10号車の蛇、慣性を喰らう者
時速三百キロメートル。現実の山手線ではあり得ない狂気の速度で暴走する車内は、あらゆる物理法則が歪み、悲鳴のような金属音を立てて軋んでいた。窓の外に広がるはずの東京の景色は、引きちぎられた古い映画のフィルムのようにブレ、緑色の二進数コードの奔流となって流れていく。ここは大気すらも電子のノイズに汚染された「バグ領域」だった。
「嘘……床が、消えていく……!」
海藤魁人の背後で、水瀬陽菜が悲鳴を上げた。十五歳の中学生である彼女の瞳は、世界のバグを「色」として視認する特異な力を宿している。その陽菜が指差す先――十一号車と十号車を繋ぐ連結部の床が、ぐにゃりと歪み、灰色のテクスチャが剥がれ落ちていた。剥離した鉄板の隙間から覗くのは、線路やバラストではない。レンダリングを放棄された、底知れぬ暗黒の「虚無」だった。そこには、世界の存在定義を記述する緑色の生コードが、川のように冷たく流れている。落ちれば最後、キャラクターデータごと完全に消去される即死のデッドゾーンだ。
だが、真の恐怖はその虚無の底から這い出てきた。
「ギィィィィィィィィ!」
鼓膜を不快に震わせるスピーカーのハウリングのような咆哮。連結部のねじれた空間から、ドロドロとした黒いデジタルノイズを纏った巨大な影が姿を現した。二進数の光の蛇が幾重にも絡み合ったようなグロテスクな姿。山手線内の物理エネルギーの乱れから発生した中規模バグモンスター――「ベクトルイーター」だ。
魁人は青く発光する「エラー・アイ」を起動し、その怪物を凝視した。視界の端に、ノイズ混じりのエラーログがスクロールする。
『Object_Type: Error_Object (Vector_Eater)』
『State: Active / Kinetic_Absorption_Mode』
『Warning: Eating train's velocity parameters.』
「こいつ……山手線の暴走エネルギーを喰ってやがるのか……!」
ベクトルイーターが呼吸するたびに、十号車の壁面から電子的スパークが散り、列車の運動エネルギーが怪物へと吸い込まれていく。エネルギーを吸収するたびに、怪物の体躯は膨れ上がり、纏うノイズの赤黒い輝きが増していく。このまま放置すれば、列車はさらに加速し、空間の崩壊も加速するだろう。一刻も早くデバッグしなければならない。
「陽菜、下がってろ!」
魁人は、先ほど「ベクトル操作」で慣性をゼロにして床に転がしておいたスチール製の手すり――中空の鉄パイプを拾い上げた。ジュニア・デバッガーとしての最初の武器だ。魁人は鉄パイプを両手で構え、突進してくるベクトルイーターに向けて渾身の力で振り下ろした。
(いける……!)
しかし、確信は一瞬にして裏切られた。
金属が肉を打つ手応えは、どこにもなかった。鉄パイプは、ノイズの蛇で構成された怪物の身体を、まるで水か霧を薙ぐように完全に透過したのだ。空を切った魁人の身体が、慣性で前方へとよろめく。キィィィンと、耳障りな静電気が走るような音が響くだけだった。
「物理判定が……ない!? 衝突判定(コリジョン)をバイパスしてやがるのか!」
「ギィ!」
ベクトルイーターは打撃を意に介さず、逆に鉄パイプが持っていた魁人のスイングの「運動量」をその身に吸収した。ノイズの蛇が一回り太くなり、赤黒い光が激しく明滅する。物理的な打撃は、こいつに対してはただの「エネルギーの配給」に過ぎないのだ。
怪物が、三つの赤いセンサーアイを魁人に向けた。その中心に、どす黒いエネルギーが収束していく。時速三百キロメートルの列車の慣性をそのまま乗せた、超高速の突進の構えだ。
「魁人さん! 赤……! 凄く痛そうな、血みたいな赤が奴の真ん中に集まってる!」
陽菜が必死に叫ぶ。彼女の色彩認識能力が、怪物の突進ベクトルを「致命的なバグの予兆」として捉えていた。
「くそっ、直接殴るのが駄目なら、システム的に動きを止めるしかない!」
魁人は左腕のホログラフィック・ターミナル「H-01」に右指を走らせた。空中に投影された青いキーボードが、列車の激しい振動でブレる。脳内には、最初のハックで蓄積した熱負荷のせいで、締め付けられるような頭痛が走り、鼻から一筋の血が垂れた。視界がかすみ、タイピングする指先が微かに震える。
(落ち着け。スペルミスは死を意味する。『シンタックス・チェック・ルール』を忘れるな)
魁人は激しく揺れる車内で、必死に論理を組み立てた。対象の運動パラメータを直接書き換え、速度ベクトルを強制的にゼロにする。コマンドラインに入力すべき文字列が、脳内で数式となって弾き出される。
`Vector.Set(Target=Error_Object_01, Velocity=0, Direction=Null)`
「止まれ……!」
魁人は叫び、最後のキーを叩いた。しかし、その瞬間、列車が大きく跳ねた。衝撃が魁人の指先を狂わせる。入力された文字は、コンマ一秒のズレでスペルミスを起こした。
`Vector.Set(Target=Error_Object_01, Velocity=o, Direction=Null)`
『Syntax Error: Invalid parameter 'o'. Compilation failed.』
H-01の画面が真っ赤な警告色に染まり、警告音が脳内を突き刺した。コンパイルエラー。書き換えは失敗した。ハックが不発に終わったその刹那、ベクトルイーターの巨体が、時速三百キロメートルの暴風を纏って魁人の胸元へと肉薄していた。
「――しまっ――」
ドォン!
衝撃波を伴う激突。物理的な激突音ではない。それは魁人の「存在定義」そのものを揺るがす、壊れたデータの衝突音だった。魁人の身体は十一号車の壁まで吹き飛ばされ、激しく背中を打ち付けた。
「あ、がっ……!」
呼吸が止まる。だが、真の激痛は肉体的なものではなかった。激突した瞬間、魁人の左腕から身体の左半分にかけて、激しいノイズエフェクトが走り始めたのだ。視覚野に映る自身の腕が、青と緑のモザイク状にバラバラに崩れ、十六進数の文字列に分解されかけている。
『Warning: Character Data Corruption (12% corrupted)』
『System: Memory leakage detected. Rollback recommended.』
「身体が……崩れていく……? これが、データ破損の痛み、なのか……!」
肉体が消滅の危機に瀕している。細胞がバラバラのデータチップになって千切れていくような、体験したことのない根源的な苦痛に、魁人は床にのたうち回った。ターミナルのホログラム画面もノイズで乱れ、今にも消えそうだ。ベクトルイーターは魁人の痛みに歓喜するように咆哮し、さらに巨大化しながら、第二波の突進のためにその身をねじらせた。
(動け……動いてくれ、僕の身体……! このままじゃ、僕も陽菜も消される……!)
視界が赤く染まり、意識が急速に遠のいていく。その絶望の淵で、魁人の左腕の「H-01」が、これまで見たこともない異様な輝きを放ち始めた。ノイズを吹き飛ばすような、純白の二進数の光。
ピ、ピピピ――
『System: Developer_Debug_Port_Synced (Override_Mode_Pending)』
『Unknown Source: Zero_Genesis_Log.bin received.』
魁人の脳裏に直接、冷徹で、それでいて完璧に整えられた美しいソースコードの文字列が、濁流のように流れ込んできた。それは、現実世界の物理法則を完全に書き換えるための、禁忌のチュートリアルログだった。
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