東中野からの暗号通信
「制限時間は、あと十五分。それでは、デバッグの旅をお楽しみください。アハハハハ!」
スピーカーから響いた新谷瞬の狂気的な笑い声が、ノイズ混じりに途切れる。それと同時に、十一号車の床下から金属が悲鳴を上げるような高周波の駆動音が響き、列車の速度がさらに一段階、異常な加速を開始した。時速三百キロメートル。現実の線路であれば、すでに脱線していてもおかしくない超高速の世界に、このバグだらけの山手線は突入していた。
「魁人さん……電車の音が、さっきより高くなってる」
水瀬陽菜が不安そうに魁人の制服の袖を引く。彼女の大きな丸い瞳は、車内を流れる二進数のコードが黄色からオレンジ色、そして危険な赤色へと変色しつつあるのを捉えていた。生まれつき世界のバグを「色」として視認できる彼女の色彩認識能力は、この暴走列車が破滅へ向かっていることを正確に警告している。
「大丈夫だ、陽菜。最後尾のこの車両は、さっきのデバッグ・パッチで一時的に安全が確保されている。お前はここにいろ」
魁人は左腕のホログラフィック・ターミナル「H-01」を見つめた。画面には「User Authority promoted to [Senior Debugger] (Temporary)」の文字。一時的とはいえ、中級デバッガーへの昇格ログが青く明滅している。先ほど倒したバグモンスター「ベクトルイーター」の残骸から抽出した修復データが、魁人の左半身のデータ破損を完全に修復し、ターミナルの処理能力を引き上げていた。
だが、猶予は十五分もない。新谷瞬が仕掛けた最終破壊コード「脱線プログラム:オメガ」を解除し、一号車の運転室にある「物理マスター・運行制御キー」を奪還しなければ、乗客全員がデータごと消去される。魁人が一人で先頭車両へ向かおうと決意したその時、右耳の後ろに貼り付けられた薄型の骨伝導トランシーバー「ノイズ・リンク」が、微弱な電気信号とともに振動した。
『――テステス、魁人。聞こえるか? こちら蓮だ。東中野の部室からプロキシ・トンネルを維持している』
耳腔に直接響いたのは、魁人の唯一の親友であり、天才プログラマーの阿澄蓮の声だった。ボサボサの黒髪を掻きむしりながら、四画面の水冷PCの前でキーボードを叩き叩いている彼の姿が目に浮かぶようだった。
「蓮か。通信は安定しているか? センチネルの監視網は?」
『ああ、お前がベクトルイーターを撃破した際、瞬間的に発生した管理者権限のログを逆探知して、この暗号化回線をねじ込んだ。センチネルの初期追跡アルゴリズムは僕がダミーパケットで誤魔化している。だが、あまり時間はないぞ』
蓮の声は、いつになく緊張に満ちていた。画面越しに、彼が解析している膨大なデータログの流れる音が聞こえる。
『魁人、お前がいるその空間の座標を外側からスキャンした。……最悪だ。この山手線の暴走は、単なるクラッキングじゃない。東京の物理法則を管理している現実エンジンそのものの脆弱性を突いた、大規模なサイバーテロだ。バグ・フロントの奴ら、本気でこのエリアの「現実保存システム」の根幹を破壊しようとしている』
「現実保存システム……。やっぱり、この世界は」
『ああ。僕たちが「日常」と呼んでいるこの東京は、十年前の事故の後に作られたシミュレータに過ぎない。そして不気味なのは、外の世界の様子だ。僕は今、一般のテレビニュースとネットのタイムラインを監視している。……山手線の暴走なんて、一文字も報道されていない』
魁人は目を見開いた。「報道されていない? ブレーキが壊れた電車が時速三百キロでループしているんだぞ!?」
『一般の人間には、そう見えないようにシステムが制御しているんだ。現実エンジンの「認識フィルター」――カモフラージュ・プロトコルが作動している。「山手線は、新宿・渋谷間での信号トラブルにより、ダイヤに数分程度の乱れが発生しています」……それが、外の世界の「真実」にされている。誰も、自分たちの世界がバグに侵食されていることに気づいていないんだ』
背筋に冷たいものが走る。魁人が窓の外に目をやると、異常な速度で流れる景色の中に、テクスチャが剥がれて剥き出しになった白いグリッド線(ワイヤーフレーム)が不気味に浮かび上がっていた。しかし、外の世界の人間にとっては、これもただの「日常の風景」として脳内で都合よく変換されているのだ。
その時、魁人のポケットの中で、普通のスマートフォンが突然震えた。画面に表示された発信者は――「親父」。
魁人は息を呑み、ノイズ・リンクの通信をバックグラウンドに回して、スマートフォンの通話ボタンをスライドした。耳に当てた受話口から、少し疲れた、しかし聞き慣れた温かい父親の声が響く。
「あ、魁人か? 今どこにいるんだ? 美咲が、お前が帰ってこないって騒いでてな。お腹が空いたから早く唐揚げを買ってこいってうるさいんだよ」
海藤晴人。世界のバグを全く感知できない、ごく普通のサラリーマンの父親。その声の背後からは、テレビのバラエティ番組の音と、妹の美咲がスマートフォンをいじりながら不満を漏らしている声が微かに聞こえてきた。
「……父さん。今、中野の近くの……電車の中にいるんだ」
魁人は、暴走する車両の激しい振動に声が震えないよう、必死に喉を抑えた。窓の外では、デジタルノイズの嵐が吹き荒れ、床の隙間からは底知れぬ虚無の闇が覗いている。しかし、父親の生きている世界は、あまりにも静かで、平和だった。
「そうか。ニュースを見たら、山手線が信号トラブルで少し遅れているらしいな。急がなくていいが、気をつけて帰ってこいよ。最近は物騒だからな」
「うん。……ちょっとトラブルがあって、遅くなるかもしれない。美咲には、先に何か食べておくように言って」
「わかった。無理はするなよ」
通話が切れる。魁人はスマートフォンを握り締めたまま、しばらく動けなかった。怒りと、恐怖と、そして深い寂寥感が胸を締め付ける。父親が信じている「信号トラブルによる数分の遅れ」と、自分が今立っている「時速三百キロの死の暴走」。その間にある圧倒的な断絶。これが、世界現実エンジンが一般市民の脳に施している「無自覚な回避」の正体だった。
(僕がここでコードを叩かなければ……あの温かいリビングも、父さんも美咲も、一瞬で消えてしまう)
魁人は唇を噛み締め、左腕のターミナルを強く睨みつけた。地味で、スマホばかりいじっていると陰口を叩かれるだけの高校生。だが、この虚構に満ちた世界で、彼らの「本物の日常」を守ることができるのは、世界のバグをデバッグできる自分だけなのだ。
『魁人、感傷に浸っている時間はないぞ』
ノイズ・リンクから蓮の鋭い声が戻ってきた。
『僕の方から、JR東日本の運行管理サーバーに直接介入して緊急ブレーキをかけようとした。でも、国家レベルのファイアウォール――いや、世界管理AI「アーキテクト」の直属防衛プログラムに弾かれた。接続ポートを強制遮断されて、僕の自作PCの水冷液が一瞬で蒸発したよ。物理的な干渉は外からは不可能だ。お前が列車内の物理的・論理的接点として、先頭車両へ進むしかない』
「わかっている。山手線の運行ダイヤ・マスターデータは送れるか?」
『今、お前のH-01のサブメモリに転送した。これで列車の物理配置と信号の仕様は把握できる。だが、注意しろ。H-01のログの最深部に、一ミリ秒だけ「Unknown Access: Root」の履歴が残っている。アーキテクトの超高速監視ログがお前のハックを検知した。お前はすでに、システムから「排除すべきバグ因子」としてマークされている可能性が高い』
「……上等だ。消去される前に、このバグを直してやる」
魁人はバット(コード・スライサーの依り代)を握り直し、前方の十号車へと続く貫通扉へ向かって歩き出した。陽菜がその背中を、祈るような目で見つめている。
その時、蓮が悲鳴のような声を上げた。
『待て、魁人! 解析画面に異常なパケットの流入を検知した! 5号車だ……! 5号車に避難している乗客たちのスマートフォンに向けて、悪意ある書き換えコードがマルチキャスト送信されている!』
「何だって……!?」
『バグ・フロントの末端クラッカー「Spike」のシグネチャだ! 奴ら、乗客のデバイスを強制ハックして、車内パニックを意図的に引き起こそうとしている! 5号車がバグの連鎖で崩壊するぞ、急げ!』
魁人のスマートフォンの画面が、突如として血のような赤色に染まり、ノイズ混じりの幾何学模様が蠢き始めた。車内の平穏が、再び急速に侵食されていく。魁人は前方の扉を乱暴に押し開け、加速する暴走列車の中を、新たな戦場へと走り出した。
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