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パニック・ノイズと愉快犯

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「5号車がバグの連鎖で崩壊するぞ、急げ!」


耳元に貼り付けた骨伝導トランシーバー「ノイズ・リンク」から、阿澄蓮の悲鳴のような警告が響く。それと同時に、俺――海藤魁人のスマートフォンの画面が、どす黒い赤色に染まり、ノイズ混じりの幾何学模様が蠢き始めた。車内の空気そのものが、静電気を帯びたようにチリチリと肌を刺す。


「魁人さん、待って!」


背後から呼びかける声に、俺は一瞬だけ足を止めた。十一号車に置いていくつもりだった水瀬陽菜が、必死の面持ちで俺を追いかけてきていた。彼女の大きな瞳は、恐怖に怯えながらも、強い光を宿している。


「言ったはずだ、陽菜。ここから先は危険すぎる。十一号車のデバッグ領域から出るな」


「嫌です! 私……見えているんです。ここから先の車両、コードの『色』がどんどん変わっていってます。魁人さん一人じゃ、どこが安全な床かも分からないはずです!」


彼女の言う通りだった。俺の「エラー・アイ」は世界のバグを数式として視認できるが、この暴走する山手線の中では空間の接続自体が不安定になっている。陽菜の「色彩認識能力」があれば、バグの危険度を直感的に察知し、未描画領域(デッドゾーン)への落下を防ぐことができる。俺は一つ舌打ちをし、彼女の手を引いた。


「分かった。ただし、絶対に俺の背中から離れるな」


「はい!」


俺たちは九号車、八号車と滑るように駆け抜けた。一時的に獲得したシニア・デバッガー権限による「慣性ゼロ・スライド」を極小出力で維持し、時速三百キロの振動を殺しながら進む。陽菜の警告のおかげで、床の一部が白いワイヤーフレームに分解されかけているグリッチ箇所を、跳び越えて回避することができた。


そして、五号車の貫通扉を押し開けた瞬間――鼓膜を突き破るような悲鳴の嵐が、俺たちを襲った。


「いやあああ! 出して! ここから出して!」

「電車が……電車が真っ二つになるぞ!」

「スマホが動かない! 警察も、誰も電話に出ないんだ!」


五号車の中は、地獄絵図そのものだった。百人近い一般乗客(ゲストユーザー)たちが、恐怖に顔を歪め、互いを押しのけながら出口のない車両の中で押し合いへし合いしている。その原因は、彼らが握り締めているスマートフォンの画面にあった。


すべての液晶画面が、血のように赤いエラーウィンドウに支配されている。そこには不気味に脈打つデジタルの髑髏と、残酷なカウントダウンが表示されていた。


『警告:山手線は十四分後に東京駅手前で大脱線します。乗客全員のデータ消去(フォーマット)まで、残り14:00』


「みんな落ち着け! 押すな! 前の車両に行っても扉はロックされている!」


車両の中央、押し寄せる群衆を身体を張って塞ぎ止めている少年がいた。都立高校の運動着を着た、引き締まった体躯の陸上部員――織田翔太だ。彼はその俊足と頑強な肉体を活かし、パニックになった人々が将棋倒しになるのを防ごうと、必死に声を張り上げている。


「翔太……!」


翔太のすぐ背後では、俺の妹・美咲の同級生である結城萌が、恐怖で涙を流しながら座席の隅で膝を抱えて震えていた。彼女たちのスマートフォンもまた、赤いノイズを放ち続けている。


(このパニックは自然発生したものじゃない。誰かが意図的に悪意あるコードをローカルネットワークに流し込んでいるんだ)


パニックそのものが、この山手線のシステム帯域幅(バンド幅)を乱雑に消費している。このままでは、俺が先頭車両のブレーキシステムをハックするためのリソース(メモリ)が枯渇してしまう。一刻も早く、このパニックの「震源地」をデバッグしなければならない。


俺は左腕のホログラフィック・ターミナル「H-01」を起動した。空中に青いホログラムウィンドウが展開される。


「ライフ・スキャン、実行」


`Life_Scan.exe --target=local_network --visualizè


俺の瞳が青く明滅し、五号車内の乗客全員の頭上に、心拍数(BPM)とストレス値を示すグリーンのホログラムゲージが浮かび上がった。ほとんどの乗客のゲージは、パニックによってレッドゾーンに達し、激しくブレている。


だが、その混沌としたノイズの海の中に、一つだけ、異常なほど冷静に、かつ愉悦に満ちた脈動を刻む「青いノード」が存在していた。


車両の最後尾、優先席にだらしなく腰掛け、タブレット端末を操作している男。十九歳前後の、派手なストリート系ファッションに身を包んだ大学生――「Spike」こと菅原俊だ。彼のタブレットのUSBポートには、新谷瞬から与えられたと思われる、赤く不気味に発光する簡易コンパイル・ドングル「Black-Box」が突き刺さっていた。そこから、乗客のスマホへ向けて大量のパニックウイルスがマルチキャスト送信されている。


「あはは! 傑作だな、おい! まるで檻の中のネズミだ。この偽物の世界、バグだらけのクソゲーごと、全部消えちまえばいいんだよ!」


Spikeは狂気的な笑みを浮かべ、タブレットの画面をタップしている。彼自身、自分が使っているコードの本当の恐ろしさを理解していない「スクリプト・キディ」だ。バグ・フロントの思想に憧れ、与えられたおもちゃで世界を壊す全能感に酔いしれているに過ぎない。


「おい、お前! 何やってるんだ!」


翔太がSpikeの異常さに気づき、彼を物理的に取り押さえようと踏み出した。しかし、Spikeがタブレットを操作すると、彼の周囲に黄色の電撃スパークが走り、目に見えない論理防壁が展開された。物理的なアプローチを拒絶する、簡易的な静電気フィールドだ。


「近寄るなよ、フィジカルだけの猿が。これは特権階級の『ハック』だ。お前らNPCとは脳のデコンパイル精度が違うんだよ!」


「くそっ、なんだこれ……体が痺れて近づけねえ!」


翔太が防壁に弾かれ、床に膝をつく。Spikeはさらに調子に乗り、タブレットのキーを叩いた。


「よし、次は『パニック・トリガー・バージョン2』をコンパイルする。乗客のスマホのバイブレーションモーターを過負荷で暴走させて、全員で窓ガラスを叩き割らせてみようか。時速三百キロの風圧で、何人が外の『虚無』に吸い込まれるかな?」


(やらせるか……!)


俺は一歩前に踏み出した。H-01のホログラムキーボードの上に、右指を静かに添える。


「Spike。お前、そのドングルのソースコード、一行でも自分で書いたのか?」


「ああん? 誰だお前。スマホをハックされてないバグ野郎が、偉そうに語りかけてんじゃねえよ!」


「他人が書いたコードをただ実行して、神にでもなったつもりか。お前のコンパイルプロセス、脆弱性(バグ)だらけだぞ」


「うるせえ! 消えろ!」


Spikeが怒り狂い、タブレットのコンパイル実行ボタンを押した。彼の頭上に、赤いコンパイルプログレスバーが出現し、高速で上昇を始める。70%……85%……。バージョン2のウイルスがコンパイルされれば、この車両の乗客は物理的に全滅する。


だが、俺の「エラー・アイ」は、彼のドングルが送信しているパケットのヘッダー情報、その暗号化の甘さを完全に捉えていた。他人のツールをそのまま使っている奴は、割り込み(インターラプト)に対する脆弱性を塞ぐ方法を知らない。


「システム・インターラプト規則、適用」


俺は、H-01のキーボードの上に指の残像を走らせた。打鍵音は列車の轟音にかき消されたが、青いコード行が空中に爆速で描かれていく。


`#include <system/interrupt.h>`

`#include <network/packet.h>`


`Interrupt.Request(target_device_id="Spike_Dongle_01") {`

` while(true) {`

` // 循環参照を強制注入し、メモリリークを誘発させる`

` Link.Duplicate(this);`

` }`

`}`


Spikeのプログレスバーが95%に達した。あと一秒でコンパイルが完了する。


「終わりだ、デバッガー気取りのクソガキ!」


「――Enter」


俺が最後のキーを叩きつけた瞬間、Spikeの頭上に浮かんでいた赤いプログレスバーが、一瞬で「漆黒のバグノイズ」へと塗りつぶされた。


『System: Interrupt Success. Packet Injected.』

『Warning: Infinite Loop Detected in Target Device.』


「な、なんだこれ!? コンパイルが……止まった!? エラー? 構文エラー(シンタックスエラー)なんて出るはずが――」


Spikeが目を見開いてタブレットを凝視した。しかし、時すでに遅い。俺が流し込んだ無限ループコードは、彼のドングルの処理能力をミリ秒単位で奪い尽くし、極限の過負荷(スタックオーバーフロー)を引き起こしていた。


バチバチバチッ!


激しい青白いスパークが、Spikeのタブレットと、差し込まれていた赤のドングルから吹き出した。ドングルは見る間に熱で歪み、黒い煙を上げて物理的に溶解し始める。


「熱っ! あちちちち! なんだよこれ、俺のBlack-Boxが……溶けてる!?」


Spikeは悲鳴を上げてタブレットを床に放り投げた。床に落ちたデバイスは、無残なプラスチックの塊へと変わり果て、完全に沈黙した。


それと同時に、乗客たちのスマートフォンの画面を覆っていた赤いエラーウィンドウが一斉に消滅し、元の画面へと戻っていく。車内を支配していた電磁的なノイズが霧散し、静寂が戻った。


「……消えた? カウントダウンが、消えたぞ!」

「助かった……! 助かったんだ!」


乗客たちの間に、安堵の溜息と涙が広がっていく。翔太が驚愕の表情で俺を見つめ、それから床にへたり込んでいるSpikeを睨みつけた。


「お前……今、何をしたんだ?」


「ただのデバッグだ。おもちゃを取り上げただけだよ」


俺は静かに答え、H-01をスリープモードに戻した。しかし、俺の視界の端には、過負荷処理の代償として軽微なノイズが混ざり始めていた。脳内メモリ(メモリ・アロケーション)が一時的に逼迫し、ズキズキとした鈍い痛みがこめかみを走る。


「魁人……先輩?」


座席の隅で震えていた萌が、涙を拭いながら俺を見上げていた。俺は彼女に小さく頷いて見せ、翔太に向き直った。


「織田翔太。俺は一号車に向かう。お前はここで、乗客たちがパニックにならないよう統制を頼む。白石舞という看護師が十号車にいるはずだ。怪我人がいたら彼女と連携してくれ」


翔太は一瞬、戸惑うように俺の左腕のターミナルを見たが、すぐに力強く頷いた。


「分かった。理由は聞かねえ。だが、お前がこの電車の異常を止めてくれるんだな? 任せたぞ、大将!」


翔太との間に、確かな共闘の絆が結ばれた。俺は一つ深く息を吐き、次の車両へ進むため、五号車の前方にある貫通扉へと歩みを進めた。


――だが、世界は俺たちに、一瞬の安息すら与えるつもりはなかった。


ギギギ、ギギギギギギギッ!


突如として、五号車の前方にある貫通扉が、内側から押し潰されるように激しく歪み始めた。分厚いスチール製の扉が、まるで粘土細工のようにひしゃげ、ボルトが引きちぎられて宙を舞う。


「キャあああああ!」


乗客たちが再び悲鳴を上げて後退する。陽菜が俺の背中に強く抱きつき、その指が小刻みに震えた。


「魁人さん……! 赤い……! 嘘、さっきの怪物より、もっと濃い、真っ黒な質量(エラー)が扉の向こうから来ます!」


ドガアアアアン!


凄まじい爆音とともに、貫通扉が完全に吹き飛ばされ、通路の壁が粉砕された。立ち込めるデジタルノイズの煙の向こうから、一人の大男が姿を現した。二メートル近い巨躯、全身にバグノイズで歪んだタトゥーを刻んだ大男――新谷瞬の部下、物理戦闘特化のクラッカー「黒井」だ。


彼の右手には、周囲の空間を物理的に歪めるほどに「質量が3倍にハックされた」巨大な鉄パイプが握られていた。鉄パイプが床を擦るたびに、山手線の頑強な鋼鉄の床が、飴細工のようにひしゃげて削れていく。


「新谷のガキが手こずってると思えば……デバッガーのガキか。お前がノイズを消したんだな?」


黒井は凶暴な笑みを浮かべ、質量ハックされた鉄パイプを肩に担いだ。その一撃は、触れるだけで物理衝突判定(コリジョン)ごと、俺の肉体を粉砕するだけの暴力に満ちていた。

HẾT CHƯƠNG

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