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ゼロ・フリクション・スライド

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脳内を侵食する純白の二進数ログが、絶望に瀕した魁人の思考を、全く新しい次元の『論理』へと引き上げていく。


「あ、がっ……、はぁ、はぁ……!」


左半身を焼き焦がすような激痛は、肉体的な損傷によるものではなかった。視覚野の端で、自身の左腕から脇腹にかけてが青と緑のモザイク状に激しく明滅している。細胞の一つ一つが十六進数の文字列に分解され、空間に霧散しかけている感覚。ターミナルが冷酷な警告を網膜に投影し続ける。


『Warning: Character Data Corruption (12% corrupted)』

『System: Memory leakage detected. Rollback recommended.』


「データが……破損している? これが、世界のバグに触れた代償か……」


喉の奥からせり上がる血の味を強引に飲み込み、魁人は床に膝をついた。頭痛は限界を超え、こめかみを極太のボルトで貫かれたかのように脈打っている。だが、その苦痛の濁流を強引に押し流すように、脳内のデバッグポートから流れ込んできた『Zero_Genesis_Log.bin』が、彼の意識を強制的に覚醒させていた。


それは、冷徹なまでに洗練されたソースコードの群れだった。この世界が「プログラム」であるならば、物理法則とは絶対の真理ではなく、単なる初期設定(デフォルトパラメータ)に過ぎない。摩擦、慣性、質量――それらすべてが、書き換え可能な変数として脳内で数式化されていく。


「ギィィィィィィ!」


十一号車の連結部で、ベクトルイーターが咆哮した。魁人の打撃から運動エネルギーを吸収し、その巨体はさらに一回り肥大化している。纏う赤黒いノイズが周囲の大気を歪め、千切れかけた床の隙間から覗く暗黒の「虚無」が、その侵食範囲を広げていく。


怪物の三つの赤いセンサーアイが、完全に魁人をロックオンした。時速三百キロメートルの暴風と慣性をその身に宿し、第二波の突進へと移行する。


「魁人さん、逃げて! 赤い……! 奴の真ん中に、さっきよりずっと濃い、血みたいな赤が……来る!」


背後にへたり込んだ水瀬陽菜が、涙ながらに叫ぶ。彼女の色彩認識能力が、怪物の突進ベクトルを「致命的なエラーの予兆」として正確に捉えていた。その視覚情報が、魁人の脳内でリアルタイムの数値データへと変換される。


(来る。時速三百キロメートルの慣性を乗せた、コリジョン(衝突判定)をバイパスする突進。まともに喰らえば、僕の肉体データは今度こそ完全に消去(パージ)される)


動けない。左足はノイズ化の麻痺で感覚を失っている。普通に走って避けることは物理的に不可能だ。


(なら――物理のルールそのものを変える)


魁人は震える右手で、左腕のホログラフィック・ターミナル「H-01」のキーボードを叩いた。脳内に同期された『Zero_Genesis_Log.bin』の記述スタイルが、彼の指先を導く。手動での一行入力では間に合わない。複数の処理をパッケージ化し、一瞬でコンパイルする「マクロ(自動処理)」をその場で構築するのだ。


「スペルミスは許されない。一文字でも間違えれば、僕の脳がスタックオーバーフローを起こす……!」


車内の激しい振動と、左半身の激痛。魁人は精神を極限まで研ぎ澄まし、青いホログラムキーボードの上に指の残像を走らせた。


`import core.physics.friction;`

`import core.physics.vector;`


`Friction.Set(Self, 0);`

`Vector.Lock(Self, Velocity=50, Unit=KMH);`


足裏の摩擦係数を「ゼロ」に書き換え、自身の走る速度ベクトルを「固定」する。同期処理のトリガーコードを打ち込み、魁人は「Enter」キーを強く叩きつけた。


『System: Compiling "Zero_Friction_Slide.ms"...』

『System: Compile Successful. Executing Macro...』


その瞬間、魁人の足元から青い火花のような数式ログが激しく飛び散った。十一号車の床と、彼の靴底との間に存在していた「摩擦」という概念が、システム的に完全に消失する。


「――え?」


陽菜が目を見開いた。魁人の身体が、まるで絶対零度の氷上を滑るように、摩擦を完全に無視して滑り出したのだ。


ドォン!


直後、ベクトルイーターが魁人が先ほどまでいた場所へ突進し、十一号車の頑強な隔壁を粉砕した。凄まじい衝撃波が吹き荒れるが、摩擦を持たない魁人は、その余波の運動エネルギーに干渉されることなく、滑らかに横方向へと滑り抜けていた。


「動ける……! 風圧も、列車の揺れも、僕の運動を妨げない!」


これこそが、即興で構築した機動力ハック「慣性ゼロ・スライド」だった。滑走速度は時速五十キロメートルに固定され、床の上を滑るように高速移動する。しかし、問題が発生した。摩擦が「ゼロ」であるため、自分の意志で止まることも、方向転換することもできないのだ。このままでは、滑走の慣性で十号車の瓦礫の山へと激突してしまう。


(方向転換(ベクトルの偏角)が必要だ。だが、どうやって?)


迫り来る鉄骨の壁。魁人は瞬時に思考を巡らせた。摩擦がゼロでも、外部からの「物理的な力」による干渉は受ける。彼は滑走しながら、近くの座席から伸びていた金属製の手すりに右手を伸ばした。


ガシィ!


手すりを掴んだ瞬間、魁人は自身の「Vector.Lock」の軸を支点として、身体を鋭く旋回させた。遠心力を利用した、慣性を無視した直角ターン。手すりを放した瞬間、彼の滑走ベクトルは九十度変化し、ベクトルイーターの死角である側方へと滑り込んでいた。


「ギィ!?」


突進をスカされた怪物が、戸惑うようにノイズの身体をくねらせ、三つの赤い目をきょろきょろと動かす。その隙を、魁人は見逃さなかった。


「陽菜! 奴の弱点(コア)はどこだ!」


「あ、青い光! 奴の背中の、ノイズが一番激しく渦巻いてる場所の奥に、綺麗な青い四角が見える!」


陽菜の「エラー色彩認識」が、怪物の体表を流れる数百万行のエラーログの中から、システム的な論理的弱点――「バグコア」の位置を正確に捉えた。魁人の「エラー・アイ」がその座標をロックオンする。


(弱点は見えた。だが、物理攻撃が透過する相手を、どうやって叩く?)


その時、魁人の視線が、床に転がっていた一本のアルミニウム製の野球バットを捉えた。乗客のスポーツバッグが事故の衝撃で裂け、そこから転がり出たものだ。


「これなら、論理の依り代になる」


スライド移動を維持したまま、魁人は身を屈めてバットを拾い上げた。すかさず、H-01のキーボードに左指で新たなコードを流し込む。母親の遺した暗号ライブラリから、物体の分子結合を極限まで強化し、論理的な干渉力を付与する特殊コードを呼び出す。


`import core.weapon.slicer;`

`Slicer.Compile(Target=Aluminum_Bat, Frequency=High);`


キィィィン――と、耳を刺すような高周波の駆動音がバットから響いた。バットの表面が、青い二進数の光の格子(グリッド)でコーティングされ、超高速の微細振動を始める。物理的な質量を持ちながら、バグという「虚構」を直接切り裂くことができる論理の武器――高分子振動ブレード「コード・スライサー」の誕生だった。


『Warning: Slicer.exe consuming 10% Bandwidth.』


「これで……デバッグする!」


魁人は足元から青い火花を散らし、床を滑りながらベクトルイーターへと肉薄した。怪物が危険を察知し、ノイズの蛇を伸ばして迎撃しようとする。だが、スライド移動する魁人の速度ベクトルは時速五十キロメートルで固定されている。蛇の牙は、魁人の残像をかすめるだけに終わった。


滑走の慣性をすべて腕の振りに乗せ、魁人はコード・スライサーを振り抜いた。狙うは、陽菜が示した怪物の背中のバグコア。


「消えろ、エラーオブジェクト!」


ズバァッ!


手応えは、肉を切るそれとは全く異なっていた。まるで、厚いガラスの板を論理の刃で叩き割ったかのような、硬質で、そして決定的な破壊の感触。


「ギ、ギギギ、ア、ガ、ガガガガガガ――!」


ベクトルイーターの背中に埋め込まれていた青い立方体――バグコアに、コード・スライサーの刃が深く食い込んでいた。コアの表面に亀裂が走り、そこから純白の二進数コードが、高圧の蒸気のように激しく噴出する。怪物のノイズに満ちた巨体が、激しく明滅し、バグの整合性を保てなくなっていく。


『System: Bug Core destroyed. Executing Format Protocol...』


ドォン!


眩いばかりの青い光の爆発。ベクトルイーターは咆哮と共に、無数の青い二進数の霧へと分解され、十一号車の空気中へと霧散していった。怪物が完全に消去(デリート)されたのだ。


それと同時に、散らばった光の粒子が、魁人の左腕のH-01へと吸い込まれていく。画面に、リソース獲得のログが高速でスクロールした。


『System: Debug Patch acquired.』

『System: Source Code Fragment x3 acquired.』

『System: User Authority promoted to [Senior Debugger] (Temporary).』


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


コード・スライサーの光が消え、ただの金属バットに戻る。同時に「慣性ゼロ・スライド」のマクロが終了し、魁人の足裏に再び「摩擦」が戻ってきた。急激な慣性の復活により、魁人はつんのめりそうになりながらも、バットを杖代わりにしてどうにか踏みとどまった。


左半身を蝕んでいたデータ破損のノイズが、嘘のように引いていく。激痛は微弱な痺れへと変わり、皮膚のテクスチャが正常に再レンダリングされていくのを見て、魁人は深く安堵の息を吐いた。獲得した「デバッグ・パッチ」が、彼の肉体データを自動修復したのだ。


「やった……のか?」


「魁人さん……!」


陽菜が駆け寄り、魁人の左腕を恐る恐る覗き込んだ。その瞳には、恐怖を乗り越えた、強い憧れの光が宿っている。


「凄い……本当に、魔法みたいに消しちゃった……」


「魔法じゃない。ただのデバッグだ」


魁人はそう言って、自嘲気味に微笑んだ。だが、彼の手首のH-01は、依然として不安定なノイズを発している。モンスターをデバッグしたことで、一時的に権限レベルが「シニア・デバッガー」へと昇格したものの、それは同時に、世界を管理する防衛システムに「危険なバグ因子」として検知されるリスクを高めたことを意味していた。


その懸念は、最悪の形で現実となる。


ジ、ジジ、ジジジ――。


突如として、十一号車の天井に設置されたスピーカーが、激しいノイズを立てて起動した。凍りついた乗客(ゲストユーザー)たちは相変わらず微動だにしない。だが、車内放送のシステムだけが、何者かのハッキングによって強制的に上書きされている。


『あー、テステス。マイクテスト。山手線をご利用の乗客の皆さん、こんにちは』


スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの、酷く楽しげで、そして狂気を孕んだ若い男の声だった。


『突然のダイヤの乱れをお詫びいたします。現在、この列車は時速三百キロメートルで暴走中です。ブレーキは、僕が物理的にも論理的にも完全に破壊しておきました』


「新谷……瞬!」


魁人はスピーカーを睨みつけ、バットを握る手に力を込めた。この暴走を引き起こした、テロ組織「バグ・フロント」の幹部の声だ。


『さて、これから皆さんと、楽しい楽しいゲームを始めたいと思います。ルールは簡単。この列車が東京駅の手前にある大カーブに突入するまでに、僕を止められなければ――山手線は脱線し、乗客全員のデータごと、この世界から消去(フォーマット)されます。制限時間は、あと十五分。それでは、デバッグの旅をお楽しみください。アハハハハ!』


ブツリ、と車内放送が切れた。それと同時に、列車の速度がさらに一段階、異常な音を立てて上昇し始めた。

HẾT CHƯƠNG

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