白き死の光、センチネル起動
完全な無防備状態に陥った俺の目の前で、グリッチ・センチピードがその鎌のような顎を持ち上げ、今度は俺の頭部に向けて、鋭い二進数の棘を突き出そうと狙いを定めた――!
「魁人さん、逃げて――!」
陽菜の悲鳴が、時速三百キロメートルの突風が吹き荒れる連結器の隙間に響き渡る。だが、逃げられるはずがなかった。俺の左足はデッドゾーンの境界にあり、一歩でも下がれば『虚無の底』へ真っ逆さまだ。おまけに、俺の唯一の武器だった金属バット――『コード・スライサー』は、先ほど奈落の底へと消えていったばかりだった。
頼みの綱である左腕のホログラフィック・ターミナル『H-01』は、百足のバグ電撃を直接受けたせいで、投影画面が赤黒いノイズで完全に文字化けしている。ディスプレイの隅で、壊れたスピーカーのような電子警告音が「ジ、ジジ……システム、破損……」と不気味に鳴り響くだけだ。アクティブなベクトル操作コードは、何一つ記述できない。
「ギィィィィィッ!!」
グリッチ・センチピードの顎が開き、その先端に収束した赤黒いノイズの棘が、容赦なく俺の眉間へと射出された。コンマ数秒後には、俺の脳内同期アドレスごと、存在が消去される。
(クソ、画面が見えない……! だが、キー配列は頭に入っている!)
俺は恐怖で強張る身体を論理の力で抑え込み、文字化けして明滅する赤黒いホログラムキーボードに、右手の指先を叩きつけた。目視でのシンタックス(構文)確認は不可能。頼るべきは、これまで何万回とキーを叩いてきた指先の「肉体記憶」のみ。
現在のターミナルは、先ほどの『ベクトル・アンカー』の実行キャッシュと、敵のバグ電撃による不正パケットでメモリが完全に飽和(リーク)している。アクティブなコードを記述する前に、まずはこの汚染されたメモリを強制的にリセットしなければ、何を入力してもコンパイルエラーで自滅する。
俺がブラインドタッチで打ち込んだのは、システムメモリを極限まで解放し、不要な一時ファイルを一括消去するデバッグプロトコル――『ガベージコレクション』の起動コマンドだった。
`System.GC();`
「Enter」キーを強く押し込む。だが、このプロトコルの実行には致命的な代償があった。メモリの解放と再構築が行われる「三秒間」、ターミナルは完全にシャットダウンし、俺は一切のハッキング能力を失う。完全な無防備だ。
「一秒……!」
百足の棘が、風を切り裂きながら俺の目前に迫る。死の軌道が網膜に焼き付く。
「大将に触らせるかよォォォッ!!」
その瞬間、背後から怒号が響いた。右肩を亜脱臼しているはずの織田翔太が、激痛に顔を歪めながらも、残された左腕で近くの壊れた座席の金属製手すりを引きちぎり、俺の前に身体を投げ出してきたのだ。
ガギィィィンッ!
翔太が突き出した鉄パイプと、百足の鋭い棘が衝突し、激しい火花が散る。しかし、質量ハックを持たないただの鉄パイプでは、バグの破壊力を受け止めきれない。金属音と共に鉄パイプが半ばからへし折れ、翔太の身体が後方へと弾き飛ばされた。
「二秒……!」
翔太が稼いだわずかな一瞬。だが、センチピードの鎌が再び俺の喉元へと迫る。陽菜が必死に叫んだ。
「魁人さん、左上! 黒いノイズが、そこから来る!」
陽菜の色彩認識能力が、暗闇の中に潜む致命的な攻撃の軌道を完璧に捉え、俺の耳元へとナビゲーションを届ける。俺は視覚ノイズに侵されかけた右目を細め、彼女の言葉を信じて、身体を右へと極限まで傾けた。喉元をかすめるようにして、百足の顎が空を切る。
「三秒……システムリブート、完了!」
チーン、という澄んだ電子音と共に、左腕のH-01が眩い青い光を取り戻した。赤黒いノイズは一瞬にして霧散し、真っ白なメモリ領域がディスプレイに展開される。
『System: Garbage Collection Complete. Memory allocated: 100% free.』
「待たせたな。デバッグの時間だ」
俺は、翔太が命がけで繋いでくれたこの瞬間を無駄にはしない。武器である金属バットは失った。ならば、今この場にある「論理」を武器にするまでだ。先ほど翔太のジャケットを媒介にして構築した『ベクトル・アンカー』の応用――物体の結合強度を書き換える『オブジェクト・コンパイル』の基礎理論が、俺の脳内で一本の美しい数式へと収束していく。
俺は、デッドゾーンの境界にへばりついているグリッチ・センチピードの巨体を『エラー・アイ』でロックオンした。百足の身体は、数十の節(セグメント)が論理的な「結合コード」によって連結されることで、一つの生命体として機能している。その結合定数を、強引に書き換える。
俺の指先が、再起動したホログラムキーボードの上を爆速で滑った。
`for (auto& segment : target.GetSegments()) {`
` segment.binding_force = Null; // 結合強度を未定義化`
` segment.velocity.y *= -5.0f; // 各節の落下速度を5倍に増幅`
`}`
「システム規則、適用――結合解除(アンバインド)!」
右手で「Enter」を叩く。その瞬間、グリッチ・センチピードの身体に走る青緑色の光が、一斉に激しいエラーログの赤へと染まった。百足の数十の節を繋ぎ止めていた論理的な「分子結合」が完全に消失し、奴の巨体は、ただのバラバラな金属のパーツへと分解されていく。
「ギ、ジジ……ジジジ……!」
断末魔のノイズを上げながら、結合を失った百足のセグメント群は、時速三百キロメートルの慣性を失い、連結部の隙間に広がる『虚無の底』へと、吸い込まれるように次々と落下していった。数式の川の中に沈み、データごと完全に消滅(フォーマット)していく奴の残滓を見届けて、俺は大きく息を吐いた。
「やった……のか?」
翔太が床に座り込んだまま、荒い息を吐きながら呟く。白石舞がすぐに駆け寄り、彼の肩の応急処置を再開した。美咲の同級生である萌も、陽菜に抱きしめられながら、ようやく涙を拭っていた。
しかし、俺たちの安堵は、一瞬にして打ち砕かれた。
「ジジ……警告。高頻度のシステム干渉(ハッキングログ)を検知。世界管理AI直属・防衛プログラム『システム・センチネル』を起動します」
車内スピーカーから、新谷瞬の狂気的な声とは異なる、完全に感情を排した冷酷な機械音声が流れ出した。それと同時に、車内の照明が不気味に明滅し、これまで俺たちが戦ってきたバグの赤黒い光が、一瞬にして刺すような「白銀の光」へと塗り替えられていく。
「な、何これ……? 魁人さん、バグの『色』が消えた……。代わりに、冷たい、真っ白な光が、上から降ってくる!」
陽菜が恐怖に肩を震わせ、俺の制服の袖を掴んだ。彼女の言う通りだった。連結器の隙間から見えていた『虚無の底』の数式の川すらも、白い光の膜によって覆い隠されていく。
(ハッキングログの累積が、システムの防衛トリガーを引いちまったのか……!?)
『警告:五号車を「有害な汚染ノード」と判定。エリア全体の強制消去(フォーマット)を開始します。執行官:九条紗季』
その無機質なアナウンスが響き渡ると同時に、五号車の天井のエアコン吹き出し口や照明の隙間から、青白い火花を散らしながら、三つの物体が滑り降りてきた。それは、直径五十センチメートルほどの、金属質の白いラグビーボールのような浮遊ロボット――『センチネル・ドローン:アルファ』だった。中央に配された単眼のセンサーが、不気味な赤色に発光し、俺たちの姿をスキャンし始める。
『ターゲット:危険バグ因子・海藤魁人。および汚染キャッシュ。排除(デリート)を開始します』
ドローンたちの単眼が、一斉に鋭い光を放った。次の瞬間、空気を焦がすような電子音と共に、ドローンから細く鋭い「白い光線」が放たれた。
「危ない、伏せろ!」
俺は翔太と白石舞に向かって叫び、陽菜を抱きかかえて床へと転がった。直後、俺たちが先ほどまで立っていた座席のシートを、白いレーザーが貫いた。
ジュウ、と音を立てて、緑色のモケットシートが焦げるのではない。レーザーが触れた瞬間、シートのクッションも、その下の金属フレームも、一瞬にしてテクスチャ(色彩)を失い、白いグリッド線だけの不完全な骨組み(ワイヤーフレーム)へと変貌し、そのまま空気中に溶けるようにして「無」へと消え去った。焦げ跡すら残らない、完全な存在の消去。
「ひっ……! 座席が、消えちゃった……!?」
萌が短い悲鳴を上げて頭を抱える。ゲストユーザーである彼女たちにとって、目の前で現実が「消去」されていく光景は、脳の理解を超えた恐怖だった。
(これがセンチネルの『デリートレーザー』……! 触れた物質のデータを強制的にゼロにする、消去プログラムだ!)
ドローンは三体。狭い車内を浮遊しながら、俺たちの退路を塞ぐようにフォーメーションを組む。まともに戦うのは不可能だ。俺のコード・スライサーは失われており、相手のファイアウォールは強固すぎて、ターミナルからの直接ハックはすべて『Access Denied』で弾かれてしまう。
「ギ、ギジジジ……!」
ドローンの一体が、標的を陽菜へと切り替えた。赤い単眼のフォーカスが、怯える陽菜の顔面にピタリと合わさる。単眼の奥で、致死性の白い光が収束を始めた。衝突まで、残り一秒。
(絶対に、指一本触れさせない!)
俺は、脳細胞が焼き切れるような偏頭痛に耐えながら、左腕のH-01を起動した。極限の焦りの中で、指先がホログラムキーボードを叩く。
`Sandbox.Create(Radius=1.0f, Target=Self);`
自身の周囲一メートルを、現実世界の物理干渉から完全に隔離された「仮想実行環境」として定義する絶対防御壁――『サンドボックス・バリア』の展開コードだ。コンパイルの実行と同時に、俺と陽菜を包み込むように、半透明の青い立方体のグリッド障壁が実体化した。
直後、ドローンから放たれた白い消去レーザーが、バリアの青い壁に激突した。
バチィィィィィン!!!
耳を劈くような電子衝突音が響き渡り、バリアの表面で激しい火花が散る。レーザーの「存在消去」の論理と、バリアの「データ保護」の論理が、ナノ秒単位で衝突し合っている。レーザーはバリアに阻まれ、無害な二進数の塵となって霧散していく。
「防いだ……!?」
陽菜が恐る恐る目を開ける。だが、俺の表情は絶望に染まっていた。左腕のH-01の画面に、恐ろしいシステム警告がスクロールしていたからだ。
『警告:サンドボックスの維持により、メモリ使用率が八十%に到達。ターミナル温度、上昇。脳への熱負荷が限界値を超えています』
サンドボックスの展開は、俺の脳とターミナルに凄まじい負荷をかける。このバリアを維持している間、俺は一歩も動くことができず、他の攻撃コードも一切記述できない。防戦一方だ。
「ギ、ジジ……システム、出力を増幅」
バリアが破れないことを学習したのか、三体のセンチネル・ドローンが、空中で三角形の陣形を組んだ。三つの赤い単眼が、同時に俺の展開した青いバリアへと照準を合わせる。三体同時の、連続消去レーザー照射の構えだ。
(三体同時……!? そんなの、バリアの処理能力(バンド幅)が追いつくはずがない!)
「魁人さん、光が……! 白い光が、もっと強くなる!」
陽菜の色彩認識が、バリアの限界を告げていた。ドローンの単眼から、極大の白いレーザーが同時に放たれる。青いサンドボックス・バリアに激突した瞬間、バリアのグリッド線が悲鳴を上げるように激しく歪み、表面にひび割れのような赤いノイズが走り始めた。
「ぐ、ああああああッ!!!」
脳内を直接電流で焼かれるような激痛が、俺の頭部を襲った。鼻から熱い血が滴り落ち、床を濡らす。左腕のH-01からは、物理的な過熱による白い煙が立ち上り、皮膚が焼けるような熱さが包帯越しに伝わってきた。
ピキ、ピキピキ……!
バリアのひび割れが、さらに広がっていく。陽菜のすぐ目の前、わずか数センチメートルの距離で、青いグリッドが剥がれ落ち、そこから「白き死の光」が漏れ出し始めた――!
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