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池袋駅、光の障壁(ファイアウォール)

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「――きゃああああッ!」


陽菜の悲鳴が、青いグリッドの破片と共に弾け飛んだ。俺が展開した絶対防御壁『サンドボックス・バリア』の表面に、蜘蛛の巣のような赤い亀裂が走り、そこから冷酷な白銀の光が漏れ出す。触れた物質を「無」へと還す、センチネル・ドローンの消去(デリート)レーザーだ。


「魁人、さん……! 光が、光がもう、そこまで――!」


俺の胸に顔を埋めた陽菜の、小さな肩が激しく震えている。彼女の色彩認識能力が、バリアの崩壊箇所を正確に捉えていた。確かに、俺の右目にも、ノイズ混じりの視界の端で、バリアの耐久値(HP)がゼロに向かって高速で減少していくのが見えていた。


『警告:サンドボックスの維持制限時間を超過。メモリ使用率:九十七%。ターミナル温度が許容限界を突破しています』


左腕が、まるで沸騰した油を直接浴びせられたかのように熱い。H-01の金属筐体からは、物理的な過熱による白い煙が細く立ち上り、制服の袖口を焦がしていた。左手首の皮膚に、低温火傷の鋭い激痛が走る。脳内は、処理能力の限界を超えたデータ処理のせいで、締め付けられるような頭痛に支配され、鼻から滴る熱い血が床のグリッドを濡らしていた。


(クソ……! ドローン三体による連続照射だ。このままじゃ、あと三秒でバリアが完全に消滅して、俺も陽菜もデータごとフォーマットされる!)


直接ハッキングを仕掛けようにも、センチネルの『アクセス拒否(リジェクト)』フィールドに遮断され、キーボードへの入力すら受け付けない。物理的な武器である金属バット――『コード・スライサー』は、先ほどグリッチ・センチピードと共に虚無の底へ落として失ってしまった。


(戦うのは無理だ。センチネルは『存在定義の消去』を目的としたシステムの一部。力尽くで押し通すことはできない。なら――)


俺は、焼き切れかけた脳の演算領域(メモリ)を、最後の一滴まで絞り出すようにして思考を加速させた。直接システムを破壊できないのなら、システムが俺たちを認識する『ルール』そのものを騙し、この包囲網からステルスで脱出するしかない。


(デコイでエイムを散らし、その一瞬の隙にパケットを偽装する!)


俺は激痛で震える指先を、煙を吹くH-01のホログラムキーボードへと叩きつけた。ブラインドタッチ。一文字のスペルミスも、一ミリ秒の遅延も許されない、命がけのコーディングだ。


まずは自身の座標データを偽装し、車内にリアルな3Dホログラムの分身を複数投影するマクロ――『ホログラム・デコイ』の記述。


`Decoy.Spawn(Count=3, Target=Self, Offset=Random);`


さらに、自身のIPアドレスと位置情報をセンチネルの索敵センサーから隠蔽し、ただの『一般乗客(ゲストユーザー)』として偽装するステルスプロトコル――『パケット・スプーフィング』を同期させる。


`Spoof.Identity(Self, Guest_User_Template);`


「システム規則、上書き――コンパイル、実行!」


俺は「Enter」キーを強く叩きつけた。


『System: Compiling "Decoy_Spoof_Combo.ms"...』

『System: Compile Successful. Executing...』


その瞬間、バリアがガラスのように砕け散ると同時に、俺の身体が青くかすんだ三つのホログラムへと分裂し、五号車の異なる方向へと一斉に走り出した。


ドローンたちの赤い単眼センサーが、一瞬だけ激しく明滅する。消去レーザーの照準が、それぞれ別のデコイへと分散し、何もない床や座席の残骸を白い光線が貫いた。ドローンが「本物」を見失った、そのコンマ数秒の隙を、俺は見逃さなかった。


俺の身体の輪郭が、周囲の空気と同調するようにわずかにブレる。パケット・スプーフィングが完全に適用され、センチネルのデータベース上で、俺の存在定義が「危険バグ因子」から、ただの「一般乗客A」へと書き換えられたのだ。ドローンの赤いスキャン光線が、俺と陽菜の身体をただの背景オブジェクトとして素通りしていく。


「走るぞ、陽菜!」


「は、はい……!」


俺は陽菜の小さな手を強く引き、スライドを使わずに、自身の肉体的な足で五号車の奥へと全力で走り出した。背後では、デコイたちがドローンの消去レーザーを浴びて、白いワイヤーフレームとなって次々と消滅していく。だが、俺たちの存在はすでに彼らの索敵ルーチンから「ロスト」していた。


五号車の後方では、右肩を負傷した翔太が、看護師の白石舞に支えられながら、乗客たちを最後尾の十一号車へと必死に誘導していた。萌も、翔太の制服ジャケットを依り代にした『ベクトル・アンカー』が機能している連結部を無事に渡りきり、安全な後方車両へと避難していくのが見えた。


「大将……! 無事だったか!」


翔太が、苦痛に歪んだ顔を少しだけ和らげて叫んだ。


「翔太、乗客を全員十一号車に集めてくれ! そこは俺が一時的に安全領域(セーフハウス)にしてある! センチネルのドローンは俺が巻いたが、まだ安心はできない!」


「分かった、任せろ! お前も早く来い!」


翔太たちは乗客を連れて、六号車への扉をくぐり抜けた。俺と陽菜も彼らの後を追おうとした、その瞬間だった。


キィィィィィン――!


耳の後ろに貼り付けた骨伝導トランシーバー『ノイズ・リンク』から、鼓膜を突き刺すような高周波ノイズが響き渡った。俺は思わず耳を押さえてうめいた。ノイズの向こうから、東中野の自室にいる阿澄蓮の、悲鳴のような焦燥に満ちた声が飛び込んでくる。


『魁人! マズい、マズいぞ! ドローンを巻いたのはいいが、もっと最悪のシステムイベントが起動した! センチネルの指揮官――九条紗季が、山手線の暴走を完全に封じ込めるために、次の池袋駅の線路上に巨大な障壁を展開した!』


「障壁……!? なんだって?」


『世界管理AI直属の防衛障壁、センチネル・防衛ファイアウォール境界だ! 衝突すれば、時速三百キロメートルの質量エネルギーごと、山手線の車両も、乗客全員のデータも、一瞬にして完全消去(フォーマット)される! つまり、全員即死だ!』


「そんなの……物理的に列車を止めるしかないだろ!」


『無理だ! 新谷瞬のオメガコードによって、列車の物理ブレーキは完全に破壊されている! お前が『非常ブレーキ・オーバーライド』を今すぐここで実行しようとしても、時速三百キロの山手線の巨大な質量エネルギーを相殺するには、H-01の帯域幅(バンド幅)も、お前の脳内メモリも全く足りない! コンパイルした瞬間に、お前の脳が焼き切れて終わりだ!』


蓮の言う通りだった。H-01の画面には、列車の巨大な慣性エネルギーを示す『ベクトル変換ログ』が赤く点滅しており、俺の現在のシニア・デバッガー権限では、その数値を直接ゼロに書き換えることは不可能であると冷酷に示していた。質量が大きすぎるのだ。


「だったら、どうすればいい……! もう池袋駅は目の前だぞ!」


窓の外を見る。夕闇に染まるはずの東京の景色は、不気味な白銀の光に支配されていた。そして、前方の線路の先に、池袋駅のホームが近づいてくる。しかし、その駅の様子は、俺の知っている池袋駅ではなかった。


駅ホーム全体が、電子の青白い光の膜でコーティングされ、線路を完全に塞ぐようにして、天に向かってそびえ立つ半透明の巨大な「光の壁」が実体化していた。それこそが、センチネル・防衛ファイアウォール境界。触れたすべてのデータを「未定義(Null)」へと初期化する、世界の終わりを示す壁だ。


『衝突まで、残り十五秒』


H-01の画面に、無機質なカウントダウンが表示された。時速三百キロメートルの暴走列車は、減速することなく、その死の障壁へとまっすぐに突き進んでいる。


『魁人、僕が自作したバイパスハックデバイスのデータを送る! センチネルの初期ファイアウォールを一瞬だけ逆コンパイルする『デコンパイラー』の暗号パケットだ! これを使って、障壁のアクセス拒否プロトコルを書き換えるんだ!』


『ノイズ・リンク』を介して、蓮のPCから膨大な暗号化データが、俺のH-01へと強制転送され始めた。ディスプレイの青い光が激しく明滅し、転送パーセンテージが上昇していく。


「蓮、これはどういうハックだ!?」


『列車を止めるのが無理なら、障壁に対して『この列車はバグではなく、システムの一部である』と認識させるんだ! 列車の登録IDを一時的に偽装し、障壁の論理的な隙間に『一時的な抜け道(バイパス)』を構築して、列車ごとすり抜ける! それしか全員が助かる道はない!』


「パケット・スプーフィングを、俺個人じゃなく、山手線全体に適用するってことか……!」


『そうだ! だが、障壁の暗号キーは動的に変化している! 衝突するまでのわずかな時間で、その暗号の脆弱性を突いてバイパスコードを記述し、コンパイルしなきゃならない! 失敗すれば、俺たちも、乗客も全員消える!』


『衝突まで、残り十秒』


池袋駅のホームが、網膜を焼き切るほどの白銀の光を放ちながら、目の前に迫る。巨大な光の壁が、列車のフロントガラスのすぐ向こうにまで達していた。


「陽菜、俺の後ろに隠れてろ! 絶対に手を離すな!」


「魁人さん……!」


陽菜を自分の背後に引き込み、俺は左腕のH-01を両手で包み込むようにして構えた。脳が、沸騰するような熱を帯びる。鼻から流れる血が、顎を伝ってキーボードの上にポタポタと落ちた。偏頭痛は限界に達し、右目の視覚が一時的に完全なモノクローム(白黒)へとブレ始める。


(視界が……文字コードの色彩が、見えない……! だが、関係ない。指が、キーの配列を覚えている!)


俺は、白黒に霞むホログラムキーボードの上で、指先を狂気的な速度で走らせた。打鍵音が、列車の轟音をかき消すようにして、ミリ秒単位のビートを刻む。


蓮から送られてきた『デコンパイラー』のデータを解凍し、ファイアウォール境界のアクセス拒否コードの構造を『エラー・アイ』で逆コンパイルする。動的に変化する暗号キーの、論理的な矛盾(バグ)を、コンマ秒の精度でスキャンしていく。


(あった……! センチネルの防衛コードは、外部からのアクセスを拒否する際、一瞬だけ『接続エラー(404)』の例外処理を発生させている。その例外処理の隙間に、俺の偽装パケットを滑り込ませる!)


`try {`

` Train.RegisterID = System_Admin_Packet;`

`} catch (SecurityException e) {`

` Interrupt.Bypass(Firewall_Boundary_Core);`

`}`


『衝突まで、残り五秒』


「いけ……! 間に合えええええッ!」


俺は、血と汗が混ざった手で、最後の「Enter」キーを叩きつけた。列車の登録IDが、システム管理パケットへと一時的に書き換わり、障壁のアクセス拒否プロトコルへの「割り込み(インターラプト)」が開始された。


『System: Register ID Spoofing applied to [Train_Yamanote].』

『System: Constructing temporary Bypass Tunnel...』


コンパイルゲージが、九十%、九十五%、九十八%へと、衝突のタイムリミットと競い合うようにして上昇していく。列車の先頭が、光の障壁に接触するまで、あと僅か数メートル。


その極限の瞬間、俺の「エラー・アイ」は、白い光にコーティングされた池袋駅のホーム上に立つ、一人の女性の姿を捉えた。


タイトなお団子に結んだ黒髪、一切の無駄がないダークグレーの防衛スーツを身にまとった冷徹な女性。システム・センチネルの指揮官、九条紗季だ。彼女は、暴走する山手線が消去される瞬間を、無感情な瞳で見届けようとしていた。


だが、その九条紗季の瞳の奥を、俺のエラー・アイがスキャンした、その一瞬。


彼女の無表情な顔の裏で、瞳の奥に投影されているシステムウィンドウに、一瞬だけ「Logic_Conflict: Human_Emotion vs System_Law」という、赤く激しいエラーログが明滅したのを、俺は確かに目撃した。


(あの女……システムプログラムの癖に、感情のエラー(ノイズ)を吐き出している……!?)


その疑問を追究する時間は、一瞬たりとも残されていなかった。


『衝突まで、残り一秒』


『System: Compile 100% Complete. Bypass Tunnel Active.』


「――抜けるぞおおおおおッ!」


俺の絶叫と同時に、山手線の先頭車両が、そびえ立つ巨大な光の障壁「センチネル・防衛ファイアウォール境界」へと、時速三百キロメートルのまま、真っ正面から激突した。


激しい衝突音は、響かなかった。


次の瞬間、世界からすべての音が消失し、俺たちの視界は、網膜を焼き尽くすほどの、真っ白な光の渦によって完全に塗りつぶされた――。

HẾT CHƯƠNG

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