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崩壊のカルテ

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「ターゲットの物理消去(フォーマット)を開始します。カウントダウン、開始」


システムAI『ウォーデン』の冷徹な合成音声が、シキシマ・クリニックの錆びついたスピーカーから響き渡った瞬間、世界は禍々しい赤色に染まった。


非常警報の赤い光が、湿ったコンクリートの壁を血のように濡らしていく。それと同時に、天井の隅から信じがたい光景が始まった。強固なチタン合金の梁や、薬品が並ぶ棚が、物理的に崩落するのではなく、激しい赤色のグリッドノイズを放ちながら、上から順に砂のようにサラサラと虚無へ消えていくのだ。それは物理的な破壊ではない。空間そのものを構成する物質定義コードが、上から順に「ゼロ」へと書き換えられている――システムによる強制的なデリートだった。


「くそっ、空間そのものを消去(フォーマット)しているのか……!」


俺は医療ベッドから這い上がろうとしたが、全身に走る激しい麻痺がそれを阻んだ。アリーナでの限界突破(コードバースト)の代償はあまりにも重い。電磁拘束具改・アームハッカーにマウントされた俺の左腕は、鉛のように重く、指先は微かに震えるばかりだった。タイピングの速度は一割以上低下している。俺の右目の「コードアイ」は、崩壊していく世界の論理構造を捉えていたが、それを出力するデッカーのバッテリー残量はわずか12%だった。


「カイト、無理に動くな! まだ生体電流の逆流が収まっていない!」


シキシマがヨレヨレの白衣のポケットから、青い薬液が入った「シナプス・キーパー」のボトルをいくつか掴み出し、俺の首元に突き刺そうとした。だが、その前に天井から凄まじい轟音が響き、巨大なコンクリートの塊が崩れ落ちてきた。シキシマが密かに調合してくれたあの薬のおかげで、俺の脳侵食度(メモリオーバーフロー)は40%に抑えられていたが、その効果もこの極限状態の演算によって急速に摩耗しつつあった。


「先生、アキ、伏せろ!」


竜崎がその巨体を投げ出し、シキシマと助手のアキをその身で庇った。竜崎は二人を両腕で抱え込み、非常口へと走ろうとするが、脱出路を塞ぐように天井の巨大なコンクリートブロックが崩落し、彼らの行く手を完全に阻んだ。竜崎の「重力パンチ」でも、媒介となる空気の密度が不安定なこの崩壊空間では、本来の威力を発揮できない。


「電力が足りない……! アース(放電先)を確保しつつ、給電経路を強制接続する!」


俺はもつれる右指を必死に動かし、デッカーの有線同軸ケーブルを、クリニックの予備発電機の端子へと力任せに叩き込んだ。


`Connect_Power_Source(Shikishima_Generator);`

`Drain_Voltage(All_Reserve);`


デッカーのホログラム画面が激しく明滅し、充電インジケーターが高速で上昇する。


『バッテリー残量:12%……30%……45%。発電機、完全放電により物理破損』


パチパチと激しいスパークを散らし、発電機が爆発した。だが、これで一回分の高負荷コマンドを実行するリソースは確保した。落下してくるコンクリートブロックの質量と軌道を、俺の右目の「コードアイ」が瞬時に捉える。網膜上に、物体の物理定義コードが白い文字列として浮かび上がった。


`Object_ID: Falling_Debris_01;`

`Collision_Detection: True;`

`Damage_Value: 950;`


俺は震える右手の指先で、ホログラムキーボードのキーを叩いた。左腕の麻痺による遅延を、無駄な記述を一切排除した極限の構文で補う。


「お前のダメージ判定を、世界から一時的に無視(コメントアウト)してやる!」


`/* Falling_Debris_01 */`


キーボードの「Enter」を強く叩く。


その瞬間、落下してきた巨大なコンクリートブロックが、竜崎の背中に激突する直前で、半透明のホログラムのようにブレた。ズン、と軽い風圧だけを残し、コンクリートは竜崎の肉体を何事もなかったかのように「透過」して床へと落ち、そのまま赤いグリッドノイズとなって消滅した。攻撃無効『Comment_Out』――物質の衝突判定とダメージ定義を一時的にコメントアウトし、ただの幻影に変える俺の防御コマンドだ。


「なっ……透過したのか!?」


竜崎が驚愕に目を見開く。


「ハァ……ハァ……!」


だが、その一撃だけで、デッカーの画面に不穏な警告が走る。


『警告:メモリオーバーフローが上昇:45%。シナプス・キーパーの効果が切れかかっています。脳への熱負荷を検知』


頭痛が脳の奥を直接締め付ける。シキシマから投与された薬の効果が切れかけている。視界の端が再び赤いノイズでブレ始めるが、立ち止まる時間は一秒もない。


「カイトさん、早く! こっちの非常出口が!」


アキがクリニックの奥にあるチタン合金製の非常扉を指し示した。だが、そこへ向かおうとした俺たちの前に、無慈悲な現実が立ち塞がった。非常口のチタン隔壁が、上部から降りてきた赤いグリッドラインによって、すでに半分以上「消去」されつつあったのだ。隔壁は赤いデジタルノイズの壁と化し、触れたものを分子レベルで消滅させる「消去領域」へと変貌している。物理的な突破は不可能。完全に退路を断たれた。


「おい、カイト! あの赤いやつに触れたら、俺たちの身体ごとデリートされちまうぞ!」


竜崎がシキシマとアキを抱えたまま、冷や汗を流して叫ぶ。


「シン! お前のバグ能力(透過)を使う!」


俺は背後で怯えていた物質透過バグの少年、シン・ハラダの肩を掴んだ。


「ひっ……ア、アニキ、無理だよ! あんなノイズの壁、僕の透過じゃ防ぎきれない! 分子レベルでバラバラにされて死んじゃう!」


シンは恐怖で全身を激しく震わせ、脳波の波形がデッカーの画面上で狂ったように乱れていた。彼の透過能力「フェーズ・シフト」は、精神的な恐怖によって同調周波数がズレると、壁の途中で肉体が固定され、即死する危険を孕んでいる。現在の俺の権限では、消去プロトコル自体を遠隔ハックで停止させることはできない。アクセス権限(デバッガー権限)が不足しているからだ。ならば、消去される「物質の物性」と「衝突判定」のみをローカルで書き換えて逃げ道を確保するしかない。


「俺を信じろ、シン。お前の恐怖(ノイズ)は、俺の演算で全て相殺してやる」


俺はシンの冷たい手を握り締めた。シンの手を介して、デッカーから彼の脳波へと直接論理シグナルを送り込む。


「透過ハックサポート『Phase_Through』、起動!」


`Sync_Phase_Frequency(Shin, Bulkhead_09);`

`Set_Cohesion_Factor(Shin_Body, 0.0);`


俺のデッカーとシンの脳波が、有線ケーブルを通じて完全に同期する。シンの不安定な脳波の揺らぎが、俺の端末の補正プログラムによってミリ秒単位で完璧な一定周波数へと強制調律されていく。脳が焼き切れるような感覚。メモリオーバーフローは一気に49%まで跳ね上がった。


「走れ!」


俺はシンを先頭に、竜崎、シキシマ、アキを伴って、赤い消去ノイズが渦巻くチタン隔壁へと突っ込んだ。


「あああああっ!」


シンの絶叫が響く。


次の瞬間、俺たちの身体は、冷たい水の中に沈み込むような奇妙な感覚と共に、消去領域のノイズをすり抜けていった。チタン合金の分子の隙間、そして消去プログラムの論理的な「死角」を、シンの透過能力と俺の補正コードが完璧にすり抜けたのだ。


背後で、シキシマ・クリニックが完全に赤い光の中に飲み込まれ、世界からその存在定義ごと消滅していくのが見えた。俺たちの唯一の安全なセーフハウスが、跡形もなく消え去ったのだ。


ドサリ、と硬いコンクリートの床に俺たちは転がり出た。


そこは、クリニックの外側に広がる、薄暗い最下層のメンテナンス用配管シャフトだった。デッカーのバッテリー残量は再び5%まで低下し、画面は警告の赤色で明滅している。


「ハァ……ハァ……ハァ……!」


俺は床に這いつくばりながら、激しく喘いだ。脳が沸騰したように熱い。シキシマが慌てて俺の脈を測り、アキが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。セーフハウスを失い、最下層全体が厳重な警戒態勢に入る中、俺たちは完全に逃げ場のない「漂流者」となった。


その時だった。遥か上方の配管の隙間から、不気味な「赤色」のサーチライトの光軸が、音もなく俺たちの足元へと滑り込んできた。

HẾT CHƯƠNG

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