質量3倍、鉄の暴虐
「オラァッ! デバッガーだか何だか知らねえが、新谷様の邪魔をする奴は、この鉄槌で叩き潰す!」
五号車の貫通扉を紙切れのように引きちぎり、現れた巨漢――バグ・フロントのクラッカー「黒井」が、耳を劈くような咆哮を上げた。
その手にある巨大な鉄パイプが、不気味な赤黒いノイズを放ちながら床を引きずる。キィィィンと、鼓膜を刺すような高周波の金属音が響き、山手線の頑強な鋼鉄の床板が、まるで生温い飴細工のようにひしゃげ、めくれ上がっていく。それは物理的な筋力による破壊ではない。鉄パイプの「質量」そのものが、システム的に異常増幅されているのだ。
「魁人さん……! あの人の持っている鉄、真っ黒です! 信じられないくらい重い、底なしのインクみたいなエラーが渦巻いてる!」
俺の制服の裾を掴む水瀬陽菜の声が、恐怖で激しく震えていた。彼女の色彩認識能力――「エラー・アイ」の原型とも言える特殊な視覚は、黒井が纏う「質量の異常改変(質量ハック)」を、不気味な黒色のオーラとして捉えていた。
「陽菜、下がってろ。……織田、乗客を下がらせろ!」
俺は陽菜を背後に庇いながら、右手のアルミニウム製バットを強く握り締めた。左腕のホログラフィック・ターミナル「H-01」は、Spikeのドングルに割り込み処理(システム・インターラプト)を掛けた直後の余熱で、警告の黄色い光を放っている。脳内メモリ(メモリ・アロケーション)は逼迫し、こめかみを締め付けるような鋭い頭痛が持続していた。
だが、目の前の脅威は待ってくれない。
「逃がすかよォ!」
黒井が巨躯に見合わぬ速度で踏み込んできた。質量を三倍にハックされた鉄パイプが、空気を引き裂く重低音を立てて、俺の頭部めがけて振り下ろされる。
「大将、危ねえ!」
その瞬間、横から飛び出してきたのは織田翔太だった。陸上部で鍛え上げたその俊足を生かし、翔太は床に転がっていた座席シートの残骸を黒井の足元へと蹴り込んだ。黒井の突進を躓かせ、体勢を崩そうというフィジカルな機転だ。
しかし、それは「質量三倍」という物理の暴虐を前に、あまりにも無力だった。
「邪魔だ、NPCがァ!」
黒井は足元の障害物を一瞥すらせず、ただ踏み潰した。運動量と慣性が異常増幅された彼の肉体は、時速数十キロの鉄塊と同義だ。蹴り込まれたシートの残骸は一瞬でペシャンコに潰れ、その衝撃の余波だけで、翔太の身体が木の葉のように吹き飛ばされた。
「うあああッ!?」
翔太は座席のポールに肩を強打し、床へと転がった。苦痛に顔を歪め、右肩を押さえて動けなくなる。骨が軋む嫌な音が、電車の轟音に混ざって聞こえた。
「織田!」
「ハハハ! 次はてめえだ、デバッガー!」
翔太を蹴散らした黒井の鉄パイプが、容赦なく俺の視界を塞ぐ。避けるスペースはない。俺はH-01のキーボードに指を走らせ、右手のバットに高分子振動コードを永続コンパイルした。
「コード・スライサー、起動!」
`Slicer.exe --compile --target=weapon_bat̀
アルミニウムのバットが青い二進数の光を放ち、超高速の微細振動を開始する。物理的な装甲すら論理的に切り裂く「ロジックの刃」だ。俺はバットを両手で構え、振り下ろされる鉄パイプを迎え撃つように、全力で斜め上へと振り抜いた。
ガギィィィィィィィン!!!
五号車の空気を震わせる、凄まじい金属衝突音が炸裂した。火花が散り、青い光と赤黒いノイズが激しく衝突し合う。
(くっ……、重い……!)
手応えは、コンクリートの壁を全力で殴ったかのようだった。コード・スライサーの振動波は、黒井の鉄パイプのテクスチャを削り取ろうとしたが、相手の圧倒的な「質量」と、それに伴う「運動エネルギー」が、ブレードの論理的な刃を力尽くでねじ伏せていく。黒井は自身の筋肉組織の質量をもハックし、物理的な反動を完全に無視する「筋肉質量アーマー」を展開していたのだ。
「何がスライサーだ! 軽いんだよォ!」
黒井がさらに力を込めると、コード・スライサーの青い光が悲鳴を上げるように明滅した。耐えきれず、俺の身体が後方へと弾き飛ばされる。
「がはっ……!」
床を転がり、五号車の隔壁に背中を強打した。肋骨のあたりに、メキリと鈍い痛みが走る。呼吸が詰まり、口内に鉄の味が広がった。バットは手からこぼれ落ち、床の上を虚しく転がっていく。物理的なパワーの差が、あまりにも絶望的すぎた。
「魁人さん!」
陽菜が駆け寄ろうとするが、俺は制止するように右手を突き出した。
「来るな……!」
床に膝をつき、荒い息を吐きながら、俺は黒井を睨みつけた。黒井は勝ち誇ったように笑い、鉄パイプを再び肩に担ぎ直す。彼の全身を流れるソースコードが、俺の「エラー・アイ」を通じて視覚化されていた。
cpp
// 黒井の質量ハックステータス
struct PhysicalAttribute {
float mass = 240.0f; // 通常の3倍の質量
float velocity = 27.7f; // 時速100kmに相当する突進速度
Vector3 direction = Vector3(0, 0, -1);
};
(まともにやり合ったら、一撃で肉体データが消去される。物理的な格闘じゃ絶対に勝てない。……なら、システム的に奴の『運動量』そのものをハックするしかない)
黒井の強さは、異常増幅された「質量」と、突進による「速度」の乗算によって生み出される圧倒的な運動エネルギーだ。ならば、その『運動量の方向』を書き換えたらどうなる?
「死ねぇ、デバッガー!」
黒井が再び突進を開始した。時速百キロメートルに相当する質量二百四十キロの肉体が、五号車の狭い通路を真っ直ぐに突き進んでくる。床板が彼の歩みに耐えかねて、次々とひしゃげ、めくれ上がっていく。まさに鉄の暴虐だ。
直撃まで、あと三秒。
俺は痛む脇腹を押さえながら、左腕のH-01を起動した。青いホログラムキーボードが空中に展開される。脳内の「メモリ・アロケーション」を極限まで絞り出し、スレッドを一つ、完全にこの術式の構築に割り当てた。
「エラー・アイ、ロックオン。対象――『バグ・クラッカー:黒井』。運動量パラメータ、スキャン開始」
`Scan.Target(id="Kuroi_Cracker").Vector(type=momentum)`
俺の瞳が青いエラーログを高速でスキャンしていく。黒井の突進速度、進行方向、そして質量データの「ベクトル変換ログ」が、H-01の画面にリアルタイムで変数として代入されていく。コンパイルのプログレスバーが出現し、上昇を始める。二十%……五十%……。
「ハハハ! 潰れちまえ!」
直撃まで、あと一秒。黒井の凶暴な顔が目の前に迫る。鉄パイプが俺の脳天めがけて振り下ろされる、まさにその瞬間――
コンパイルが完了した。
「システム規則、適用――『ベクトル・リバース』!」
俺は、最後の一文字を叩き込み、「Enter」キーを強く押し下げた。
`#include <physics/vector.h>`
`Vector_Reverse(target="Kuroi_Cracker.weapon") {`
` target.Velocity *= -1.0f; // 速度ベクトルをマイナス乗算(180度反転)`
`}`
キィィィィィン!!!
空気が一瞬で凍りついたかのような、奇妙な静寂が五号車を包んだ。俺の目の前わずか数センチメートルの空間に、青い同心円状のグリッド波が鮮やかに展開される。黒井が全力で振り下ろした質量三倍の鉄パイプが、そのグリッド波に接触した。
瞬間、運動量保存の法則が、システム的に強制書き換え(オーバーライド)された。
「な……にッ!?」
黒井の目が、驚愕に見開かれた。
鉄パイプが持っていた「前方・下方への運動エネルギー」が、一瞬にして「後方・上方への運動エネルギー」へと、符号を『マイナス』に変えて反転したのだ。エネルギーは消滅しない。ただ、その方向が百八十度、真逆へと逆流した。
凄まじい衝撃波とともに、黒井が振り下ろしたはずの鉄パイプが、彼の制動力を完全に無視して、超高速で彼の顔面へと跳ね上がった。まるで、目に見えない巨大な巨人が、鉄パイプを逆方向へと全力で殴り返したかのように。
ドガアアアアアン!!!
質量三倍の鉄パイプが、黒井自身の顔面に直撃した。彼の鼻骨が砕け、肉体が自身の突進の慣性エネルギーをそのまま喰らって、後方へと激しく吹き飛ぶ。巨躯が五号車の天井を突き破り、ひしゃげた隔壁へと叩きつけられた。
「ぐ、あ、あ、あああッ!?」
黒井は血に染まり、白目を剥いて床に崩れ落ちた。彼の筋肉質量アーマーのコードが光の粒子となって剥がれ落ち、システムが完全にシャットダウンされる。黒井はピクリとも動かなくなり、完全に沈黙した。
「やった……のか?」
翔太が痛む肩を押さえながら、信じられないものを見る目で黒井の巨躯を見つめた。乗客たちからも、地鳴りのような歓声が沸き起こる。
だが、俺は安堵することはできなかった。倒れた黒井の懐から、赤く不気味に光るスマートフォン――バグ・フロントのクラックツール「Black-Box」が滑り落ち、その画面が異常な速度で点滅を開始したのだ。
画面には、黒いノイズとともに、新谷瞬のシステム署名が浮かび上がっていた。
『プログラム:デリート・リンク、自動実行開始』
「な、んだこれ……!?」
俺のH-01が、けたたましい警告音を鳴らし響かせた。画面に赤いエラーログが奔流のように流れ出す。黒井の端末から、五号車と六号車を繋ぐ「連結器」の結合データを完全消去するための、最悪のバグコードが自動実行されていた。
ジジジジジジッ!
五号車の床下から、金属が酸で溶けるような、不気味な溶解音が響き始めた。連結器の分子結合が、システム的に「Null(未定義)」へと書き換えられようとしている。連結が切れれば、乗客が乗ったこの五号車は、暴走する山手線の軌道から切り離され、世界の外側にある「虚無の底」へと落下してしまう――!
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