地下のセーフハウス
「――消去(デリート)プロセス、実行」
コード・リーパーの掠れた声が、冷たい風のように路地裏に響いた。首筋に突きつけられた大鎌「デリート・サイズ」の刃から、青い極微細なグリッチノイズが立ち上る。触れた部分の存在定義を無に帰す、不可逆の削除波動。魁人の首の皮膚が、分解寸前の微細な振動でジリジリと粟立った。
(動け……動け、俺の指!)
魁人は包帯の巻かれた指を「盲鍵(ブラインド・キーボード)」のキートップに走らせようとした。だが、指の関節を襲う激痛と、右目の奥で明滅する走査線ノイズが脳の演算を鈍らせる。コンパイル・エネルギーは辛うじて半分を維持しているが、中継スマートフォンは熱暴走の警告を吐き出し続けていた。
『魁人、駄目よ! 正面から防御コードを打っても防げない!』
イヤホン越しに、詩乃の悲鳴に近い警告が弾ける。
『デリート・サイズはオブジェクトの「定義」そのものを消去する! 「防壁(PatchWall)」を張っても、その壁の存在定義ごと切り裂かれるわ!』
システム仕様を無視した絶対的な削除。それが監査課の戦闘員の力。リーパーが冷酷に腕を引いた。闇を裂いて、大鎌が魁人の首へと滑り込む。
その瞬間、魁人は本能的に身をよじった。超伝導化されていない通常のメカニカルスイッチが、鈍い打鍵音を立てる。
`self.collision = temporary_error̀
不完全な衝突判定エラーの割り込み。完全な透過には至らなかったが、大鎌の刃は魁人の首をすり抜け――代わりに彼の黒いコートの左袖をかすめた。
音はなかった。ただ、大鎌が触れた袖の一部が、一瞬にして灰色の二進法コードに分解され、そのまま虚空へと霧散した。魁人の左腕の衣服には、まるでレーザーでくり抜かれたかのような、不自然な円形の「空白(未描画領域)」がぽっかりと残された。肉体こそ無傷だったが、存在そのものを削り取られる恐怖が、魁人の背筋を凍らせる。
『システム・ジャミング、最大出力!』
アトリエの詩乃がキーボードを強打する音が、イヤホンを通じて聞こえた。彼女はアトリエのサーバーを一時的にオーバードライブさせ、センター街周辺のトラフィックを強制的に乗っ取ったのだ。
直後、路地裏の入り口にある信号機が異常な速度で明滅し、交差点で立ち往生していた複数の車両の防犯アラームが一斉に鳴り響いた。凄まじいクラクションの音響ノイズと電子警告音が路地裏に反響し、アークの索敵アルゴリズムの音響認識を物理的に飽和させる。リーパーのフードの奥のノイズが乱れ、大鎌の軌道が一瞬だけブレた。
「走れ、魁人! あいつのロックオンが外れた、今よ!」
「くっ……!」
魁人は地面を蹴った。左袖の失われた衣服の隙間から、冷たい夜風が吹き込む。背後からは、リーパーの不気味な足音が、ノイズを伴いながら規則正しく追いかけてくる。
路地裏を抜け、センター街のさらに暗い裏路地へ。だが、前方から突如、強烈なサーチライトの光が差し込んだ。
「そこまでだ、ネズミめ。物理的包囲網を起動せよ」
アーク保安局の追跡班長、犬飼剛の声だ。屈強な体躯に黒いプロテクターを纏った重装兵たちが、路地の出口を完全に塞いでいた。彼らの手には、青い光を放つ電磁ネット射出機が握られている。
重装兵が一斉に引き金を引いた。空中に展開された電磁ネットは、路地裏の壁と床の「衝突判定(コリジョン)」を強制的にロックし、魁人の逃走ルートを物理的・論理的に塞ぐ。
(防壁で、跳ね返す――!)
魁人は「盲鍵」を構え、指先を走らせた。
`Shield.create(front, 100)`
だが、電磁ネットが放つ強力なバグノイズが、空気中のデータ波動を激しく歪めていた。魁人が入力したコードが、コンパイルの途中でノイズに汚染されていく。
『警告:通信バッファ・オーバーフロー。キーボード通信がハングアップしました』
「しまっ……!」
キーボードの反応が完全に途絶えた。半透明のプロンプトが赤く点滅し、ガラスが砕けるように消滅する。指先からジリジリとした不快な静電気が走り、魁人の手が硬直した。電磁ネットが、彼の目の前にまで迫る。
万事休すかと思われたその時、すぐ横の錆びついた非常扉が、ギィと音を立てて内側から開いた。
「こっちだ、ガキども。早く入れ!」
暗闇から伸びてきた無骨な手が、魁人の襟首を掴んで強引に室内に引きずり込んだ。同時に、その男は手に持った小型のハッキング端末を操作し、非常扉の電子ロックをアークの監視網から物理的にバイパスして強制閉鎖した。
ガチャン! と重い金属音が響き、電磁ネットが扉の外側で虚しく弾ける音が聞こえた。
「はぁ、はぁ……だ、誰だ……?」
魁人は冷たいコンクリートの床に倒れ込み、荒い息を吐きながら救助者を見上げた。薄暗い非常階段の常夜灯の下に立っていたのは、整えられた渋い髭を蓄え、シックなベストを着た中年の男だった。その鋭い眼光は、魁人が抱えている「盲鍵」へと向けられていた。
「無事か、魁人。それにアトリエのハッカーの娘も」
「僕の名前を……なぜ?」
「話は後だ。ここはまだ安全圏じゃない。監査課の猟犬どもは、電波の『匂い』を追ってくる」
男はそう言うと、地下へと続く狭い階段を素早く降り始めた。魁人は痛む指を引きずりながら、男の後を追った。
階段の先には、防音扉で仕切られた薄暗い空間が広がっていた。扉を開けると、ほのかにコーヒー豆の香りと、古いジャズのレコードが奏でる低音が漂ってくる。そこは、渋谷の雑居ビルの地下2階にひっそりと佇む、ジャズバー風のカフェ「モノクローム」だった。
マスターであるその男――ケンは、カウンターの奥にある古びた冷蔵庫の物理スイッチを押した。すると、冷蔵庫の背面が油圧の音を立ててスライドし、さらに奥へと続く重厚な防爆扉が現れた。
「入りなさい。ここが私の『セーフハウス』だ」
防爆扉の先は、コンクリート剥き出しの強固な地下シェルターだった。壁一面に電磁シールド材が埋め込まれ、中央のラックにはレガシーなメインフレームと、水冷式の超高性能ハッキング用ノートPC「モノクローム・カスタムPC」が静かに稼働している。
ケンが重い防爆扉を閉め、物理ロックを回転させた瞬間、魁人のスマートフォンの画面で激しく点滅していた「追跡警告」のアラートが、一瞬にして消灯した。
『――アークの追跡電波、完全ロストを確認。うそ、ここ、外部の通信が100%遮断されているわ……完璧なファラデーケージよ』
イヤホンから、詩乃の安堵したため息が漏れる。
「驚いたな。これほどの電磁シールドを個人で構築できるなんて」
魁人は「盲鍵」をテーブルに置き、痛む指先を冷やすために、ケンが差し出してきた氷の入ったグラスを受け取った。ケンは魁人の向かいに腰掛け、静かに彼を見つめた。
「元アークシステムズの開発部長ともなれば、この程度の防衛策は基本中の基本だよ。……久しぶりだな、魁人。最後に会ったのは、お前がまだ7歳の時か」
「開発部長……? じゃあ、あなたは父さんの……」
「そうだ。私は海藤昭二の同僚であり、唯一の友人だった」
ケンの口から語られた言葉に、魁人は息を呑んだ。ケンは魁人のキーボード、そして彼の左手に嵌められた、昭二のペアリングの基板パターンに目を留めた。
「昭二はお前の特異体質――音を視覚として捉える『共感覚』が、いつかアークの狂気に立ち向かうための唯一の鍵になると信じていた。だからこそ、その『盲鍵』にお前の脳波と同調する遺産コードを仕込んだんだ」
「父さんは……なぜ消されたんだ?」
魁人の問いに、ケンの表情が険しく曇った。
「昭二は、アークが進めている『全人類データ化計画』の全貌を知ってしまった。現実世界の資源が枯渇しつつあることを隠蔽するため、人間の肉体を廃棄し、マザーフレーム上のシミュレーション空間へ強制移行させる。昭二はそれに反対し、世界を再起動するためのマスターキー『SystemReboot』を開発して逃亡した。だが、10年前に監査室の神崎によって消去(デリート)された」
ケンの言葉が、重い沈黙となってシェルターに満ちる。現実世界そのものがプログラムに過ぎず、自分の父親がその支配者に殺されたという冷酷な真実。魁人はグラスを握る手に力を込めた。
「アークは、お前のような『ソースコード操作者』をシステムの致命的なバグと見なしている。生かしてはおかない。特にお前が使っているデリートコマンドは、マザーフレームの調和を乱す。これ以上、地上で不用意にコードを打てば、お前だけでなく、海藤家のアパートにいる妹の陽菜にも監査課の魔の手が伸びるぞ」
「陽菜に……」
魁人の胸に、冷たい焦燥が走る。日常を守るための力が、逆に日常を脅かす引き金になっているという矛盾。
「これを使いなさい」
ケンは水冷式の青い筐体「モノクローム・カスタムPC」を魁人の前に押し出した。
「これはアークの検閲を100%遮断する。地上での戦闘はお前のキーボードが必要だが、システム全体の解析や、昭二の遺産の解読にはこの端末を使いなさい。詩乃のサーバーと常時分散同期させれば、アークのパノプティコンも容易にはお前たちの位置を特定できない」
「ありがとうございます、ケンさん」
「礼には及ばない。私は昭二との約束を果たしているだけだ」
ケンは立ち上がり、シェルターの隅にあるレガシーなCRTモニターのメインフレームへと歩み寄った。
「さて、お前たちがアノマリーを撃破し、私のバックドアを刺激してくれたおかげで、この古い端末にも変化があった。見てみなさい」
ケンが物理キーボードをいくつか叩くと、緑色の燐光を放つブラウン管画面が激しくブレ始めた。二進法のノイズが滝のように画面を流れ落ちる。
直後、画面の中央に、アークの最高機密プロトコルを示す暗号化されたフォルダが自動的に展開された。その最深部、10年前に完全に消去(デリート)されたはずのシステムログの残存データが、不気味な青い static ノイズの明滅と共に、静かに浮かび上がってきた。
そこには、失踪直前の海藤昭二の署名(シグネチャ)と、マザーフレームのルートディレクトリへと繋がる、謎の座標コードが記録されていた――。
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