千眼の死角
「――ハロー、最下層のルーキー。まだ生きてたんだね」
左腕のプロトタイプ・ターミナル「デッカー」の液晶画面に浮かび上がったウサギのアスキーアートが、小刻みなノイズと共に明滅する。スピーカーから響いたのは、生意気で、それでいてこちらのすべてを見透かしているかのような同世代の少女の声――天才ハッカー「アリス」だった。
「外部プロキシからの強制割り込み……!? クロエ、この暗号化回線を遮断できるか!」
「無理よ、カイト!」
ジャンクヤードのコンソールを叩いていたクロエが、サイバーアイを激しく明滅させながら悲鳴のような声を上げる。
「ルーティングが複雑すぎるわ! 国家規模のファイアウォールを数秒で踏み台にしてる……この『アリス』って奴、電子戦の化け物よ!」
「お褒めに預かり光栄。でも、おしゃべりはそこまで」
ウサギのアイコンが、画面上で不気味に瞬く。
「最下層の千の眼――監視官『パノプティコン』が、あんたたちがさっきアリーナで引き起こした電力異常を完全に捕捉したわ。犬型ドローン『ハウンド』の第一波、計十二機がすでにジャンクヤードの外周を完全包囲してる。あと二分で、この隠れ家は鉄屑ごと蜂の巣よ」
その言葉を裏付けるように、コンテナハウスの薄い金属壁を通じて、遠くからキュルキュルと鋭い金属爪がコンクリートを引っ掻く音が響いてきた。ハウンド――AI『ウォーデン』が解き放つ、四足歩行の駆逐ドローンだ。あのレーザー爪に触れれば、生身の肉体など一瞬で細切れにされる。
「カイト、どうする! 正面突破か!?」
竜崎が「バイナリ・エッジ」の残骸を握り締め、筋骨隆々の身体を強張らせる。しかし、カイトは冷徹に首を振った。
「正面突破は自殺行為だ。今のデッカーのバッテリー残量はわずか三十五パーセント。それに、僕の左腕はさっきの過負荷で麻痺が残っている。タイピング速度は十五パーセント近く低下したままだ。まともに撃ち合えば、一分も持たずに弾雨に圧殺される」
カイトは右手の火傷の痛みをこらえ、デッカーのコンソールから「光学迷彩マント(不完全版)」を引きずり出した。ボロボロの防護布に、青いグリッドラインが微かに走っている。
「レイ、君の『光屈折バグ』が必要だ。僕のマントと君の能力を同期させる」
スラムの影に怯えていた猫背の少年、レイがビクリと肩を揺らした。
「ぼ、僕の能力……? でも、僕、怖くなると屈折率がブレて、すぐに姿が見えちゃうんだ……」
「大丈夫だ。君の脳波の揺らぎ(エラー)は、僕がデッカーの演算でリアルタイムに補正する。僕を信じて、マントの中に入ってくれ」
カイトはレイの肩を抱き寄せ、光学迷彩マントを二人の頭から深く被せた。デッカーの画面に指を滑らせ、新しく解放された並列演算スレッドを起動する。これまでは一プロセスしか走らせられなかったデッカーだが、ジョーから譲り受けた演算チップのおかげで、今は二つのハックを同時に並行処理できる。
「マルチスレッド並列演算、起動。スレッド1、視覚迷彩『IP_Spoofing』。スレッド2、座標偽装『GPS_Spoof』」
`Set_Refraction_0(Self);`
`Spoof_Coordinates(Self, Dummy_Coordinates);`
タイピングを開始した瞬間、カイトの脳細胞を強烈な熱波が襲った。二つの異なる論理構築を脳の左右で同時に行う負荷は、想像を絶していた。こめかみの血管がドクドクと脈打ち、視界の端にデジタルノイズの砂嵐が這い回る。
『警告:脳への演算負荷が急増。メモリオーバーフロー:49%……51%……53%。臨界点を突破』
「くっ……あ、ああぁっ!」
激しい頭痛に歯を食いしばりながら、カイトはマントの表面コードを書き換え続けた。マントの布地が周囲の光を歪め、カサカサと背景の錆びたスクラップと同化していく。同時に、パノプティコンの監視サーバーに送信されているカイトたちのGPS座標を、全く別の廃棄区画へと偽装して送り込み始めた。
「アリス、君のハックでパノプティコンのメインサーバーにダミーパケットを送り、ノイズを増幅させてくれ。僕たちの偽装を補強する」
「言われなくても、もうやってる。でも、パノプティコン自身のサイバーアイは、そんな小細工じゃ騙せない。奴は『目』そのものを物理的にアップデートしてるからね」
コンテナの扉が激しい衝撃と共に引きちぎられた。赤い単眼の光学センサーを不気味に発光させたハウンドが、低く唸り声を上げながら侵入してくる。その鋭いレーザー爪から放たれる青白いプラズマが、床の鉄板をじりじりと焦がしていた。
カイトとレイは、ハウンドのわずか数センチ横の壁際に身を潜めていた。レイは恐怖で息を止めており、カイトは左腕の麻痺を精神力で押さえつけ、デッカーのコンパイル状況を睨みつける。
ハウンドの赤いセンサーが、カイトたちの鼻先を何度も往復する。IPスプーフィングによる光屈折の書き換えは完璧なはずだったが、ハウンドに内蔵された熱源スキャナーが、わずかな「演算エラーによる空間の歪み」を検知し、怪しく明滅し始めた。
(気づかれる……!?)
カイトは右目を軽く閉じ、左目の「コードアイ」を最大出力で走査した。視界が冷たい青一色に染まり、ハウンドの内部プログラム、そしてジャンクヤードの天井に仕掛けられたパノプティコンの監視カメラから伸びる、不可視のデータ送信ライン(電磁波)がグリッド線として視覚化される。
(カメラの映像データを書き換えるのは間に合わない。なら――受信側であるパノプティコンの『脳』を直接、逆ハックする!)
コードアイの視線が、パノプティコンが監視カメラと直接同期している、彼の頭部のサイバーインプラントの固有周波数を捉えた。
「スレッド2のGPS偽装を解除、周波数をパノプティコンの受信ポートに同期。逆干渉シグナル、コンパイル」
`Inverse_Interference(Panopticon_Visual_Implant, Noise_Frequency);`
カイトは感覚の消えかけた指先で、ホログラムキーボードの「Enter」キーを強く叩いた。
その瞬間、ハウンドの動きがピタリと停止した。それだけではない。ジャンクヤードの天井に設置された無数の監視カメラのレンズが一斉に不規則に回転し、赤いサーチライトの光軸が、あらぬ方向へと激しくブレ始めた。パノプティコンの網膜に直接、強力なデジタルノイズ(砂嵐)を流し込まれた監視官は、一時的な「完全な盲目」状態に陥ったのだ。
「今だ! 走れ!」
カイトの鋭い号令と共に、隠れ家に潜んでいたアウトライアーズの囚人たちが、一斉に暗闇の中を駆け出した。パノプティコンの千の眼が機能を失った今、このジャンクヤード全体が、彼らにとっての巨大な死角となっていた。
追跡ドローンたちの包囲網を完全に欺き、カイトたちは最下層の最奥、中央エレベーターへと続く巨大な物理ゲートの前に到達した。
しかし、そこに立ちはだかったのは、さらなる絶望の光景だった。
目の前に広がる高圧電磁回廊「ライトニング・ラン」。その幅二メートルの細長い直線通路の床と天井からは、青白い数百万ボルトの電磁アークが、凄まじい放電音を立てて奔流のように吹き荒れていた。侵入者を一瞬で炭化させる、絶対防御の雷撃の嵐が、カイトたちの行く手を完全に阻んでいた。
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