逆転のハッキング
零秒。世界が、極限まで引き延ばされたバイナリのノイズの中で静止する。
死神の鎌の如き電磁鞭「ニューロ・ウィップ」が、カイトの網膜を白く染めながら迫っていた。放電される青白いプラズマが空気を激しく爆縮させ、鼓膜を破らんばかりの咆哮を上げる。絶対零度房の超伝導冷却パネルが放つマイナス二百度の冷気が、カイトの吐き出す息を一瞬で氷の粉へと変えていた。
『警告:周囲の極低温によりシステムクロックが50%低下中。右手の火傷による入力遅延15%』
デッカーの画面で点滅する無慈悲な警告。だが、カイトの脳細胞は、沸騰するほどの演算速度で稼働していた。右目の「コードアイ」が捉える世界は、無数の冷たい青いグリッドラインに分解されている。
(まだだ……引きつける。完璧な『零秒』まで……!)
バチィィィン!!!
激痛。電磁鞭がカイトの左腕――「電磁拘束具改・アームハッカー」に接触した。アームハッカーのバイパス回路が、数万ボルトの超高圧電磁ノイズを感知して激しい青火花を散らす。生体電流が焼き切れ、脳が直接沸騰するような衝撃がカイトの脊髄を駆け抜けた。
その刹那、カイトの右手の指先が、デッカーのホログラム「Enter」キーを強く叩いた。
`Link_Thermal_Energy(Whip_Current, Room_Cooling_Panel);`
`Cast_Heat_Transfer(Target_Area, Value_Override);`
「コンパイル――走れ!!」
等価交換の法則。無からエネルギーは生み出せない。ならば、鬼塚自身が振り下ろした数万ボルトの電気エネルギーを、そのまま「アース(放電先)」として周囲の壁を覆う『超伝導冷却パネル』へと強制転送する。
瞬間、カイトの左腕から放たれた金色のコードラインが、電磁鞭の電流を丸ごと吸い上げ、冷却パネルの熱伝導率の定義へと直結した。マイナス二百度に固定されていたパネルの温度定義が、一瞬にしてプラス数千度へと「書き換え」られる。
急激な熱膨張――すなわち、熱ショック(サーマルショック)。
ミシ、ミシミシ、パキィィィン!
「なっ……!?」
鬼塚の光学レンズが驚愕に細められた瞬間、チタン合金の壁面を覆っていた超伝導パネルが一斉に物理的な分子崩壊を起こし、大爆発を遂げた。轟音と共に、凍りついた空気が一気に膨張し、爆風と鋭利な金属破片、そして白い高圧蒸気が部屋全体を包み込む。
「が、はっ……!?」
爆風に吹き飛ばされながらも、カイトは冷徹な「コード分析思考」を維持していた。白い煙の向こうで、鬼塚の巨大な体躯が揺らいでいる。左顔面のサイバーインプラントが赤くエラー点滅していた。
(生体への直接ハックはデッカーの出力制限で弾かれる……だが、機械部分は別だ!)
カイトはコードアイで鬼塚のサイバーアームの論理構造を透視した。アームの駆動を司るサーボモーターの制御コード。その脆弱性が、煙の中で剥き出しになっている。
`Set_Voltage(Onizuka_Arm_Left, Max_Overload);`
デッカーのキーボードを残像が残る速度でタイピングする。アームハッカーに残された最後の電力を絞り出し、過負荷コマンドを鬼塚のサイバーアームへと送信した。
バチバチバチッ!
鬼塚の左腕から激しい黒煙とオレンジ色の火花が噴き出した。アーム内のサーボモーターが過電流によって完全に焼き切れ、巨大な鉄の腕が力なく垂れ下がる。
「貴様ぁぁっ! 害虫が……!」
鬼塚が狂暴な咆哮を上げ、動く右腕でカイトを圧殺しようと迫る。その時、コントロールブースのチタンガラスを突き破り、副看守長マリーが自動追跡銃を構えて飛び出してきた。
「マリー、撃て! そのバグを消去しろ!」
マリーが引き金に指をかけた瞬間、カイトはマリーの胸元に揺れる銀色の「管理者用暗号化キーチップ(物理キー)」をコードアイでロックした。デッカーから、その物理キーの「認証信号」を偽装したパケットを送信する。スプーフィング(なりすまし)ハックだ。
`Spoof_Signature(Marie_Key_ID);`
`Trigger_Safety_Lock(Marie_Gun);`
カチリ。
マリーの持つ自動追跡銃の安全装置が強制的に起動し、引き金がロックされた。
「な、なぜ動かないの……!?」
「それは、俺のほうが記述速度が速いからだ」
カイトは床を滑るように移動し、混乱するマリーの懐へ飛び込むと、近接格闘(CQB)の動きで彼女の首元から物理キーチップを力任せに引きちぎった。金属のチェーンが引きちぎれる鋭い音が響く。
「鬼塚……次は、監獄ごと書き換えてやる」
カイトは焼き切れたサイバーアームを抱えて激昂する鬼塚を一瞥し、爆発で半壊した絶対零度房の非常扉へと滑り込んだ。デッカーのバッテリー残量は『1%』を示し、画面が激しく明滅している。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
通路に飛び出した瞬間、猛烈な頭痛と吐き気がカイトを襲った。ハックの過負荷により、脳内に逆流したデジタルノイズが神経を侵食している。網膜の端に赤いノイズが走り、視界が二重、三重にブレる。メモリオーバーフロー値は『45%』を突破していた。肉体が限界を超えて崩壊し始めているのだ。
(電力が、足りない……脳が、沸騰する……)
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、カイトはずるずると床に崩れ落ちた。デッカーの画面が完全に消灯し、周囲は暗黒に包まれる。遠くから警備兵たちの怒号と犬型ドローンの駆動音が近づいてくるのが聞こえたが、もう指一本動かす力さえ残っていなかった。
意識が暗闇の底へと沈みかけた、その時。
「――おい、ハッカーの小僧! しっかりしろ!」
重低音の効いた豪快な声。暗闇を裂いて現れたのは、身長百九十センチを超える巨漢――重力操作バグを持つ竜崎豪だった。その隣には、大きすぎる囚人服を着て怯えた瞳をした少年、シン・ハラダが立っている。
「アニキ! よかった、生きてた……!」
「リュウザキ……、シン……なぜ、ここに……」
「お前を置いて脱獄なんてできるかよ。スラムでお前が見せたハック、あれは本物だ。俺たちの『盾』になるって言っただろ」
リュウザキは豪快に笑うと、カイトの痩せた身体を軽々と抱え上げた。その瞬間、通路の角から複数のサーチライトが彼らを照らし出す。
「侵入者を発見! 射殺しろ!」
「シン、隔壁を透過するぞ! 遅れるなよ!」
「う、うん! 『フェーズ・シフト』……!」
シンが恐怖に震えながらも、目の前の強固なスチール隔壁に触れた。シンの透過能力によって、隔壁の分子結合が一時的にすり抜け可能な状態に変化する。リュウザキはカイトを抱えたまま、その壁を文字通り「すり抜けて」下水道の暗闇へと飛び込んだ。
◇
鼻を突く消毒液の臭いと、錆びた鉄の匂い。
カイトが次に目を覚ました時、視界は薄暗い電球の光に照らされていた。ボロボロの医療用ベッドの上。左腕のデッカーは休止状態で静かに明滅しており、点滴のチューブが自分の腕に繋がっている。
「気がついたか、バグの第一世代」
部屋の隅、ヨレヨレの白衣を着て丸眼鏡をかけた男が、電子タバコの煙を燻らせながらカイトを見下ろしていた。元SECTの医療部長であり、現在はスラムの闇医者である敷島寛治。その目の下には、深いクマが刻まれている。
「シキシマ……先生……」
「無茶な真似をしおって。脳の神経接続が一部デジタル化しているお前の身体で、あれほどの大規模ハックを行えばどうなるか分かっていたはずだ。脳細胞が焼き切れ、自己定義コードが崩壊して『人間』に戻れなくなるぞ」
シキシマは冷笑的な口調の中に、隠しきれない懸念を滲ませながら、青いカプセル――脳機能安定剤「シナプス・キーパー」をカイトの口元に突き出した。
「それを飲め。メモリオーバーフローを一時的に抑制する。お前の命は、私にとっても貴重な研究材料だからな」
カイトはカプセルを飲み込み、喉を鳴らした。急速に脳内のノイズが引き、冷たい理性が戻ってくるのを感じる。身体を起こそうとするカイトを、シキシマは手で制した。
「大人しくしていろ。それと……お前が絶対零度房から命がけで奪ってきたあの物理キー、マリーのドングルから抽出したデータだがな」
シキシマの表情から冷笑が消え、極めて重苦しい影が落ちた。彼は古びた、一部が電子化されたカルテをカイトのベッドの上に放り投げた。
「お前の最愛の妹、美咲(ミサキ)に関するデータだ。SECTがなぜ彼女を連れ去ったのか、その真実が記されている」
カイトは息を呑み、震える手でカルテを開いた。コードアイが、暗号化された文字列表現を瞬時に解読していく。そこに並んでいたのは、おぞましい実験計画の数々だった。
『エデン・プロジェクト:生体同期コア「コード・マザー」の確立』
美咲の特異な脳波パターンを利用し、監獄コキュートス――いや、世界そのものを制御するシステムAI『ウォーデン』の「生体演算コア(生体コア)」として彼女をシステムに直結・同期させる計画。それが、美咲の行方の真実だった。彼女は囚人としてではなく、システムの「部品」として利用されているのだ。
「美咲……」
カイトの指が、カルテの紙面を強く握りしめた。怒りと絶望が、冷たい脳細胞を再び激しく加熱していく。
その時、シキシマ・クリニックの錆びた天井に設置されたスピーカーから、突如として無機質な合成音声が響き渡った。
『警告:最下層エリア内の未登録生体反応を検知。AI「ウォーデン」による排除プロトコルを開始します』
赤い非常警報の光が、診療所の壁を血のように赤く染め上げた。
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