鉄火場の脱出劇
黒い戦闘用プロテクターに身を包んだ屈強な私兵部隊が、コード・スライサーを構え、俺と御子柴の退路を物理的に完全包囲していた。
「そこまでだ、違法アクセス者。貴様らのIPアドレスおよび物理座標は、すでに完全にロックされている」
アークシステムズ保安局の追跡班長、犬飼剛の声が、冷え切った路地裏に響き渡る。その手にある電磁警棒――『コード・スライサー』から放たれる青い放電が、濡れたコンクリートを不気味に照らしていた。一歩踏み出すごとに、バグを物理的にジャミングする高周波のスパークが走り、空気を焦がすオゾンの臭いが鼻腔を突く。
「ひ、ひぃっ……!」
俺のすぐ後ろで、御子柴賢が腰を抜かしたまま引きつった悲鳴を上げた。彼の魔改造ノートPCは、俺が叩き込んだバッファオーバーフローの負荷に耐えかねて完全に沈黙している。自称『神速のクラッカー』のプライドは、突如現れたアークシステムズの物理的な暴力の前に、一瞬で消し飛んでいた。
「……逃げ道は、ないか」
俺は『盲鍵(ブラインド・キーボード)』を抱えたまま、残された左目だけで周囲の状況を分析しようと試みた。右目は完全に白濁し、冷たい暗闇に沈んだままだ。さらに、先ほど代々木公園の境界線で強行した『コリジョン(衝突判定)一時消去』の副作用が、今になって牙を剥いていた。全身の神経を冷たい針で刺されるような激しいしびれが走り、膝がガクガクと震える。一歩を踏み出すことすら、今の俺には極めて困難だった。
「海藤魁人。お前のタイピングデータは、本社データベースのブラックリストと一致している」
犬飼が重い軍靴の音を立てて近づいてくる。プロテクターの奥から覗く眼光は冷酷そのものだ。「仕様書にないイレギュラーは、現場で即座にデリートする。それが我々の規約だ」
「おい、お前……! 何とかしろよ! さっきの神速ハックでこいつらもフリーズさせろ!」
御子柴が俺の衣服を掴んで、泣き叫ぶように揺さぶる。だが、俺は無言で首を振るしかなかった。ハッキング勝負で酷使したスマートフォンのバッテリーは、すでに残り十五パーセントを切っている。おまけに、指先の火傷がキートップに触れるたびに、焼けるような激痛を放っていた。
「無駄な足掻きだ」
犬飼が手を挙げると、左右から二人の重装兵がスタンシールドを構えて突入してきた。彼らの盾の表面には、接触した端末のメモリを強制クリアする破壊用コードが流れている。物理的な打撃と論理的な消去を同時に行う、アーク保安局の標準制圧戦術だ。
(やるしかない……!)
俺は震える指先を『盲鍵』に添えた。左目の視界に、砂嵐の交じった半透明の青いターミナルが展開する。極限のしびれに耐えながら、俺は反射的に防御用の簡易コードを打ち込んだ。
`Shield.create(front, 100)`
空中に、青い二進法の文字列が走る半透明の防壁『PatchWall』が実体化する。だが、突進してきた重装兵が、シールドをその防壁に叩きつけた。
バギィィィン!
「がっ……!」
物理的な衝突音と同時に、凄まじい逆流電圧がキーボードを伝って俺の両腕を直撃した。電磁盾のノイズが防壁のパッチ整合性を一瞬で狂わせ、青いスクリーンがガラスのように粉々に砕け散る。俺は後方のゴミ箱に背中から激しく叩きつけられ、口の中に鉄の味が広がった。
「おい、嘘だろ……!?」
御子柴が絶望に顔を歪め、フリーズした自分のノートPCを必死に起動しようとした。彼はキーを叩きむしり、追跡班のバイクの制御OSをハックしようと試みる。だが、アークの軍用通信ネットワークは強固なファイアウォールで保護されていた。御子柴の雑な割り込みパケットは即座に検知され、逆に彼のPCの基板に高電圧のフォーマットパケットが逆流した。
パチパチ、と嫌な放電音がして、御子柴の魔改造PCから黒い煙が立ち上る。
「あ、熱っ!? 俺のPCが、物理的に死んだ……!」
「だから言ったろ、お前のコードは雑だってな」
俺は這いつくばりながら、口元の血を袖で拭った。重装兵が再びスタンシールドを持ち上げ、俺の頭部に向けて振り下ろそうとしている。犬飼もまた、コード・スライサーの放電を最大に引き上げ、俺の指を物理的に破壊するべく歩を進めていた。
(物理的なシールドじゃ、こいつらの質量と放電は防げない。なら――世界を稼働させている物理演算エンジンそのものをバグらせる!)
俺は左目の奥に、アークの私兵部隊の足元を中心とした半径二メートルの座標空間をワイヤーフレームとして描画した。脳波同期パッチの出力を、脳が焼き切れる一歩手前まで引き上げる。脳内エラーレートが急上昇し、視界が急速にモノクロへ染まっていく。こめかみを極大の偏頭痛が貫き、鼻から熱い液体が滴り落ちてキートップを赤く染めた。
だが、俺の指先は、超伝導スイッチを実装する前の古いメカニカルキーボードを、毎分千二百打鍵(1200KPM)を超える神速の残像となって叩き伏せていた。
`Gravity.set(target_area, up, 1.0G)`
重力制御OSは、マザーフレームの物理演算サーバーで一括管理されている。俺はそのサーバーの局所演算領域に対して、一時的なオーバーライドコードを力任せにインジェクションした。
「な――」
犬飼が引き金を引こうとした瞬間、彼らの足元のアスファルトから、青いグリッド状の光が噴き出した。次の瞬間、路地裏の重力定数が、完全に『反転』した。
「うわあああ!?」
「な、何が起きて――っ!」
犬飼と重装兵たちの身体が、重力を失ったようにフワリと浮き上がり、そのまま頭上の空中――いや、路地裏の『天井』であるビルとビルの間の非常階段に向けて、猛スピードで『落下』していった。彼らは悲鳴を上げながら、非常階段の鉄骨や突き出たダクトに激しく激突し、身動きが取れなくなる。重力のベクトルが真逆に上書きされた空間の中で、彼らは天井に張り付いたまま、なす術もなく手足をバタつかせていた。
「は……? 重力が、上になってる……?」
御子柴が、自分の身体が数センチ浮き上がっていることに気づき、恐怖で目を丸くしている。俺は彼の手首を掴み、自分の身体を地面のゴミ箱に必死に繋ぎ止めていた。ターゲットエリアを二メートルに絞っていなければ、俺たちも天井へ真っ逆さまだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
脳が燃えるように熱い。激しい立ちくらみが視界をブラックアウトさせかけ、俺は辛うじて意識を保つために奥歯を噛み締めた。重力書き換えのコンパイル負荷は、ゲスト権限の俺の肉体を限界まで削り取っていた。
その時、路地裏の入り口を塞いでいたアークのバリケードが、凄まじい金属音と共に粉砕された。
ドガァァァン!
ヘッドライトの強烈な光が、モノクロの闇を真っ二つに切り裂く。爆音を上げて突入してきたのは、ワイヤーフレームを照射する特殊LEDを備えた、黒い大型のオフロードバイクだった。
「おいおい、ケンの旦那から『特異点のガキどもを拾ってこい』と頼まれて来てみりゃ、とんでもねえ鉄火場じゃねえか!」
ライダースジャケットを羽織った長身の男――運び屋の真壁誠が、バイクのエンジンを吹かしながら、天井に張り付いた犬飼たちを見上げて不敵に笑った。
「真壁、さん……!」
「おしゃべりは後だ! 重力バグが切れる前に、さっさと後ろに乗れ!」
真壁がバイクをスライドさせ、俺たちの目の前で急停止させる。俺はしびれる身体を無理やり動かし、呆然としている御子柴の襟首を掴んで、バイクのリアシートへと押し込んだ。俺もその背後に滑り込み、真壁の腰にしがみつく。
「重力、戻るぞ――っ!」
俺がエンターキーから指を離した瞬間、インジェクションした一時パッチが失効した。天井に張り付いていた犬飼たちが、凄まじい金属音と悲鳴を上げて、元の地面へと真っ逆さまに落下した。
「追え! あのバイクを絶対に逃がすな!」
犬飼が地面に叩きつけられながらも、無線機に向かって怒号を上げる。即座に、センター街の周囲の路地から、アーク保安局のバイク部隊がエンジン音を響かせて追撃に移るのが見えた。彼らはスマート弾丸を装填した銃を構え、俺たちに向けて一斉に銃撃を開始した。
ヒュン! ヒュン!
風を無視して、弾道の軌道を物理演算で補正されたスマート弾丸が、俺たちの背後から正確に収束してくる。
「チッ、必中のスマート弾か! 小賢しい企業の玩具がよぉ!」
真壁がハンドルの横に設置された赤い物理トグルスイッチを、力強く跳ね上げた。バイクのシート下から、ジィィィという高周波の放電音が響き渡る。真壁の愛車に直結された、旧軍用の『電磁干渉ジャマー』が起動したのだ。
バチバチバチッ!
バイクの周囲半径五十メートルに、目に見えるほどの強力な青い電磁ノイズの砂嵐が展開された。追撃してきたスマート弾丸の誘導ビーコンがノイズを吸い込み、座標追跡システムが物理的に麻痺する。必中のはずだった弾丸の軌道がぐにゃりと歪み、俺たちの左右のコンクリート壁に激突して虚しく火花を散らした。
「御子柴! お前のPCからアークのバイクのOSを逆ハックして足を止めろ!」
俺は叫んだ。だが、御子柴は壊れたノートPCを抱えて泣きそうな顔をしている。
「無理だ! さっきの逆流電圧で、マザーボードが完全に焼き切れて煙を吹いてる! もう一文字も打てねえよ!」
「チッ、使えねえな! だが、この真壁様のライディングから逃げ切れる奴はいねえ!」
真壁はアクセルをさらに開け、バイクを限界まで傾けながら、渋谷の複雑な裏路地を疾走した。アークの追跡バイク部隊が必死に追ってくるが、真壁はバグによってコリジョンが消失しかけた路面を、その野生的な直感だけで正確に避けて加速していく。
前方に、立ち入り禁止の黄色いテープで封鎖された、古い地下鉄の連絡通路の入り口が見えてきた。そこは一般の地図からは完全に抹殺された空間――『新宿・渋谷間・廃地下鉄連絡路』の入り口だった。
「新宿へ逃げるぞ! 舌を噛まねえように気をつけな!」
真壁がバイクを傾け、地下へと続く階段へ強行突入した。サスペンションが激しい悲鳴を上げ、俺たちの身体が宙に浮く。階段を駆け下りた先には、色彩も光も描画されていない、青い幾何学的なワイヤーフレームだけが高速で流れる、物理法則無視の異次元トンネルが広がっていた。
時速百五十キロ。バイクのエンジン音と、電磁干渉ジャマーのノイズが、ワイヤーフレームの壁に反響して鼓膜を激しく震わせる。地上の追跡部隊の気配は、急激に遠ざかっていった。
(逃げ切れたか……?)
俺がわずかに安堵し、スマートフォンの画面を確認しようとした、その瞬間だった。
チッ――。
ソナー・イヤホンの奥で、それまでの雑音とは明らかに異なる、極めて冷酷で鋭い『走査音』が鳴り響いた。
「――魁人、伏せろ!」
イヤホンの向こうで、詩乃の悲鳴のような警告が弾ける。
次の瞬間、ワイヤーフレームで構成されたトンネルの『壁の向こう側』――物理的に絶対に見通せるはずのない、コンクリートと土砂を挟んだ完全な死角から、一本の極細の赤いレーザーラインが透過してきた。
赤い光線は、時速百五十キロで爆走するバイクの振動を完全に無視し、吸い付くような精度で、俺の額のド真ん中をロックオンした。
(このシグネチャ、スマートスナイパーライフルの照準――猿渡蓮!)
壁を透過して俺の脳天を狙う、死神の赤いレーザーサイト。その光は、暗闇の中で冷酷に明滅し、逃れられない死の実行(デリート)を告げていた。
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