの囚人たちの血と脂で黒ずんでいる。観客席を埋め尽くす囚人たちが、狂ったように拳を突き上げ、一人の大男の名を叫んでいた。
「キメラ! キメラ! 害虫をひねり潰せ!」
アリーナの中央にそびえ立っていたのは、スキンヘッドに威圧的なタトゥーを刻んだ大男、キメラ――本名、毒島だった。奴の皮膚は、鈍い、灰色の金属光沢を放っている。その質感は生身の人間のものではない。チタン合金そのものだ。
「おいおい、看守長を怒らせた生意気なハッカーのガキってのは、お前のことか?」
キメラが地鳴りのような声で笑い、両拳を打ち合わせた。カン、と、硬質な金属音がアリーナに響き渡る。奴のバグ能力「アイアン・クラッド(皮膚硬化バグ)」。自身の肉体を分子レベルでチタン合金並みの硬度に書き換える、最下層無敗の王者。
「F級のエラー風情が、アリーナの電力を盗みおって。その左腕の玩具ごと、粉々に噛み砕いてやるよ!」
キメラが地面を踏みしめた。瞬間、コンクリートの床がクモの巣状にひび割れ、奴の巨体が弾丸のような速度で俺へと突進してきた。質量と速度が乗った、数百キロの金属の塊。激突すれば、俺の生身の身体など一瞬で消し飛ぶ。
(スレッド1、キメラの皮膚の硬度を走査。スレッド2、自身の回避運動ベクトルを計算!)
デッカーの二つのスレッドが超高速で駆動する。俺は左腕を掲げ、キメラの皮膚の物性コードを書き換えようとした。
`Cast_Hardness(Chimera.skin, 0.1);`
だが、Enterキーを叩く寸前、デッカーの画面に真っ赤なエラーコードが弾け飛んだ。
『エラー:アクセス拒否(Access Denied)。対象の生体脳波障壁により、外部からの直接書き換えは永続的にブロックされています』
「直接ハックは効かない……生体バグ障壁か!」
キメラの脳波が、自身の肉体のコードを強力に保護している。奴自身をハックすることは不可能。コンマ数秒の遅延が致命傷になる。キメラの金属の拳が、俺の眼前に迫っていた。風圧だけで皮膚が裂けそうだ。
(ならば、これだ!)
俺は自らの囚人服の「摩擦係数」をロックオンした。
`Set_Friction(Self.clothing, 0.0);`
Enterキーを叩く。その瞬間、俺の囚人服の表面摩擦が完全にゼロになった。キメラの超重力パンチが俺の胸元をかすめた瞬間、その圧倒的な衝撃のベクトルが、摩擦ゼロの衣類を滑るようにして外側へと物理的に逸れた。俺の身体はアリーナの床を氷のように滑り、キメラの突進から辛うじて横へと滑り抜けた。
ズドォォォン!!!
キメラの拳が空を切り、背後の巨大なコンクリート壁に激突した。厚さ数十センチの壁が、一撃で粉々に粉砕され、轟音と共に瓦礫が飛び散る。もし直撃していれば、骨どころか内臓ごと消滅していただろう。
「ほう、滑る小細工か。だが、いつまでその玩具のバッテリーが持つかな!」
キメラは即座に反転し、再び床を蹴った。奴の突進速度はさらに増している。看守長鬼塚から提供されたバグ強化薬物の影響だ。奴の脳波データは、上空を旋回するAI『ウォーデン』の監視カメラを通じて、リアルタイムで最適化されている。俺の回避パターンが、ミリ秒単位でラーニングされているのだ。
(クソッ、摩擦をゼロにしても、衝撃の余波だけで俺の三半規管が引き裂かれそうだ。これ以上は、生身の反応速度じゃ追いつかない)
視界がブレる。メモリオーバーフローの数値が、脳の過負荷によって52%から58%へと上昇していく。脳細胞が沸騰しそうな熱を帯び、鼻腔から生温かい血が流れ落ちて床の砂を赤く染めた。
キメラの巨体が跳躍した。上空から、チタン合金の質量が俺を押し潰さんと、両拳を振り下ろして降ってくる。アリーナの天井を覆う投光器の光が、奴の灰色の肉体を不気味に輝かせていた。
逃げ場はない。左右の回避スペースは、先ほどの瓦礫で埋まっている。生身の思考速度では、このコンマ数秒の未来を記述できない。
(やるしかない。脳の保護リミッターを解除する)
俺はデッカーのホログラム画面の最深部、赤くロックされたシステムファイルにアクセスした。脳の神経パルスを一時的に3倍に引き上げる自己強化コマンド――演算加速「Overclock」。
「オーバークロック……脳内シナプス、強制同期!」
`Overclock_Brain_シナプス();`
引き金を引いた瞬間、世界から完全に「音」が消え去った。
囚人たちの狂気的な歓声も、キメラの重々しい咆哮も、すべてが引き伸ばされた超低音のノイズへと変わり、やがて完全な静寂へと収束した。世界の動きが、極限までスローモーションになる。空中をゆっくりと落下してくるキメラの、チタン合金の皮膚に走る微細な金属結晶のグリッド線が、俺の右目にはっきりと視認できた。
だが、その代償は凄まじかった。脳の全神経が焼き切れるような激痛。両目の視神経から、赤い血が涙のようにボタボタと流れ落ち、視界を赤く染めていく。
『警告:メモリオーバーフロー:65%。精神汚染臨界点に接近。これ以上の演算維持は自己定義コードの崩壊(脳死)を招きます』
(うるさい……。美咲を救うと、あの時、俺は誓ったんだ。こんなところで、立ち止まってたまるか!)
俺はキメラ自身をハックすることを完全に諦めた。奴のチタンの肉体がどれだけ強固であろうと、奴の生体障壁がどれだけハックを拒絶しようと、奴は「完璧な存在」ではない。奴の肉体は、今、物理的な重力に従って落下している。つまり、奴は世界の物理法則に依存しているのだ。
(キメラをハックできないなら――奴を支える『環境』をハックする!)
俺はコードアイの視線を、キメラの肉体から、奴が着地しようとしている「アリーナの床」へと移した。錆びた鉄筋が混ざった、強固な高密度コンクリートの床。その物性コードが、青いバイナリの文字列として網膜に浮かび上がる。
`Object: Arena_Floor_Target;`
`Material: High_Density_Concrete;`
`Hardness_Value: 85.0;`
俺の指先が、スローモーションの世界の中で、ホログラフィック・キーボードの上を光速で舞った。打鍵音すら聞こえない静寂の中、金色のバイナリコードが、俺の瞳の奥で激しく明滅する。記述するのは、床の硬度を極限まで低下させる物性変換コマンド。
`Cast_Hardness(Arena_Floor_Target, 0.1);`
キメラの足先が、床に接触するまであと数ミリ。奴の顔には、俺を圧殺できると確信した、歪んだサディスティックな笑みが張り付いている。
「お前の小細工など、俺の硬度には通用しない!」
音のない世界で、キメラの唇がそう動いた。奴の鉄拳が、俺の頭上わずか数センチの距離まで迫り、チタンの皮膚が放つ冷たい金属の圧力が俺の髪を揺らした。
その瞬間、俺は感覚の消えかけた右手の指先を、デッカーの青い「Enter」キーへと、全力で叩きつけた。キメラの足元の「アリーナの床」が、金色のロックオンマーカーに染まる。コンパイル、完了。世界のルールが、今、書き換えられた。
ズ、ズン――!!!
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