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連結器の百足、デッドゾーンの断絶

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「ジジ……ジジジ……!」


五号車の前方連結部から響くその音は、金属が激しく軋む悲鳴ではなく、世界の存在定義そのものが消去されていく、冷酷なデジタルノイズだった。


黒井の懐から転がり落ちた赤いスマートフォン――バグ・フロントのクラックツール『Black-Box』の画面が、狂ったように赤黒い光を点滅させている。そこに表示された新谷瞬のシステム署名は、五号車と六号車を繋ぐ連結器の分子結合データを完全消去するための自動実行コード『デリート・リンク』の起動を告げていた。


「嘘……、床が消えていってる……!?」


俺の背中にしがみつく水瀬陽菜が、悲痛な声を上げた。彼女の色彩認識能力が、連結部の床下に広がる致命的なバグの「黒い霧」を捉えていた。その視線が指し示す先を見て、俺は息を呑んだ。


鋼鉄の連結器が、どろどろとした緑黒い酸のようなグリッチ液に侵食され、まるで熱せられた砂糖細工のように形を崩し始めている。だが、本当に恐ろしいのはその下だった。剥がれ落ちた鉄板の隙間から見えたのは、暗いバラスト軌道ではない。現実世界のレンダリングが完全に行われていない、底知れぬ暗黒――二進数の青い数式やエラーログの文字列が、冷たい川のように音もなく流れ続ける『軌道外仮想領域・虚無の底』だった。一度あそこに落ちれば、キャラクターデータは二度と復元できない。完全な存在消去(パージ)だ。


「くっ……、ああっ!」


痛む脇腹を左手で押さえ、俺は激しい頭痛に耐えながらH-01のホログラムウィンドウを凝視した。黒井との戦闘で蓄積した脳の熱負荷(オーバーヒート)のせいで、視界の端がチカチカと明滅している。肋骨のひびが、呼吸をするたびにナイフで抉られるような激痛を訴えていた。


『警告:連結部結合率、残り三十%。物理衝突判定(コリジョン)の消失まで残り三十秒』


「そんな……! 大将、このままじゃ俺たち全員、あの真っ暗な穴に落っこちまうぞ!」


後方で右肩を押さえ、激痛に顔を歪めている織田翔太が叫んだ。彼の負傷した肩を、偶然乗り合わせていた看護師の白石舞が必死に固定しながら、乗客たちを後方へ避難させようと声を張り上げている。


「皆さん、落ち着いて! 荷物を捨てて十一号車の方へ移動してください! 急いで!」


白石舞の必死の誘導にもかかわらず、車輪が軋む轟音と、時速三百キロメートルの風圧が破壊された貫通扉から吹き込み、車内は極限のパニックに包まれていた。乗客たち――システムにとっての『ゲストユーザー』は、現実エンジンのカモフラージュが剥がれかけたこの異常事態に、ただ怯え、押し合いへし合いしている。


その時、列車が東京駅手前の急カーブに差し掛かり、車両が激しく横揺れした。


「きゃああっ!?」


悲鳴が上がった。五号車の隅で震えていた美咲の同級生――結城萌が、激しい遠心力によって投げ出され、溶解しつつある連結器の隙間『連結器バグ・デッドゾーン』へと滑り落ちていく。


「萌ちゃん!!」


陽菜が手を伸ばすが、届かない。萌の身体は、床が消失して剥き出しになったワイヤーフレームの奈落の上へと投げ出され、強烈な風圧に吹き飛ばされそうになっていた。下は数式の川が流れる虚無の底。落ちれば即死だ。


(動け……動け、俺の身体……!)


俺は痛む肋骨の悲鳴を無視し、右足を強く踏み込んだ。左腕のH-01を起動すると同時に、脳内メモリ(メモリ・アロケーション)の残存領域を強引に引き絞る。滑り出す方向へと、摩擦係数をゼロにする簡易マクロをコンパイルした。


「『慣性ゼロ・スライド』、起動!」


`Friction.Set(Self, 0);`

`Vector.Lock(Self, Velocity=30, Unit=KMH);`


床との摩擦を完全に失った俺の身体は、氷の上を滑る滑走体のように、一瞬でデッドゾーンの境界へと滑り込んだ。風圧が顔を切り裂き、目を開けているのも困難な中、手を伸ばす。滑落する萌の手首を、俺は左手で辛うじて掴み取った。


「きゃあああ! 先輩! 怖い、落ちる、落ちちゃう!」


「掴んでろ! 絶対に離すな!」


片手で萌の体重を支えた瞬間、引きちぎられるような重力が左腕にのしかかった。脇腹のひびが悲鳴を上げ、視界が一瞬真っ白になる。俺自身も、壊れた連結器の縁から半身がはみ出し、吹き荒れる暴風の中に宙吊りになっていた。


「ギィィィィィィッ!」


その時、溶解する鉄の隙間から、不気味な青緑色の光が溢れ出た。連結器の金属に絡みつくようにして、全長五メートルを超える巨大な百足型バグ『グリッチ・センチピード』がその醜悪な姿を現したのだ。無数の足が二進数のコードの棘となっており、連結ボルトの結合データを直接噛み砕き、酸性液を吐き散らしている。


(こいつが結合データを消去している本体か……! デリートされる前に、叩き潰す!)


俺は右手を伸ばし、床に転がっていたアルミニウム製の野球バットを引き寄せた。高分子振動コード『Slicer.exe』をバットに永続コンパイルし、ブレードを起動しようとする。


しかし、時速三百キロメートルの風圧と、バグによって歪んだ連結部の不規則な揺れが、俺の右手の自由を奪った。


「しまっ――」


突風がバットを叩き、激しい衝撃が指先を襲う。握力を失った俺の手から、青い光を放ちかけていたバットがこぼれ落ちた。バットはデッドゾーンの隙間へと吸い込まれ、数式の川が流れる虚無の底へと、一瞬で消え去っていった。


(コード・スライサーを失った……!?)


直接の攻撃手段が消滅した。その間にも、グリッチ・センチピードは結合データを『Null(未定義)』に書き換えるため、最後にして最大の酸性グリッチ液を連結ボルトに向けて吐き出そうと、その顎を持ち上げる。結合率はすでに二十%を切ろうとしていた。このままでは、萌を救うことも、五号車を繋ぎ止めることもできない。


「大将! これを使ってくれ!」


翔太が痛む肩を白石舞に支えられながら、自身の制服のジャケットを脱ぎ、俺に向けて投げよこした。風に煽られながら、黒い布地が俺の顔の前に舞い落ちる。


(……ジャケット? いや、待て。物理的な強度は足りなくても、システム的な『依り代』があれば……!)


俺の脳裏に、黒井を倒した瞬間にH-01のキャッシュに一時保存された『質量操作ログ』の残滓データがフラッシュバックした。質量を増幅し、慣性を固定するあの凶暴なコード。あれを応用すれば、壊れた連結器の物理的距離パラメータを、強引に『ゼロ』に固定できるはずだ。


俺は萌を掴んだ左手に全神経を集中させながら、右手一本で空中にホログラムキーボードを展開した。タイピング速度は、脳の過熱によって限界に達していたが、一文字のスペルミスも許されない。俺の指先が、空中で光の残像を描きながらキーを叩き切る。


`#include <physics/vector.h>`

`#include <cache/mass_log.h>`


`Vector_Anchor(target="Coupler_Link") {`

` Object_Anchor(medium="Shota_Jacket");`

` Distance.Set(Car5.Front, Car6.Rear, 0.0f); // 物理的距離を0に強制固定`

` Constraint.Lock(type=absolute);`

`}`


「システム規則、適用――『ベクトル・アンカー』!!」


俺は、翔太のジャケットを溶解しつつある連結ボルトの隙間に押し込み、右手で「Enter」キーを強く叩きつけた。


ドォォォォォン!!!


ジャケットが連結器に触れた瞬間、青い二進数の光の鎖が、幾重にも重なり合うように実体化し、激しく軋む二つの車両を強引に縛り付けた。ジャケットの繊維一本一本が、質量操作ログの残滓によって超高密度化され、金属以上の強度を持つ『論理の楔』へと変貌したのだ。


『System: Vector Anchor Active. Distance locked to 0.0f.』


連結部の激しい振動が、一瞬にしてピタリと収まった。五号車と六号車は、数式の鎖によって物理的距離を「ゼロ」に強制固定され、千切れる寸前で完全に繋ぎ止められたのだ。


「舞さん、翔太! 萌ちゃんを引き上げてくれ!」


「任せろ!」


翔太と白石舞が、デッドゾーンの縁まで身を乗り出し、俺が掴んでいた萌の手を握りしめた。二人のフィジカルな協力によって、萌の身体は無事に安全な五号車の床の上へと引き上げられた。


「よ、よかった……」


陽菜が安堵の涙を流し、萌を抱きしめる。乗客たちからも、割れんばかりの歓声が上がった。連結器の完全な断絶は防がれ、最悪の落下事故は回避されたのだ。


だが、俺が安堵の息を吐き、ハッチから身を引こうとしたその瞬間――


「ギィィィィィッ!!」


まだ健在だったグリッチ・センチピードが、怒り狂ったように吼えた。数式の鎖によって結合を固定されたことに気づいた百足は、その無数の棘に赤黒いバグノイズを纏わせ、俺の左腕に向けて鋭い突進を仕掛けてきたのだ。


「魁人さん、危ない!!」


陽菜の悲鳴が響く。避ける間もなかった。


センチピードの鋭い棘が、俺の左腕に装着されたホログラフィック・ターミナル「H-01」に直接突き刺さった。バチバチと激しい静電気が走り、ノイズの火花が散る。


『警告:外部バグデータの直接侵入を検知。システムファイル破損の危険。ジ、ジジ……』


H-01のディスプレイが激しく乱れ、投影されていた青いホログラムキーボードが、一瞬にして赤黒い文字化けしたグリフへと書き換わっていく。コンパイル中のデータが完全に破損し、エラー音が耳障りに鳴り響いた。


(くそっ、ターミナルがバグった……!?)


操作不能。修復コードの記述すらできない。完全な無防備状態に陥った俺の目の前で、グリッチ・センチピードがその鎌のような顎を持ち上げ、今度は俺の頭部に向けて、鋭い二進数の棘を突き出そうと狙いを定めた――!

HẾT CHƯƠNG

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