オフラインの導き手
背後で、数トンの超硬質チタン合金シャッターが、耳を劈く金属音を立てて激突した。コンクリートの床が激しく震え、凄まじい風圧が海藤魁人の背中を叩く。あと一瞬でも遅れていれば、彼の肉体は文字通り二つに圧殺されていただろう。
「はぁ、はぁ……っ!」
カイトは床に這いつくばったまま、激しく喘いだ。右目の奥が焼けるように熱い。視神経の過負荷による出血が、頬を伝って冷たいコンクリートに赤い染みを作っていく。左腕の電磁拘束具改――簡易ハック端末「デッカー」をマウントしたアームは、先ほどの電磁ショックの残響で鉛のように重く、指先がピクリとも動かなかった。
『警告:システム異常活性を検知。エリアセキュリティレベル、最大維持。不具合個体の即時排除を推奨します』
頭上の天井に設置されたスピーカーから、システムAI「ウォーデン」の冷酷な合成音声が響き渡る。廊下の赤色警告灯が狂ったように明滅し、カイトの影を血のように赤く染め上げていた。
「立ち止まれば……死ぬ」
カイトは痛む右目を細め、かろうじて動く右手を伸ばして、天井裏へと続く錆びついたダクトの格子を見上げた。右目の視界を覆う青いバイナリのグリッドライン――「コードアイ」が、その格子の物理構造を瞬時にスキャンする。
『対象:排気ダクト格子(Grate_04)。物性定義:硬度: 40、結合密度: 50』
デッカーのホログラフィック・キーボードを、動く右手だけで強引に操作する。タイピングのたびに、脳に直接ノイズが逆流し、針で刺されたような激痛が走った。バッテリー残量は85%からスタートしている。等価交換の代償を支払う覚悟を決め、カイトはコマンドを入力した。
`Cast_Hardness(Grate_04, 0.1);`
エンターキーを強く押し込む。デッカーから放たれた青い光波が格子を包み込んだ瞬間、鉄製だった格子が、まるで水を含んだスポンジのように柔らかく変貌した。カイトは右足に力を込め、その「柔らかい鉄」を蹴り破って、高熱の廃棄配管群――「パイプ・マトリクス」の暗闇へと身体を滑り込ませた。
頭上からシャッターの向こう側で、治安部隊の犬型ドローン「ハウンド」の鋭い金属爪が床を掻く音が聞こえる。カイトは狭く暗い配管の間を、這うようにして進んだ。
パイプ・マトリクスの中は、まさに灼熱の地獄だった。高圧蒸気パイプから漏れ出る白煙が視界を遮り、オゾンの臭いと錆びた鉄の匂いが鼻を突く。周囲のパイプには、赤く明滅する危険コードが張り巡らされていた。
『警告:デッカー・バッテリー残量:70%』
ハックを行うたびに、無慈悲にリソースが削られていく。カイトは焦りを感じていた。背後から、無数の赤いサーチライトの光軸が、複雑に入り組んだ配管の隙間を縫って迫ってくる。ウォーデンの放った追跡ドローンだ。彼らの高精度熱源センサーは、この暗闇でもカイトの体温を正確に捉えていた。
「前方の隔壁が……閉まるのか」
コードアイが、数メートル先にある配管の遮断バルブが急速に閉鎖されつつあるのを捉えた。このままでは、迫り来るドローンと閉ざされたバルブの間で挟み撃ちになり、完全に圧殺される。
(やるしかない。バルブをハックして、無理やりこじ開ける!)
カイトは焦燥感に駆られながら、前方の高圧蒸気パイプのバルブ(Valve_03)をロックオンした。デッカーのキーボードを叩き、バルブの硬度コードを「0」に書き換えようとする。
`Cast_Hardness(Valve_03, 0.0);`
だが、その瞬間、デッカーの画面に赤いエラーメッセージが激しく明滅した。
『エラー:コンパイル失敗。等価交換エネルギーの計算不整合。排熱処理スレッドが確保されていません』
「しまっ――」
カイトが気づいた時には遅かった。物理法則の等価交換ルールを無視し、バルブの硬度を急激にゼロにしようとしたため、バルブ内部に蓄積されていた超高圧の蒸気エネルギーの行き場が失われたのだ。バルブの金属結合が不均等に崩壊し、すさまじい圧力によってパイプが破裂した。
シューーーッ!!!
「熱っ……つ、あぁっ!」
噴き出した熱水と灼熱の蒸気が、カイトの右手を直撃した。皮膚が焼けるような激痛。カイトは反射的に手を引き、床を転がったが、右手の指先には深刻な火傷が刻まれ、デッカーのバッテリー残量は一気に35%まで急降下した。ハックの失敗による物理的反動が、彼の身体を容赦なく破壊していた。
熱水の霧が立ち込める中、追跡ドローンの赤い光軸がすぐそこまで迫る。もはや、指先を動かすことすら困難だった。肺に吸い込む空気は熱く、視界はノイズでブレていく。万事休すかと思われた、その時だった。
カチ、という微小な電子音が、カイトの耳元で響いた。
直後、カイトの頭上を走る排熱配管のバルブが、彼の操作なしで勝手に駆動を始めた。すさまじい勢いでファンが逆回転し、立ち込めていた灼熱の蒸気とカイトの熱源シグナルが、ダクトの奥へと急速に吸引されていく。ドローンたちの赤い光軸が、乱れた熱源に惑わされるように、カイトのわずか数十センチ手前で静止し、別の方向へと旋回していった。
「おい、死にぞこないのガキ。そこに転がって茹でダコになるつもりか?」
排気口の奥から、低く、しゃがれた老人ボイスが響いた。ノイズ混じりの通信が、カイトのデッカーのスピーカーを直接ジャックしている。
「左だ。幅五十センチの吸気ダクトがある。そこに這い入れ。それ以外に、あの人工知能の目をごまかすルートはねえよ」
カイトは痛む身体を引きずり、言われた通りの狭いダクトへと潜り込んだ。暗闇の中を数メートル進むと、突如として床が消失し、カイトの身体は下方の空間へと落下した。
硬い床に背中を打ち付け、カイトは苦悶の声を漏らした。だが、そこは先ほどまでの灼熱の地獄とは打って変わり、奇妙な静寂に包まれた場所だった。
薄暗い空間。周囲の壁には、動作している電子機器が一切存在しない。すべての配線が物理的に切断され、ホログラフィックのグリッドラインも、ウォーデンの赤い監視の目も、ここには届いていなかった。完全な「オフライン」の聖域。
部屋の中央、古びたモニターの青白い光に照らされて、車椅子に座った一人の老人が静かに電子タバコを燻らせていた。ボサボサの白髪に、長い髭。片目は潰れ、錆びついたサイバーパーツが露出している。彼が愛用する電子タバコ型端末の先端が、暗闇の中でかすかに青く発光していた。
「……あんたが、玄葉(ゲンバ)か」
カイトは這い上がりながら、老ハッカーの名を呼んだ。
「そうだ。この最下層のドブ底で、十年も生き恥を晒している老いぼれさ」
玄葉はフッと紫煙を吹き出し、カイトの左腕にマウントされたデッカーに冷たい視線を向けた。
「お前がさっきやったハック……あれは最悪だ。ドブネズミの足掻きにも劣る。物理コードを書き換える能力を持っていながら、等価交換の基本すら理解していない。バルブを豆腐に変えて、その中にあった数メガパスカルの圧力をどこへ逃がすつもりだった? 脳みそが足りてねえな」
「……俺は、ただ生き延びるために」
「生き延びるためのコード記述が、自分を焼き殺しかけたんだよ、愚か者が」
玄葉は車椅子を回し、カイトの前に近づいた。彼の潰れた片目のサイバーパーツが、カイトの「コードアイ」と共鳴するように、かすかな電子音を立てる。
「世界のコードを書き換える『ロジカル・ドライブ』は、魔法じゃねえ。厳格な等価交換の物理法則に基づいた論理演算だ。無から有は生み出せない。物質の硬度を下げるなら、その減少した結合エネルギーを、熱か、光か、あるいは別の運動エネルギーとして『アース(放電)』してやらなきゃならねえ。その計算式をコードに組み込まねえから、バーストを起こすんだ」
玄葉は電子タバコを指でトントンと叩き、空中に古いC言語に似た構文のホログラムを展開した。それは、カイトが今まで見たこともない、美しく、無駄のない論理構造をしていた。
「よく見ろ。これが『論理演算ハック』の基礎だ。物理定数を上書きする際は、常に周囲の物質とエネルギーの収支をゼロにしろ。お前のデッカーは、そのための排熱処理スレッドを物理的に持っているはずだ」
カイトは痛む右目を凝らし、玄葉が提示した構文を脳内のデッカーにダウンロードした。彼の「SOUHEI-01」のOSが、その構文を読み込んだ瞬間、デッカーの隠されたシステムパラメーターが静かに書き換わっていく。等価交換の計算補正プログラムが、彼の網膜上で青くアクティブに点滅した。
「……理解した。エネルギーの逃げ道を、最初からコード内に記述しておくんだな」
「フン、物分かりだけは早いな。だが、理屈が分かったところで、お前のそのオモチャはもう限界だぞ」
玄葉が指差したデッカーの画面には、冷酷な数値が表示されていた。
『バッテリー残量:35%。電力不足により、大規模な物性変換コマンドの実行は不可能です』
「この最下層でハックを続けるには、『ボルト(電力)』が通貨であり、命そのものだ」
玄葉は電子タバコを口に戻し、暗い部屋の奥を見つめた。
「ここから先、中央エレベーターへ向かうには、どうしてもデッカーをフル充電しなきゃならねえ。だが、今、看守長鬼塚の配下どもが、囚人たちのスラム街で『電力の強制徴収』を行っていやがる。ボルトを奪いたければ、あの地獄のスラムへ潜り込むしかねえな。……行く度胸はあるか、ガキ」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
ズズズン……!
オフライン・ロフトの頑強なコンクリートの壁の向こうから、地響きのような不気味な振動と、何かが物理的に破壊される激しい破裂音が響き渡った。天井からパラパラとコンクリートの粉塵が舞い落ちる。
「ちっ、ウォーデンのパトロールか? いや、この重低音は……」
玄葉の表情が、初めて険しく歪んだ。カイトは痛む左腕をかばいながら、激しく明滅し始めたデッカーの画面を凝視した。オフラインのはずのこの部屋の境界線に、かつてない強力な電磁シグナルの波形が侵入しつつあった。
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