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デジタル・アトリエの解析

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渋谷のスクランブル交差点が「バグ」によって崩壊しかけ、あの巨大な狼型の異形――グリッチ・ウルフを消去してから、まだ半日も経っていない。


 都立桜丘高校の教室に差し込む朝日は、昨日までと変わらず平穏で、退屈な日常を照らし出しているように見えた。しかし、海藤魁人の網膜は、その光の中に極微小な「ノイズ」を捉えていた。右目の奥で、青いグリッド線が一瞬だけ走査線のように走り、すぐに消える。共感覚がもたらす世界の「バグ」の残像だ。


「……くっ」


 魁人は机の下で、ブレザーの袖から覗く両手を見つめた。十本の指先は白く清潔な包帯で固く巻かれている。昨夜、茂の形見である「盲鍵(ブラインド・キーボード)」を用いて、人間の限界を超える打鍵速度(キー・パー・ミニッツ)でコードを叩き切った代償だった。指の関節が、まるで熱した針を突き刺されたかのようにズキズキと疼く。キーボードの超伝導スイッチが放った物理的な摩擦熱と、脳神経への過負荷が、肉体に確かな爪痕を残していた。


 魁人のスマートフォンはポケットの中で、昨夜から一度も静かになっていない。画面を開けば、あの血のように赤い警告メッセージが未だに明滅しているはずだ。


『WARNING: Unauthorized packet detected. Audit Department initiating tracking.(警告:不正パケットを検知。監査課が追跡を開始します)』


(アークシステムズの監査課……あいつらが、僕を探している)


 世界が「マザーフレーム」と呼ばれる超巨大コンピューター上のシミュレーション空間に過ぎないという、冷酷なメタ真実。そして、そのコードを書き換える能力者(ソースコード操作者)として覚醒してしまった自分。魁人は押し寄せる現実の質量に、眩暈を覚えそうになっていた。


「おい、海藤。顔色が悪いぞ。昨夜はまた夜更かしして電子ジャンクでも弄っていたのか?」


 教壇から、穏やかだがどこか底の知れない声が響いた。魁人が顔を上げると、担任の佐藤晴人が、チョークを手にしたままこちらを優しく見つめていた。三十代前半の、生徒想いとして知られる平凡な英語教師。だが、魁人の共感覚は、佐藤の周囲に漂う「冷酷なパターン」を敏感に察知していた。佐藤の話し声は、魁人の脳内で「鋭く尖った黄色のノイズ波形」として描画される。それは、嘘を吐く人間が発する特有の周波数だった。


「いえ……少し、指を痛めただけです」


 魁人は包帯の巻かれた手を隠すように、机の引き出しに押し込んだ。佐藤の目が、眼鏡の奥で一瞬だけ細められたのを、魁人は見逃さなかった。佐藤の正体は、アークシステムズから派遣された「特異点監視員(エージェント)」。魁人の打鍵適性を疑い、学校という日常の皮を被って彼を監視している蛇だ。


 授業が再開される。魁人は机の下で、左手だけでスマートフォンを操作し、昨夜のバグ戦闘で発生した「バッファ・ログデータ(接続履歴)」を消去しようと試みた。アークの監査室に位置を特定される前に、痕跡を消さなければならない。


 しかし、スマートフォンの画面に表示されたログファイルは、アークの強力な暗号化によってプロテクトされていた。魁人は片手でのフリック入力で、暗号をバイパスするための論理式を組み立てようとした。だが、指の激痛と入力速度の遅さが、構文の歪みを生み出す。


(だめだ、スペルが――)


『Compile Error: Syntax Error - Decryption failure』


「がはっ……!」


 脳神経に冷たい電流が逆流した。魁人は思わず息を詰め、胸を押さえた。「構文エラー自傷回避」のプロトコルが作動する前に、エラーのフィードバックが左腕を麻痺させたのだ。スマホの画面が激しく明滅し、指先からジリジリと嫌な電磁ノイズの痛みが広がる。


 その刹那、魁人の机の前に、影が落ちた。


 佐藤晴人が、いつの間にか魁人の席のすぐ横に立っていた。その手には、指輪型の「アーク・近距離データ転送デバイス」が静かに光っている。


「海藤くん、授業中にスマートフォンを弄るのは感心しないな。少し、その端末を見せてもらえるかい?」


 佐藤の穏やかな笑顔の裏で、その指先が魁人のスマートフォンに向けて伸ばされる。デバイスから放たれる微弱なスキャン電波が、魁人の共感覚には「緑色の粘り気のある触手」として視認できた。端末を奪われれば、昨夜の戦闘ログがすべてアークのデータベースに同期され、魁人の身元は一瞬で特定される。指が麻痺した魁人には、それを拒む物理的な速度が足りない。


(しまっ――!)


 佐藤の指がスマホの筐体に触れるかと思われたその瞬間。


 ジリリ、と佐藤のスマートウォッチが甲高い音を立てて振動した。同時に、教室のスピーカーから、不自然なハウリング交じりの校内放送が流れる。


『英語科の佐藤先生、大至急、職員室までお越しください。教務システムに重大な接続エラーが発生しています』


 佐藤の手が、魁人のスマホの手前でぴたりと止まった。佐藤はスマートウォッチの画面を見つめ、眉をひそめる。そこに表示されていたのは、副校長のアカウントから送信された、最優先の物理呼び出し通知だった。


「……やれやれ、システムの不具合か。海藤くん、その手の手当ては保健室で行うといい。端末は、後でじっくり見せてもらうよ」


 佐藤は不審な目を魁人の包帯に残したまま、静かに教室を去っていった。その歩行パターンは、獲物を逃した猟犬のように冷徹だった。


 魁人が安堵の息を吐きながら廊下へ視線を向けると、そこには、眼鏡をかけた知的な黒髪ロングの少女――織原詩乃が立っていた。彼女は首にヘッドセットをかけたまま、魁人に向けて、冷たいがどこか誇らしげな視線を送り、すぐに踵を返した。


(詩乃が……学校のサーバーをダミーハックして、佐藤を遠ざけてくれたのか)


 放課後、魁人は詩乃の後を追い、渋谷の喧騒から隔絶された地下へと降りていった。そこは、渋谷の廃棄された地下貯水池の管理室を、詩乃が無断で占拠・改造した秘密のハッキングルーム「デジタル・アトリエ」だった。


 重い鉄扉を開けると、冷たいコンクリートの空間に、壁一面に並んだ自作のマルチモニターが青白い光を放っていた。水冷式サーバーの低い駆動音(ファンノイズ)が、魁人の耳には「冷たく澄んだ青い周波数」として心地よく響く。


「馬鹿ね、魁人」


 詩乃はコントロールチェアに深く腰掛け、キーボードを叩きながら冷たい声を放った。


「昨夜のスクランブル交差点でのログ、全く消去できていないじゃない。スマホの簡易フリックでアークの監査プロトコルを破ろうとするなんて、自殺志願者としか思えないわ」


「……すまない。指が思うように動かなくて」


 魁人は包帯の巻かれた手を差し出した。詩乃はため息を吐き、魁人のスマートフォンを太い光ファイバーケーブルで彼女の「超並列演算サーバー」に接続した。モニター群に、膨大な文字列が滝のように流れ落ちる。


「見て。これがあなたの残した『バッファ・ログデータ』よ」


 詩乃が画面を指差す。そこには、昨夜の戦闘でマザーフレームの物理演算キャッシュに強制書き込みされた、魁人の特異なアクセスログが赤くハイライトされていた。放置すれば、アークの特別監査室に魁人のIPアドレスが完全に特定され、その場で存在を「デリート(消去)」される絶対的な物証だ。


「私がアトリエのサーバーでログを偽装して、監査課のパノプティコン(自動監視AI)の目を逸らしているけれど、これも一時しのぎ。あなたの『盲鍵』が放つパケットは、目立ちすぎるのよ」


「でも、あの時はさくらを救うために打つしかなかった」


「わかっているわ。だから、責めているわけじゃない」


 詩乃の表情が一瞬だけ和らぎ、眼鏡の奥の瞳に深い心配の色が浮かんだ。彼女は魁人の最大の理解者であり、現場で戦う魁人と、後方でコードを書く自身を「一つのシステム」として捉えている最高の相棒だった。


 その時、アトリエのメインモニターの片隅で、ダークウェブの暗号化チャットツールが突如、緑色の電子ノイズを上げて起動した。画面に表示されたのは、緑色の「X」を模した不気味なアスキーアート。


「――プロフェッサーX?」


 魁人が呟く。覚醒した直後の魁人に、基本のデバッグコマンドを授けたネット上の謎の存在だ。スピーカーから、合成された無機質な機械音声が響き渡る。


『よく生き延びたな、ゲスト開発者。お前が手にした「盲鍵」は、マザーフレームの物理演算を直接上書きできる唯一の特権デバイスだ。だが、その力を使うことは、世界を支配するアークシステムズへの反逆を意味する』


「あなたは何者だ? なぜ僕にこれを教える?」


 魁人の問いに対し、画面の「X」は冷酷に明滅する。


『お前たちが「現実」と呼ぶこの東京は、マザーフレーム上で稼働する巨大なシミュレーション空間に過ぎない。アークは資源の枯渇を隠蔽するため、不要な人間のデータを消去する「存在消失者(ゴースト)の隔離計画」を進めている。バグ空間は、そのシステムが排出したゴミ箱だ。真実を知りたければ、バグをデバッグし、管理者権限(ルート)を奪取しろ』


「世界が……シミュレーション……」


 詩乃の指がキーボードの上で止まり、アトリエに冷たい沈黙が流れた。自分たちが触れ、愛してきたこの世界が、ただの電気信号の羅列に過ぎないという真実。その衝撃に、魁人の右目の奥のノイズが激しく激突し、鋭い頭痛となって脳を揺らした。


 その沈黙を切り裂くように、アトリエのメインモニター全体が、突如として真っ赤な警告色(アラートカラー)に染まった。


 ピーーー、ピーーー、ピーーー!


 鼓膜を突き刺すようなシステム警告音が、コンクリートの壁に反響する。渋谷の3Dレンダリングマップの中心、センター街のエリアに、血のように赤いアラートドットが激しく明滅を始めた。


「新たなバグアノマリーの発生検知……!」


 詩乃が叫び、キーボードを叩いてデータを解析する。


「インフラ侵食型バグよ! 渋谷センター街の通信光ファイバー網が、何かに捕食されて物理的に消滅し始めている! このままじゃ、渋谷全体の通信がブラックアウトして、アンダーグリッドのデータが完全に消去されるわ!」


 魁人は引き出しから「盲鍵」を引っ張り出し、しっかりと両手で抱えた。包帯の巻かれた指先が、恐怖と興奮で小刻みに震える。右目の視界の端で、青いコマンドプロンプトが静かに立ち上がった。


「詩乃、行くよ」


「無理よ、魁人! あなたの指はもう限界のはず――」


「それでも、行かなきゃ。目の前で誰かが消されるのを、黙って見ているわけにはいかない」


 魁人の瞳に、普通の高校生としての弱さをねじ伏せる、デバッガーとしての冷徹な覚悟が宿る。アトリエのモニターに映る赤いアラートドットは、まるで彼らを嘲笑うかのように、さらに激しく明滅の速度を上げていった。

HẾT CHƯƠNG

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