家庭に潜む蛇
雨上がりの渋谷の夜気は、濡れたコンクリートの匂いと排気ガスの混ざり合った、ひどく冷たいものだった。
俺は這うようにして、築三十年の古びた木造アパートの錆びついた階段を上っていた。一段上るたびに、全身の関節が軋み、脳髄を直接針で刺されるような激痛が走る。
黒瀬隼人との死闘――脳を強制的にオーバークロックさせる「打鍵加速(FastTypeAccel)」を使用した代償は、あまりにも重かった。脳内バグ侵食耐性(Error Tolerance Cap)のインジケーターは、限界領域を示す「七十八パーセント」まで急上昇し、俺の肉体を内側から蝕んでいた。
最も深刻なのは、右目だった。
視界の右半分は、完全に光を失った白濁の闇に沈んでいる。左目だけでどうにか周囲の輪郭を捉えているが、その唯一の視界にも、絶えず青い二進法のノイズが砂嵐のようにチラついていた。歩行の平衡感覚すら定まらず、手すりに縋りつかなければ一歩も進めない。
さらに、制服のブレザーの左袖は、黒瀬の「デリート・サイズ」によって円形に消去され、肩から先が不自然に剥き出しになっていた。右手の指先は、超伝導化されていないキーボードの摩擦熱によって皮膚が融解し、包帯の隙間からじくじくと赤い血が滲み出している。
(この姿を……陽菜に見せるわけにはいかない)
俺はアパートの二階、我が家の扉の前で立ち止まり、深く息を吐いた。血に染まった「盲鍵(ブラインド・キーボード)」をリュックの奥深くに押し込み、破れた左袖を隠すようにブレザーの肩を斜めにずらす。包帯だらけの右手は、深くポケットにねじ込んだ。
呼吸を整え、極力普段通りの声を絞り出す。
「ただいま……」
古びたドアノブを回し、内側へ足を踏み入れた。だが、迎えたのはいつもの静かな我が家の空気ではなかった。狭い玄関の向こう、居間から漏れ聞こえてきたのは、聞き覚えのある、しかし今この瞬間に最も聞きたくない男の声だった。
「おやおや、海藤くん。おかえりなさい。ずいぶんと遅い帰宅だね。担任として少し心配していたんだよ」
心臓がどくりと跳ね上がった。左目の隅のグリッドノイズが、一瞬で真っ赤な警告色に染まる。
ちゃぶ台の前に座っていたのは、俺の担任教師であり、アークシステムズから派遣された潜入監視員――佐藤晴人だった。
佐藤は学校で見せるのと同じ、いかにも生徒想いの穏やかな笑みを浮かべ、陽菜が淹れた緑茶を啜っていた。その隣では、妹の陽菜が少し緊張した面持ちで、膝の上で手を握り合わせている。ちゃぶ台の上には、佐藤が持参したらしい手作りの和菓子が上品に並べられていた。
「お兄ちゃん!」
陽菜が弾かれたように立ち上がり、俺の元へ駆け寄ってきた。彼女の瞳には、夜遅くに帰宅した兄への安堵と、それ以上の戸惑いが浮かんでいる。
「あのね、佐藤先生が……お兄ちゃんが最近、学校を休みがちだからって、心配して様子を見に来てくれたの」
「ああ、そうか。……悪かったな、陽菜。心配をかけて」
俺は左腕の欠損を陽菜の視界から隠すように身体を斜めに傾け、不自然にならないよう壁に背を預けた。ポケットの中の右手は、指先が脈打つたびに激痛を放っている。
佐藤は立ち上がることなく、眼鏡の奥の細められた瞳で、俺の全身を舐めるように観察し始めた。その視線は、俺の白濁して焦点の合わない右目、そして不自然にポケットに隠された右手に、ぴたりと固定されている。
魁人の共感覚が、佐藤の発する声を視覚化する。彼の言葉は、俺の脳内で「鋭く尖った、粘り気のある黄色のノイズ波形」として描画されていた。それは、獲物をじわじわと追い詰める毒蛇の波形だ。
「海藤くん、その目はどうしたんだい? ずいぶんと赤いし、焦点が合っていないようだが……。それに、ずいぶんと息が荒い。まるで、どこかで激しい『作業』でもしてきたかのようだ」
「……なんでもありません。ちょっと、部活の居残りで疲れが出ただけです」
俺は冷たく言い放った。だが、佐藤は動じない。それどころか、彼の視線はちゃぶ台の上に置かれた「陽菜のスマートフォン」へと向けられた。
佐藤の右手の人差し指には、鈍い銀色の指輪がはめられていた。一見するとただの装飾品だが、俺の左目は、その指輪の表面から微弱な電磁パルスが放射されているのを捉えていた。アークシステムズの近距離データ転送デバイス――物理的に端末に触れることで、直接スパイウェアを注入(インジェクション)する暗殺ツールだ。
(奴の狙いは……陽菜のスマホか!)
佐藤は穏やかな口調を崩さずに、陽菜のスマートフォンへと手を伸ばした。「そういえば、陽菜さん。先ほど話していた学校の連絡用アプリの設定だが、私の端末から直接データを同期してあげよう。少し、そのスマートフォンを貸してもらえるかい?」
「あ、はい。お願いします……」
陽菜が素直に頷き、スマホのロックを解除しようとする。佐藤の指輪が、スマートフォンの筐体に触れようとしたその瞬間、俺の脳内で最悪のシナリオが火花を散らした。陽菜の端末がアークの監視下に置かれれば、彼女の安全は完全に消失する。俺が現実世界に踏み止まるための唯一の錨が、奴らの人質になるのだ。
(止めろ……!)
だが、陽菜の目の前で佐藤の腕を物理的に叩き落とすわけにはいかない。そんな暴挙に出れば、俺が「ソースコード操作者」であることを陽菜に知られ、佐藤には俺を「危険因子」としてその場でデリートする決定的な口実を与えることになる。
使えるのは、電子の力だけだ。俺はポケットの中で、ボロボロの左手をスマートフォンの画面に押し当てた。メカニカルキーボードはない。超伝導スイッチもない。あるのは、指先の火傷の激痛と、画面の冷たいガラスの感触だけだ。
俺はポケットの中で、親指の触覚だけを頼りに、仮想キーボードを狂ったような速度で叩き始めた。脳波同期パッチをスマートフォンに強制接続する。右目の奥が、引き裂かれるような熱を帯びた。
(ハル……起動しろ! 陽菜のポートを塞げ!)
陽菜のスマートフォンに内密に常駐させていた、自作の保護AI「ハル」が目覚める。俺のスマートフォンの画面――左目の視界の隅に展開された仮想プロンプトで、緑色のデフォルメされたウサギのアイコンが、突如として真っ赤に点滅した。
『警告:未確認の近距離物理アクセス(MACアドレス:AR-909X)を検知。スパイウェア・ペイロードの受信を開始しました。防御障壁を構築しますか?』
(構築しろ! Sandboxを最優先で展開!)
俺はポケットの中で、血の滲む指先を動かし、コードを即興でコンパイルする。
`Sandbox.create(target_phone)`
`Port.restrict(NFC_input, rate_limit=0)`
`Network.spoof(NFC_input, status="Success_200")`
佐藤の指輪から放たれた悪意あるスパイウェアのパケットが、陽菜のスマホの受信バッファに侵入したそのミリ秒単位の瞬間、ハルの防衛プログラムがそれを完全にインターセプト(遮断)した。スパイウェアの本体は、システム領域ではなく、俺が構築した「隔離された仮想ディレクトリ(サンドボックス)」の中へと強制的に閉じ込められる。
さらに、俺は佐藤のデバイスに対し、「インジェクション成功」を示すダミーの応答信号を返送(スプーフィング)した。佐藤のシステム側には、完璧にスパイウェアの植え付けが完了したという偽のデータが同期されるはずだ。
「うぐっ……!」
コンパイルの完了と同時に、脳神経が沸騰するような激痛が走った。耳の奥で、金属を削るような高音のキーンという耳鳴りが鳴り響く。右目の暗闇がさらに深く広がり、左目の視界も一瞬だけモノクロに反転した。俺は壁を背にしたまま、どうにか膝の震えを抑え、表情を氷のように硬直させて耐えた。
佐藤が、自身の人差し指の指輪をチラリと見た。彼のスマートデバイスには、予定通り「転送成功」のログが表示されたのだろう。佐藤の口元に、冷酷な勝利の笑みが浮かんだ。
「うん、設定は完了したよ。これで学校からの緊急連絡も、確実に受け取れるはずだ」
佐藤は陽菜にスマートフォンを返し、ゆっくりと立ち上がった。そして、俺の方を向き、その穏やかな仮面の下から、データプロファイラーとしての冷徹な眼光を覗かせた。
「さて、夜も遅い。担任が長居するのも野暮だからね。私はこれで失礼するよ。陽菜さん、お茶をごちそうさまでした。とても温まったよ」
「あ、はい! ありがとうございました、佐藤先生」
陽菜が丁寧にお辞儀をする。佐藤はゆっくりと玄関へ歩みを進め、俺のすぐ横を通り過ぎる瞬間、陽菜に聞こえないほどの極小の声で、冷たく囁いた。
「良い『番犬』を飼っているね、海藤くん。……だが、蛇の毒はすでに回っている。君が特異点(バグ)であるという物証は、間もなくアークのメインフレームに同期される。精々、残り少ない日常を楽しむといい」
佐藤は不気味な笑みを残し、アパートの扉を開けて去っていった。パタン、とドアが閉まる音が、静まり返った廊下に寂しく響く。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、俺は床に膝を突き、激しく咳き込んだ。口の奥から、鉄の味が広がる。
「お兄ちゃん!」
陽菜が悲鳴のような声を上げ、俺の元へ駆け寄ってきた。彼女の小さな手が、俺のボロボロになったブレザーの肩、そしてポケットから滑り落ちた、血の滲む右手を必死に支える。
「その服……その手、どうしたの!? 佐藤先生が言ってたこと、本当なの? お兄ちゃん、最近夜に何をしているの?」
陽菜の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、俺の包帯に染み込んでいく。彼女の手は、小刻みに震えていた。
「お願いだから、本当のことを教えて……。お兄ちゃんまで、お父さんみたいに、突然どこかへ消えちゃわないよね……?」
妹の涙ぐむ声が、右目の暗闇の中で、俺の心臓をきつく締め上げた。日常を守るための戦いは、もう一歩も退けないところまで、俺を追い詰めていた。
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