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「バグ」の覚醒

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冷たいコンクリートの床。背中から伝わる凍てつくような感覚が、海藤魁人(カイト)の意識を泥のような眠りから引きずり出した。


「……ここは」


かすむ視界の中、最初に見えたのは、天井の薄暗いコンクリートの亀裂と、そこから垂れ下がる無数のデジタルグリッドの光波だった。不気味な青白い光の線が、まるで生き物のように壁を這っている。頭上では、カイトの脳波を監視する赤色の電磁センサーが、心臓の鼓動と同調するように冷酷に点滅していた。


「第16隔離病棟」――世界の物理法則を電子的に制御・隠蔽する巨大管理機関「SECT」が、世界の不具合である「バグ能力者」を社会から抹消するために建設した、多層要塞監獄「コキュートス」の最下層。それがカイトの置かれた現在地だった。冤罪でこの地獄へ投獄されてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。身体は重く、喉は乾ききっている。


カイトの身分は、システム上「F級『未覚醒バグ(エラー)』」に過ぎない。生まれつき脳の神経接続が一部デジタル化している「バグ第一世代」でありながら、明確な物理法則の書き換え能力を発現していない、看守たちから見下され、家畜のように使役されるだけの存在。


だが、カイトの胸の奥には、消えない復讐の火が灯っていた。機関に連れ去られた最愛の妹、海藤美咲(ミサキ)を救い出す。その誓いだけが、彼の不屈の生存本能を支えていた。カイトは縛られた右手をわずかに動かし、手のひらの中にある小さな、折れ曲がった青い折り紙の感触を確かめた。美咲が別れ際に残した、バイナリコードが折られた折り紙。それが、彼の唯一の精神的支柱だった。


その時、頭上の電磁センサーが突如、激しい警告音を鳴らし始めた。


『警告:個体識別番号9044、脳波の異常活性を検知。システム保護のため、電磁精神矯正プロトコルを執行します』


「くっ……!」


左腕の皮膚に深く埋め込まれた監獄の電磁拘束具が、高周波の駆動音を立てて熱を帯びる。次の瞬間、数万ボルトの電磁ショックがカイトの左アームの神経を直接焼きに来た。全身の筋肉が激しく硬直する。白濁する視界の中で、カイトは歯を食いしばり、奥歯の裏に隠していた亡き父親の遺品――「創平の万年筆型マスターキー」を口から滑り出させ、拘束具の隠された物理ポートへと、命がけでねじ込んだ。


カチリ、と硬質な金属音が脳内で響く。


万年筆のペン先が180度回転し、超微細なナノプラグが露出して拘束具の回路にドッキングした。その瞬間、カイトの左腕にマウントされた自作のハック端末「デッカー」が、冷たい電子音と共に強制起動した。網膜上に、青いホログラフィック・キーボードが静かに展開される。


『システムアクセス:ゲストアクセス(Guest Access)を強制確立。初期OS「SOUHEI-01」ブート完了。バッテリー残量:100%』


「動け……デッカー!」


カイトは即座に、独房の重厚な電磁ロック扉をハックしようと、空中に浮かぶキーボードへと指を走らせた。だが、システムは甘くはなかった。金庫室並みのファイアウォールが、カイトの未熟なコマンドを瞬時に検知する。


『アクセス拒否(Permission Denied)。システムセキュリティレベル3。不正な書き換えを検知しました』


強烈なカウンターエラー信号がデッカーからカイトの脳へと逆流した。頭部をハンマーで殴られたような激痛。デッカーの画面が赤いノイズでブレ、システムが3秒間の完全フリーズに陥る。痛みに耐えながら、カイトは自身の無力さを呪った。ゲスト権限のままでは、監獄の強固な基幹システムを力任せに破ることは不可能なのだ。


そのフリーズの最中、廊下から重い足音が響き、独房の扉が物理的に解錠された。現れたのは、看守長鬼塚の配下である、黒い防護服に赤い単眼バイザーを装着した二人の治安部隊員(システムガード)だった。彼らの手には、触れた者の神経を焼く電磁警棒が青いスパークを散らしている。


「おい、F級のエラー風情が、何か妙な電波を放出してやがったな」


先頭の警備兵がサディスティックな笑みを浮かべ、電磁警棒をカイトの頭部に向けて容赦なく振り下ろした。直撃すれば、脳のデジタル神経が焼き切れ、廃人になることは確実だった。


カイトの生存本能が、限界を超えて覚醒した。


「コードアイ(物性コード視認術)、起動!」


カイトが右目をカッと見開いた瞬間、彼の視界は冷たい青色へと染まり、世界のすべてがバイナリコードのグリッドラインに分解された。振り下ろされる電磁警棒の軌道上に、白い文字が浮かび上がる。


『対象:軍用電磁警棒(Baton_01)。物性定義:硬度(Hardness): 85、伝導率(Conductivity): 95』


魁人の指先が、フリーズから復帰したデッカーのキーボードの上を、光速の残像となって舞った。等価交換の原則に基づき、周囲の空気から微弱な熱エネルギーを吸収し、デッカーのバッテリーを15%消費しながら、書き換えコマンドをコンパイルする。物理的に扉を壊すのはエネルギー消費が大きすぎるが、迫り来る武器の物性を書き換えるだけなら、最小限のリソースで済む!


「物性変換(Cast)――書き換えろ!」


魁人はキーボードの「Enter」キーを、強く叩くように空間に突き出した。


`Cast_Hardness(Baton_01, 0.1);`


電磁警棒がカイトの左肩に叩きつけられた瞬間――鈍い金属音ではなく、ベチャリという間抜けな音が部屋に響いた。チタン合金並みの硬度を誇っていた警棒が、衝突の衝撃に耐えきれず、まるで水分を多く含んだ「豆腐」のように柔らかく崩壊し、白いペーストとなって床へと飛び散ったのだ。


「なっ……何だと!?」


警備兵は、手元に残されたプラスチックの柄を見つめ、驚愕のあまり動きを止めた。カイトは返す刀で、もう一人の警備兵が銃を構える前に、彼の頑強な防護服(Guard_Armor_02)をコードアイでロックした。


`Cast_Hardness(Guard_Armor_02, 100);`


タイピングを終え、再びEnterキーを叩く。次の瞬間、二番目の警備兵の防護服の布繊維が、分子結合を急激に硬化させ、チタン合金並みの超硬質プレートへと変貌した。関節部分の可動性コードが「0」に固定され、防護服は一瞬にして彼自身を閉じ込める「金属の檻」となった。警備兵は悲鳴を上げることもできず、彫像のように固まったまま、コンクリートの床へと音を立てて転倒した。


「ルールに支配されるな。ルールは書き換えるものだ」


カイトは荒い息を吐きながら、動けなくなった警備兵の間をすり抜け、開かれたままの独房の扉から廊下へと滑り出た。急激な脳内演算の過負荷により、カイトの右目からは一筋の赤い血が静かに流れ落ち、頬を濡らした。デッカーのバッテリー残量は85%を示している。等価交換の代償は、確実に彼の肉体を蝕んでいた。


だが、立ち止まる時間はない。


カイトが廊下に足を踏み入れた瞬間、天井に設置された無数の監視カメラが一斉に回転し、赤い光軸をカイトの身体へと収束させた。廊下全体に、耳を劈く赤色の警告灯が激しく明滅し始める。


『警告。第16隔離病棟にて、F級バグ個体の脱走を検知。セキュリティレベルを最大に引き上げます』


そして、スピーカーから監獄全体のセキュリティを統括する冷徹なシステムAI「ウォーデン」の、感情を持たない合成音声が低く響き渡った。


『エリア全体の完全ロックダウンを開始します。不具合(バグ)の排除確率、99.8%』


廊下の先で、重厚なチタン合金製のシャッターが、凄まじい金属音を立てて閉鎖され始める。逃げ場を完全に失ったカイトの前に、監獄コキュートスの全防衛システムがその牙を剥き出そうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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