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ストリートの無法者

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代々木公園の境界線から抜け出してきた俺の身体は、最悪の悲鳴を上げていた。先の戦闘で強行した『コリジョン(衝突判定)一時消去』の反動――全身を蝕む激しい神経バグのしびれが、鉛のような重さとなって手足にまとわりついている。白濁し、光を完全に失った右目の奥からは、ズキズキと脈打つような偏頭痛が絶え間なく押し寄せていた。左目の視界にチラつく青い二進法のノイズを瞬きで払おうとするが、砂嵐は消えない。


「……耳でコードを打て、か」


ゲートウェイの奥から聞こえた、盲目のプログラマー・吾郎の掠れた声が、有線イヤホンの奥で未だに冷たい残響となって鼓膜を震わせていた。あの闇の奥で響いた、世界の重力が剥がれ落ちるようなシステム崩壊の地鳴り。あれは間違いなく、現実世界のシミュレーション基盤が限界を迎えている予兆だった。


一刻も早くカフェ『モノクローム』に戻り、壊れかけた『盲鍵(ブラインド・キーボード)』の補修と指先の治療をしなければならない。だが、俺が渋谷センター街の薄暗い路地裏を通り抜けようとしたその時、左目の共感覚が、ただならぬ『データの歪み』を検知した。


ビィ、ビィ、とイヤホンの奥で警告音が鳴る。周囲のネオンサインが不規則に明滅し、路地沿いに設置された電子決済端末や自動販売機が、一斉に処理エラーのビープ音を吐き出していた。空間のデータ波動が、濁った赤橙色のノイズとなって俺の網膜に突き刺さる。


「ハッ、神速のクラックってのは、こういうのを言うんだよ!」


路地の奥、一台のコンビニATMの前に、派手な金髪にいくつものピアスを光らせた少年が立っていた。都立桜丘高校のジャージを着崩した俺と同世代の少年――自称『神速のクラッカー』こと、御子柴賢だ。彼の足元には、ステッカーが乱雑に貼られ、冷却ファンが爆音を立てて回る魔改造ノートPCが置かれていた。


御子柴はガムを噛みながら、狂ったような速度でキーボードを叩いている。彼のノートPCの画面からは、ATMのローカルデータベースに向け、不正なキャッシュ・インジェクションのコードが濁流のように送り込まれていた。


彼が狙っているのは、アークシステムズが発行するデジタル暗号通貨『アーク・コイン』の不正な書き換えだった。ATMのセキュリティの隙を突き、自身の口座データを無理やり上書きしてコインを無限に増殖させようとしているのだ。


だが、御子柴の書いたコードはあまりにも雑で、構造がスカスカだった。


彼が不正パケットを叩き込むたびに、ATMのメモリ領域が激しくリークし、周囲の決済ネットワーク全体に深刻な過負荷(オーバーフロー)を撒き散らしている。このままでは、ATMのバグが周囲の一般市民の個人口座データまで巻き込んで、不可逆的に『デリート』してしまう。


(あの馬鹿、目先の金のために、無関係な奴らのデータまで壊してやがる……!)


「おい、やめろ。それ以上コードを打つな」


俺はパーカーのフードを目深に被り、影から踏み出した。右目の暗闇を隠しながら、左目で御子柴のノートPCの画面を睨みつける。


「あぁ? 誰だてめえ」

御子柴はキーボードから指を離さず、小馬鹿にしたような薄汚い笑みを浮かべた。「ストリートの王様に説教垂れる気か? 引っ込んでろよ、目つきの悪いお留守番クン」


「お前がやっていることは、クラッキングじゃない。ただのデータの破壊工作だ。周囲の端末のメモリが限界を迎えている。一般市民の口座が消えるぞ」


「知るかよそんなこと! アークのシステムがバグってんだ、奪えるだけ奪うのがストリートのルールだろ!」


御子柴はさらに打鍵速度を上げた。ATMの画面が青いエラー画面に切り替わり、電子的な悲鳴のようなノイズが路地に響く。


説得は無意味だった。俺はリュックから、鈍い銀色の筐体――祖父の形見である『盲鍵』を取り出した。キースイッチは先の戦闘による熱で今も微かに温かい。指先の火傷がズキリと痛んだが、俺はそれを無視して、中継スマートフォンに有線ケーブルを叩き込んだ。


「力ずくで止める」


「ハッ、やれるもんならやってみろよ!」


御子柴の指先が魔改造PCの上で踊り、ATMのデータベースへ『キャッシュ・インジェクション』の最終シーケンスが実行された。アーク・コインの書き換え処理が開始される。


俺は『盲鍵』のキートップに指を添えた。左目の視界に、半透明の青いコマンドプロンプトが立ち上がる。俺の共感覚は、御子柴の汚い赤橙色のパケットストリームを、歪んだ幾何学的な『トゲ』として描画していた。


(まずは、あの不正パケットのポートを塞ぐ――!)


俺はキーを叩いた。パチ、パチ、と静かな打鍵音が路地裏の湿った空気を打つ。ATMの通信ポートに割り込み、不正な書き換えリクエストを強制的に削除(デリート)しようと、コードを入力していく。


`Delete(port.ATM_request)`


「おっと、割り込みか? 甘えんだよ!」


御子柴が俺の介入を察知し、不敵な笑みを浮かべた。彼はすぐさまキーを叩き、俺のターミナルに向けて『競合スレッド上書き』を起動した。俺の通信経路に対し、入力遅延を引き起こすバグウイルスを含んだ、ノイズパケットの弾幕が押し寄せてくる。


プロンプトの文字入力が、急激にカクつき始めた。キーを叩いてから画面に反映されるまでに、コンマ数秒のラグが発生する。ハッカーの戦いにおいて、この遅延は致命的だ。


(だったら、相手の物理端末を直接ハックしてシャットダウンさせる!)


俺は左手で検索用の補助コマンドを打とうとした。だが、御子柴のノートPCの側面から、強烈な電磁ジャミングのノイズが放射されているのを左目の共感覚が捉えた。無線ポートの探索シグナルが、空気中で力任せに掻き消されていく。有線物理ポートへのアクセスも遮断され、直接のシャットダウンハックは失敗に終わった。


「ヒャハハ! 俺のPCは特製の電磁シールド持ちだ! 外からのポート探索なんて通りやしねえよ!」


御子柴の赤橙色のパケットが、ATMのコアデータベースの書き換え完了まで残り三十パーセントに達した。周囲の街灯が、限界を迎えたフィラメントのように激しく点滅し始める。


(ポートが塞がれていて、直接消去(デリート)も届かない。なら――書き換えの対象となる『メモリ領域』そのものの定義を書き換える!)


俺は深く息を吸い、脳波同期パッチの出力を上げた。脳内エラーレートが一時的に跳ね上がり、視界の端がモノクロに染まっていく。だが、俺は指先の予備動作を完全にゼロにするタイピングフォーム――一ノ瀬翼の無駄のない動きをトレースした、あの極限の打鍵姿勢を脳裏に描いた。


超伝導スイッチを実装する前の古いメカニカルキーボードが、俺の指の速度に悲鳴を上げる。だが、俺のタイピングは、御子柴の遅延バグを置き去りにする速度で、新たな論理式を紡ぎ出していった。


`Cache.redefine(ATM_buffer) = Free_RAM̀


御子柴が書き換えようとしているATMのキャッシュメモリ領域。俺はその領域のシステム定義を、一時的にマザーフレーム上の『未割り当てメモリ(フリーRAM)』へと強制的に変更した。


「な……!? 書き換え先のアドレスが見つからない……だと!?」


御子柴のノートPCの画面に、黄色いエラーコードが走り出した。彼がインジェクションした不正なアーク・コインの書き換えデータは、書き込むべき『標的のメモリ』を失い、システム上の宙ぶらりんなゴミデータ(孤立パケット)と化して霧散していく。


「クソがっ! 力技で書き込みポートをこじ開ける!」


御子柴が狂ったようにキーボードを強打し、無理やりなオーバーライドコードを打ち込もうとする。彼のコードは速いが、焦りからスペルミスや括弧の閉じ忘れといった『構文エラー』が至る所に散見していた。俺の共感覚には、彼のコードの構造が、今にも崩れそうな泥の城のように見えていた。


(そこが、お前の限界だ)


俺は『盲鍵』のエンターキーを静かに、だが確実に滑らせた。指先が摩擦熱で熱を帯び、スマートフォンのバッテリーが急激に十五パーセントも低下していく。だが、俺の構築した最適化デバッグコードが、御子柴の構文エラーの隙間に直接インジェクションされた。


`System.overflow(target.buffer)`

`Freeze(Mikoshiba_console)`


御子柴の魔改造ノートPCの画面が、一瞬にして青い文字で埋め尽くされた。爆音を立てていた冷却ファンがキィィィと不快な金属音を立てて急停止し、画面の中央に巨大な『SYSTEM FREEZE - BUFFER OVERFLOW』の文字が固定される。


「あ、ありえねえ……! 俺の『神速』のコンパイルが、上書きされた……!?」


御子柴はガタガタと震える手で、フリーズしたノートPCのキーを叩きむしった。だが、画面は一ミリも動かない。ATMのバグ明滅は収まり、静かな一般待機画面へと復旧していった。周囲の決済端末のノイズも、潮が引くように消えていく。


ハッキング勝負は、俺の完全な勝利だった。


「お前……何者だ……?」


御子柴が、怯えと驚愕の混ざった目で、フードの奥の俺の白濁した右目を見つめてくる。俺は何も答えず、盲鍵をリュックにしまおうとした。


だが、その瞬間。


渋谷センター街を照らしていた色とりどりのネオンサインが、一斉に、完全に消灯した。周囲の雑居ビルの窓の明かりすらも消え去り、路地裏は一瞬にして、息の詰まるような完全な闇へと沈み込んだ。


ザッ、ザッ、ザッ、と、濡れたアスファルトを力強く踏みしめる、軍靴の足音が周囲の暗闇から響いてくる。


(この足音のパターン、骨格の重さ――追跡班だ!)


「おい、なんだこれ……? 停電か?」


御子柴が慌てて立ち上がろうとしたが、路地の入り口と出口の闇の中から、不気味に光る青いスパークが姿を現した。それは、バグを物理的に破壊・ジャミングする、高出力の電磁警棒――『コード・スライサー』が放つ、冷たい放電の光だった。


「そこまでだ、違法アクセス者。貴様らのIPアドレスおよび物理座標は、すでに完全にロックされている」


闇を切り裂くように、冷酷な男の声が響き渡った。アークシステムズ保安局の追跡班長、犬飼剛。黒い戦闘用プロテクターに身を包んだ屈強な私兵部隊が、コード・スライサーを構え、俺と御子柴の退路を物理的に完全包囲していた。

HẾT CHƯƠNG

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