パノプティコンの監視網
「これを持っていきなさい、魁人」
渋谷の廃棄された地下貯水池跡――詩乃の秘密基地「デジタル・アトリエ」の冷たいコンクリートの壁に、警告の赤色灯が明滅する中、織原詩乃は一本の無骨なUSBドングルを魁人の手に握らせた。
「私が開発した偽装IPドングル『プロキシ・ワン』よ。あなたのスマートフォンの有線ポートに直結すれば、アークの監査網が検出するパケットのシグネチャを一時的にダミーデータで覆い隠せる。ただし、有効時間は百八十秒。一度起動すれば、アークの自動検閲AI『パノプティコン』が解析を完了する前に、バグを処理してその場を離脱しなければならないわ」
「百八十秒……三分か。十分すぎる」
海藤魁人は、昨夜の戦闘で指の関節を痛めた両手に巻かれた白い包帯をきつく締め直した。リュックサックの中には、亡き祖父の形見であり、父・昭二がシステム・アニマを仕込んだ魔改造キーボード「盲鍵(ブラインド・キーボード)」が眠っている。魁人の右目の奥では、未だに極微小な青いグリッドノイズが走査線のように明滅し、軽い偏頭痛を誘発していた。だが、彼の瞳に宿る、不条理なシステムから人々を守るというデバッガーとしての覚悟は、少しも揺らいでいなかった。
地下貯水池の重い鉄扉を押し開け、魁人は夕闇に包まれた渋谷の街へと駆け出した。
目的地である「渋谷センター街」は、すでに電子の混沌と化していた。街頭のデジタルサイネージは緑色の砂嵐を吹き出し、歩行者たちのスマートフォンは一斉に通信圏外を示している。 Wi-Fiの電波が消失し、信号機が不規則に点滅を繰り返す中、帰宅途中の群衆がパニックに陥り、怒号と悲鳴が雑踏に響き渡っていた。
『魁人、聞こえる? アークシステムズのAI制御管理室が動き出したわ』
耳元の有線イヤホンから、詩乃の張り詰めた声が響く。アトリエの超並列演算サーバーから、リアルタイムの監視データを魁人に転送しているのだ。
『街頭の防犯カメラが不自然に首を振っている。アークの自動監視AI「パノプティコン・ミニ」よ。カメラの映像から異常なIPを持つ歩行者の骨格データ、つまり「歩行パターン」をリアルタイムで解析して、バグ操作者を特定しようとしている。絶対にカメラの直下を歩かないで。影を縫うように進むのよ』
魁人は顔を伏せ、パーカーのフードを深く被った。交差点のビルに設置されたドーム型の監視カメラが、まるで生き物のようにギチギチと音を立てて旋回し、赤いレーザーの走査線を路面に照射している。その光に触れた市民の足元に、一瞬だけ赤いターゲットマークが浮かび上がるのが、魁人の共感覚には「不気味な血の足跡」として視認できた。
(くそ、網の目が細かすぎる……!)
魁人は物陰に滑り込み、スマートフォンの側面に「プロキシ・ワン」を物理接続した。ドングルが青く発光すると同時に、イヤホンの奥で電子的なノイズが弾ける。
「詩乃、ドングルを起動した」
『了解、ダミーIPの送信を開始するわ。今から百八十秒、パノプティコンの索敵レーダーを偽装データで盲目にさせる。でも急いで!』
パノプティコン・ミニの赤い走査線が、魁人の目の前の路面をなぞった。だが、プロキシ・ワンが放つダミーの「政府高官用アクセスコード」により、カメラのレンズは一瞬だけ焦点を失い、魁人の存在を「正常な例外トラフィック」として処理した。魁人はその隙に、センター街のさらに奥、電波の歪みが最も激しい暗い路地裏へと滑り込んだ。
しかし、パノプティコン・ミニのディープラーニングアルゴリズムは冷酷だった。魁人が影を駆け抜けたわずかコンマ数秒、彼の独特な「歩幅と肩の傾き」という骨格データの断片が、アークの本社データベースに「不審な歩行パターン」として部分登録されていく。これが後の致命的な指名手配の布石となることを、今の魁人はまだ知る由もなかった。
路地裏の最深部。湿ったコンクリートの壁の隙間で、それはうごめいていた。
全身がネオン緑色の巨大な芋虫のような異形――インフラ侵食型バグモンスター「パケット・ワーム」だ。ワームは剥き出しになった太い光ファイバーケーブルの束を物理的に齧り、体内のバグノイズを明滅させながら、周囲の電磁波を掃除機のようにドレイン(吸引)していた。ワームが光ファイバーを齧るたびに、バチバチと青いスパークが散り、周囲の空間のワイヤーフレームが激しく歪んでいく。
(あいつが、渋谷の通信を喰っている……!)
魁人はリュックサックから「盲鍵」を取り出し、スマートフォンの有線ポートに直結した。キートップに指を置いた瞬間、彼の網膜に半透明の青いコマンドプロンプトが展開する。指の関節に激痛が走るが、彼は恐怖をねじ伏せるように、最初のキーストロークを叩き込んだ。
タタタン!
静かな路地裏に、メカニカルスイッチの小気味よい打鍵音が響く。魁人はまず、ワームの肉体を直接消去するため、主力攻撃コマンドを入力した。
`Delete(target.Worm_Core)`
コンパイルが起動し、青い電子の刃がワームの背中に向けて放たれる。しかし、ワームの肉体表面に流れるバグデータの質量は、現在の魁人のゲスト権限(Tier-1)で処理できる容量を遥かに超えていた。
『Compile Error: Insufficient privilege. Object mass exceeds limit.』
「くっ……!」
激しいエラーのフィードバックが魁人の脳を直撃し、スマートフォンのバッテリーが急激に30%低下して、中継端末が物理的に熱を帯びた。消去コードは数ミリ秒だけワームの皮膚を透過したものの、強大なデータ質量に弾き返され、霧散してしまった。
魁人の存在に気づいたパケット・ワームが、蛍光緑色の巨体を震わせ、その咆哮と共に、周囲の物質をデータ分解する「酸性ノイズ液」を魁人に向けて大量に放射した。
『魁人、避けて! それに触れたら、あなたの肉体データが直接破壊されるわ!』
逃げ場のない狭い路地裏。魁人は回避を諦め、新コマンドの構築にすべてを賭けた。指先が超高速でキーボードの上を滑る。包帯の下の皮膚が、摩擦熱でジリジリと焦げるような感覚。だが、彼は打鍵を止めない。
`Shield.create(front, 200)`
エンターキーを強打した瞬間、魁人の前方に、青い二進法の文字列「0」と「1」が高速で滝のように流れる、半透明の巨大なデータ防壁――「PatchWall」が実体化した。
ジュウウウ!
ワームが放った酸性ノイズ液がPatchWallに激突し、激しいスパークを散らした。防壁は物理的な質量を持ち、激しい打撃音と共に振動する。魁人の両手には、キーボードを通じてずっしりとした「重圧」のフィードバックが伝わってきた。シールドの耐久値(パケット容量)を示すインジケーターが急激に減少していくが、青い壁はワームの有毒なノイズ液を完璧に防ぎ止めていた。
(防ぎきった……! これならいける!)
魁人は防壁の影で、冷静に敵の構造を分析した。ワームは通信光ファイバーの接続ポイント(物理ポート)に自身を固定し、そこからエネルギーを吸い上げている。ならば、その接続自体をシステム側から遮断(ブロック)すれば、ワームの供給源は絶たれるはずだ。
魁人はPatchWallを維持したまま、左手で防御コードを叩き、右手でワームの接続ポートを閉鎖する割り込みコードを入力する「マルチスレッド処理」を試みた。指先が残像を描く。
`Port.close(Shibuya_FOC_09)`
`Delete(target.Worm_Core.unlinked)`
カツン! と最後のキーが沈み込む。
光ファイバーからワームへと流れていたネオン緑色のデータラインが、一瞬にして完全に切断された。エネルギー源を失ったパケット・ワームが悲鳴のような電子ノイズを上げ、その巨体がワイヤーフレーム状態へと弱体化していく。そこへ、魁人が叩き込んだデリートコマンドが直撃した。
ワームの核が内側から青い光を放って膨張し、次の瞬間、無数の光の塵となって四散した。周囲の歪んでいた空間が、元の冷たいアスファルトの路地裏へとレンダリング(再描画)されていく。
ワームの残骸から、きらきらと輝く高密度のデータ結晶が魁人のキーボードに吸い込まれた。スマートフォンのバッテリーゲージが急速に回復し、網膜に新たなシステムメッセージが表示される。
『Compile-Energy: +50% recovered.』
『Source Code Patch: [Friction_Control.dat] acquired.』
「やったわね、魁人! 通信インフラの復旧を確認、パノプティコンの警戒レベルも――」
イヤホンの向こうで詩乃が歓声を上げた、その刹那だった。
路地裏の気温が、不自然なほど急激に低下した。魁人の共感覚が、頭上から降り注ぐ「完全な死の沈黙」を検知する。それは音ではなく、周囲のすべての物理法則が一時的にフリーズするような、圧倒的なシステムエラーの波動だった。
魁人がゆっくりと見上げたビルの屋上、月光を背にして、一人の人影が立っていた。
黒いフード付きのコートを羽織り、その輪郭は常にバグノイズで不気味にブレている。その男が、ビルの縁から音もなく飛び降り、重力を無視した緩やかな動作で魁人の目の前に着地した。
男の右手には、触れた物質の存在定義を切り裂いて消去する、巨大な大鎌型のコードデバイス――「デリート・サイズ」が握られていた。刃の周囲で、現実の空気が青いグリッチとなって千切れ落ちていく。
アークシステムズ特別監査室の戦闘員、「コード・リーパー」。
リーパーは無言のまま、大鎌の冷たい刃を魁人の首筋に向けて突きつけた。刃から放たれるデリートの波動が、魁人の首の皮膚をデータ分解寸前の激痛で震わせる。漆黒のフードの奥から、冷酷なシステムの意思が魁人を射すくめていた。
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