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冷徹なデバッガー

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「マスター・ケンの地下シェルター、モノクロームから這い出た俺の前に広がっていたのは、冷たい雨に濡れる渋谷の裏路地だった。」


 左袖が円形に消失したブレザーのポケットに左手を突っ込み、俺は右手の包帯をきつく締め直した。リーパーの大鎌によって削り取られた衣服の「空白」が、冷気にさらされてピリピリと痛む。右目の奥では、未だに不規則なグリッドノイズが明滅し、激しい偏頭痛が脳を揺さぶっていた。脳内バグ侵食耐性(Error Tolerance Cap)のインジケーターは、すでに危険領域の一歩手前を示している。


 だが、立ち止まっている時間はなかった。ケンの古い端末に浮かび上がった父・海藤昭二のログ。そこから弾き出された座標は、渋谷の廃棄された高架下、現実世界のレンダリングが崩壊しかけている「バグ発生グランドゼロ」を指し示していた。


 高架下に辿り着いた時、世界はすでに色を失い始めていた。コンクリートの柱が灰色のワイヤーフレームへと分解され、雨粒が地面に衝突する判定を失って、アスファルトを透過して地下へと消えていく。その中心で、歪んだデータコードの塊が、不気味なグリッチ音を立てて自己増殖を繰り返していた。バグモンスターの残骸コードから生成される、新たな「ソースコード・パッチ」の波動だ。


「これを回収すれば、アークの陰謀を暴く手がかりになる……」


 俺がリュックから祖父の形見である「盲鍵(ブラインド・キーボード)」を取り出し、中継スマートフォンに接続しようとしたその時、暗闇から冷徹な打鍵音が響いた。


 カタカタカタカタ――。


 それは、機械のように正確で、一切の感情を排した冷酷なキーストロークだった。青白いLEDの光が、雨霧の中に浮かび上がる。


「仕様書第百四条に基づき、例外オブジェクトのパージを実行する。……不浄なデータは、存在を許されない」


 闇の中から現れたのは、銀髪を冷たく濡らした同世代の少年だった。アークシステムズの特注デザイナーズスーツを完璧に着こなし、その手元には、超薄型液晶キーボードが一体となった最新鋭のデバイス「アーク・デバッガーズ・デバイス」が輝いている。


 黒瀬隼人。アークシステムズが英才教育を施した、特別監査室の最年少エリートデバッガーだった。


 黒瀬が液晶キーボードの上で指先を滑らせると、彼の背後に展開された赤いターミナルから、巨大なデータカッターが照射された。それはリーパーの「デリート・サイズ」に酷似した、物理法則を切り裂く削除コードの奔流だった。高架下のバグデータが、黒瀬の洗練されたコンパイル速度によって、一瞬にして「無」へとフォーマットされていく。


「待て! そのデータを消させるわけにはいかない!」


 俺は「盲鍵」を構え、即座にキーを叩いた。バグデータの核を回収するため、干渉用のコードを構築する。


`Access.target(Glitch_Core).pull()`


 だが、エンターキーを押す寸前、黒瀬の冷たい視線が俺を射抜いた。


「割り込み(インターセプト)を確認。仕様書にない未登録のアカウントだ。……競合スレッドの上書きを実行する」


 黒瀬の指先が、液晶の上で目にも留まらぬ速度で踊った。彼の打鍵速度は瞬時に毎分千打鍵(1000KPM)に達する。俺のターミナルに、突如として赤文字の警告が濁流のように流れ込んできた。大量の不要パケットを送り付け、こちらの処理能力をパンクさせるメモリ圧迫(DDoS)攻撃だ。


「しまっ――!」


 俺のスマートフォンが急激に発熱し、コンパイルが強制中断される。キーボードを通じて、ビリビリとした不快な静電気が指先に走り、関節が激しく痙攣した。黒瀬の攻撃は、こちらの「構文エラー」を意図的に誘発させるための、極めて合理的で冷酷な戦術だった。


「君のコードは美しいが、仕様書にないバグだ」


 黒瀬は表情一つ変えず、淡々と打鍵を続ける。彼の液晶キーボードから放たれる赤いデータ光が、俺の周囲の地面をワイヤーフレーム化し、退路を塞いでいく。俺は防壁を展開しようと、必死に指を動かした。


`Shield.create(front, 50)`


 しかし、黒瀬のコンパイル速度が速すぎる。俺の「防壁(PatchWall)」が実体化する前に、黒瀬の上書きコードがその構造定義を消去し、青い光のシールドは霧散した。手元に伝わるのは、キーボードがハングアップしかけているという、絶望的な熱量だけだった。


(このままじゃ、データごと俺自身がデリートされる……!)


 脳神経が、これ以上の負荷は死を意味すると警告していた。偏頭痛は限界に達し、右目の視界はノイズで完全に塞がれかけている。だが、ここで引けば、父の真実も、陽菜の日常も、すべてがアークの「仕様書」という冷酷な秩序の中に消え去ってしまう。


「仕様書が何だ……! 俺は、バグだらけでも、人間が生きているこの現実を守る!」


 俺は「盲鍵」の側面にある、物理的なオーバークロックトグルを親指で跳ね上げた。脳波同期パッチを極限まで解放し、禁断の特殊スキル「FastTypeAccel(打鍵加速)」を起動する。


 ゴオオッ、と脳内で電子的などよめきが響いた。


 世界が、一瞬にして極限のスローモーションへと移行する。降り注ぐ雨粒が空中で静止し、黒瀬の液晶キーボードから放たれる赤いスレッドの光波が、カタツムリのような速度で迫ってくるのが見えた。


 脳の処理速度が十倍に引き上げられた、コンマ数秒の絶対領域。


 打鍵速度障壁(1200KPM Wall)を物理的に突破する。俺の指先が青いワイヤーフレームの残像と化し、超伝導化されていないキーボードのキートップを、狂ったような速度で叩き始めた。


 タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ!


 高架下に響き渡る打鍵音は、もはや個別の打撃音ではなく、一本の張り詰めた高周波の電子音(ビープ音)へと変化していた。毎分千五百打鍵(1500KPM)を超える、人間を越越したキーストロークの暴力。


`System.override(target.Kurose_Device)`

`Inject.error_loop(target.RAM, infinity)`


 黒瀬が構築した完璧な論理式の隙間、例外処理が定義されていないわずか一ミリ秒の脆弱性に、俺は無限ループのバグコードを直接インジェクション(注入)した。


「なっ――!?」


 スローモーションの世界が解けた瞬間、黒瀬の「アーク・デバッガーズ・デバイス」の画面が激しくブレ、真っ赤なエラーログが滝のように溢れ出した。液晶キーボードがパチパチと青いスパークを散らし、システムが完全にハングアップする。完璧な仕様書を遵守するエリートは、予測不可能な「超高速のエラーコード連打」という論理の規格外の暴力に対し、システムを一瞬にして硬直させられたのだ。


「例外処理の……未定義エラー……君は、自らの脳を焼き切る気か……!」


 黒瀬は火花を散らすデバイスを抱え、驚愕に目を見開いたまま、後退した。彼の洗練された絶対防御は崩れ去り、ハングアップした端末の再起動(リブート)を余儀なくされている。彼はこれ以上の戦闘は合理的ではないと判断したのか、俺を冷酷に睨みつけ、闇の中へと撤退していった。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 俺はその場に膝を突いた。キーボードからは物理的な摩擦熱で白い煙が立ち上り、俺の指先の皮は剥がれ、血が滲んでいた。だが、それ以上の激痛が俺を襲った。


「ぐああっ!」


 脳が、沸騰したように熱い。メモリ限界突破ゲート(Buffer Overflow Threshold)を超えて並行処理を行った代償が、容赦なく肉体を破壊し始めていた。鼻から滴り落ちた鮮血が、キーボードを赤く染める。


 そして、視界が急速に光を失っていった。右目の奥のグリッドノイズが激しい閃光となり、次の瞬間、右目の視界が完全に白濁し、何も見えなくなった。一時的な全盲状態。世界の半分が、冷たい虚無に沈んでいく。


 暗闇の中で息を切らし、倒れ込みそうになる俺の耳に、スマートフォンのスピーカーから詩乃の悲鳴のような通信が響いた。


『魁人! 聞こえる!? 今すぐアパートに戻って! アトリエのセンサーが検知したわ……佐藤先生が、あなたの自宅の前にいる! 陽菜が危ない!』


 その言葉が、失いかけた俺の意識を強引に現実へと引き戻した。右目の暗闇の中で、冷たい焦燥の蛇が、俺の心臓をきつく締め上げ始めた。

HẾT CHƯƠNG

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