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代々木の境界線

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陽菜の涙を振り切るようにして、俺は深夜の木造アパートを静かに抜け出した。夜風は冷たく、雨上がりのアスファルトが湿った匂いを放っている。


 右目は完全に白く濁り、もはや街灯の光すら通さない。俺の網膜に残された唯一の窓である左目の視界にも、絶え間なく青い二進法のノイズが砂嵐のようにチラついていた。歩くたびに平衡感覚が狂い、視界が歪む。脳内バグ侵食耐性(Error Tolerance Cap)のエラーレートは「七十八パーセント」のまま固定され、脳髄を直接針で刺されるような鈍い偏頭痛が、絶え間なく脈打っていた。


 俺はブレザーの破れた左袖を隠すように、黒いタクティカルパーカーを深く羽織り、有線イヤホンを耳に押し込んだ。スマートフォンから流れる「共感覚誘導シグナル」が、かすかな高周波のビープ音となって、俺の聴覚を刺激する。このシグナルだけが、失われかけた俺の空間認知を辛うじて繋ぎ止めていた。


(佐藤晴人……あの蛇は、すでに俺の正体に気づいている)


 アパートの周辺には、アークシステムズの監視カメラが執拗にレンズを巡らせていた。俺が普通に歩くだけで、パノプティコンの骨格スキャンが俺の歩行パターンを検出し、本社データベースへと同期してしまう。俺はカメラの死角となる影を縫うようにして、渋谷の喧騒から外れたエリアへと足を早めた。


 目指すは、代々木公園・北門付近。


 ネットの謎の指導者「プロフェッサーX」から送られてきた暗号座標が示す、現実世界とバグ世界の「境界線(ポータル)」だ。一般の人間には立ち入り禁止の黄色いフェンスで覆われた、ただの薄暗い木々が茂る公園にしか見えない場所。だが、俺の共感覚が捉える左目の視界には、そのフェンスの奥が、空間そのものが激しく引き裂かれた「グリッチの壁」として映り込んでいた。


 フェンスを乗り越え、境界線のノイズの壁に身体を滑り込ませる。


「う、ぐっ……!」


 瞬間、全身の皮膚に青い二進法の電子タトゥーが浮かび上がり、激しい静電気が神経を焼き切るような痛みが走った。境界線の強烈なノイズが、俺の肉体データを侵食していく。右目の暗闇がさらに深く、冷たく沈み込んでいくのを感じた。


 そして、色彩と光が、世界から完全に剥ぎ取られた。


 そこは「ヌル・セクター・ゲートウェイ」。光の描画処理(レンダリング)がバグによって完全に消失した、ワイヤーフレームだけの三次元グリッド空間だった。空も地面も存在しない。あるのは、無限の闇の中に浮かび上がる、冷たい青色の幾何学的な構造線だけだ。衝突判定(コリジョン)と音波だけが、この世界の唯一のルールだった。


 平衡感覚を失い、冷たいグリッドの床に手をついたその時、暗闇の奥から電子ノイズを孕んだ不気味な唸り声が響いた。


「ガルルル……」


 ソナー・イヤフォンを通じて、その周波数が俺の脳に直接突き刺さる。左目の視界に、青いワイヤーフレームだけで構成された、狼のような異形のバグ犬「バイト」が姿を現した。テクスチャも肉体もない。ただ、鋭いグリッドの牙と、赤く明滅するエラーコードの瞳だけが、暗闇の中で狂暴に光っている。


 バイトは地面を蹴り、質量を持った「衝突判定」の塊として、俺の胸元に向けて音もなく飛びかかってきた。


(速い……! 防壁(PatchWall)では間に合わない!)


 俺はリュックから、融解寸前の「盲鍵(ブラインド・キーボード)」を引っ張り出し、血の滲む指先をキートップに滑らせた。まずは敵を完全に消去するべく、使い慣れたデリートコマンドを入力する。


`Delete(target)`


 しかし、エンターキーを叩いた瞬間、空中に展開された半透明のプロンプトが真っ赤なエラーを吐き出した。


『Compile Error: Access Denied. Target core directly linked to Motherframe.』


「な、んだと……!? デリートが拒否された!?」


 バイトのデータコアは、世界の基底システムであるマザーフレームに直接リンクしていた。ゲスト開発者(Tier-1)の俺の権限では、その存在定義を消去することができないのだ。コンパイルエラーのすさまじいフィードバックがキーボードを直撃し、内部基板がパチパチと不快な火花を散らして熱暴走を起こしかける。指先の火傷に、再び激痛が走った。


 バイトの牙が、俺の喉元まであと数センチに迫る。死のコリジョンが、俺の命をデータごと噛み砕こうとしていた。


(落ち着け……。物理法則がバグっているなら、そのバグの『仕様』を利用するだけだ!)


 俺は脳波同期パッチを極限まで引き上げ、超高速でキーを叩き滑らせた。狙うのは、物理エンジンにおける「衝突」の定義そのものの書き換え。コーディングスタイル「コリジョン(衝突判定)一時消去」を実行する。


`self.collision = falsè


 キィ、とメカニカルスイッチが冷たい金属音を奏でた瞬間、俺の全身が青い半透明のグリッチ状態へと変化した。俺というオブジェクトの衝突判定が、システム側から一時的に「無効(false)」へと上書きされたのだ。


 フッ、と信じられない光景が起きた。


 バイトの鋭いグリッドの牙と、数10キロの運動エネルギーを持った巨体が、俺の胸を音もなく「すり抜けて」いったのだ。肉体が電子の砂のようにブレて明滅し、バイトの身体が俺の肋骨を透過して背後へと通り過ぎていく。物質としての衝突が発生しないため、俺は無傷だった。


「あ、が……っ!」


 だが、その代償は凄まじかった。自身のコリジョンを無理やり消去した副作用として、全身の神経が完全に麻痺したような激しいしびれが走り、立っていられずに膝をついた。左目のノイズが激しさを増し、右目の暗闇がさらに深く侵食されていく。肉体データが、システムエラーの底へと引きずり込まれかけていた。


 バイトが着地し、再びこちらを振り返る。俺はしびれる身体を執念で動かし、バイトが次の跳躍に移る前の一瞬の隙を突いた。今度は攻撃ではない。俺は「盲鍵」を両手で抱え込み、バイトの首元に向けて、直接バグ修正コードのインジェクションを試みた。


`System.patch(target.OS)`

`Access.control(target) = self.UID̀


 超高速の打鍵音が、 unrendered な暗闇に響き渡る。バイトの制御OSの隙間に、俺の修正パッチが直接流し込まれていく。バイトの身体を構成する青いワイヤーフレームが、激しいグリッチの明滅を繰り返した。


 やがて――バイトの赤いエラーコードの瞳が、静かな青い光へと変化した。唸り声は消え、バイトは俺の足元で、静かに座り込んだ。制御コードの上書き(ハック)が成功し、バイトは俺の使役下にある「召喚データ」となったのだ。


 しびれる手でバイトの青いワイヤーフレームの頭に触れた、その時だった。


 ソナー・イヤフォンの奥から、耳障りな電子ノイズを切り裂いて、低く掠れた老人の声が直接脳内に響き渡った。


『……よく来たな、光を捨てたデバッガーよ。目に見える現実に騙されるな。耳でコードを打て……』


「だれ、だ……?」


 それは、ヌル・セクターの深淵に隠居しているという盲目のプログラマー、吾郎の声だった。だが、その声を解析する間もなく、ゲートウェイのさらに奥深くから、この世のものとは思えない不気味な音が響き渡った。

HẾT CHƯƠNG

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