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猟犬の追跡、シグナルを偽装せよ

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世界から、音が消えた。


 いや、正確には「現実の音」が遮断されたのだ。澁谷宗一郎から渡されたノイズキャンセリングヘッドホン『サイレンサー』は、イージス・グリッドが発する背景ノイズを完全に相殺していた。鼓膜を震わせるのは、魁人自身の荒い呼吸音と、透過タブレット『イージス・ターミナル』の冷却ファンが発する微細な振動だけだ。


 だが、静寂がもたらしたのは平穏ではない。完全な暗黒に包まれたジャンクショップ『澁谷電子』の店内で、魁人の『コード・ビジョン』は、牙を剥く死神の姿を克明に捉えていた。


「ガルルル……」


 暗闇の中、青い光のバイナリコードで構成された骨格が、不気味に明滅している。それは実体を持たないはずのホログラムでありながら、コンクリートの床を物理的に削る爪の音――その「データノイズ」を空間に放射していた。イージス直属の電脳猟犬、『ケルベロス・コード』。


 その赤く発光する眼光が、まっすぐに魁人を射抜く。


(感知されている……!)


 魁人は息を呑んだ。隣で澪が彼のパーカーの袖を強く握りしめているのが分かった。彼女の首元で揺れる銀のペンダントが、魁人の肌に冷たく触れている。そのアナログな金属の冷たさだけが、過熱した魁人の脳波をかろうじて安定させていた。もし澪がいなければ、脳圧の上昇による激しい偏頭痛で、すでに意識を失っていただろう。


 魁人の正面では、金髪の青年、東条蓮が『電磁タクティカルバット』を両手で引き絞り、身構えていた。東条の口が何かを叫ぶように動いているが、サイレンサーを装着した魁人の耳には届かない。ただ、東条の焦燥に満ちた表情が、事態の切迫さを物語っていた。


 ケルベロス・コードが、音もなく跳躍した。


 物理的な障害物を無視し、ジャンクパーツが山積みにされたスチール棚を透過しながら、最短ルートで魁人の喉元へと肉薄してくる。


(速すぎる……! 直接デリートは無理だ!)


 魁人はとっさに透過タブレットを構え、画面上のスレッドを走らせた。敵を直接消去する『Force_Quit』の構文を入力しようとするが、右目の網膜にオーバーレイ表示されたターゲットロックの照準が、狂ったようにブレる。


『Target acquisition failed. Velocity out of bounds.』


 ケルベロスの移動速度は、システムの通常演算速度を超えていた。まるでフレームレートの落ちた古い動画のように、位置情報をコマ飛びさせながら迫ってくるのだ。これではターゲットを特定(指定)できない。


 その時、東条が前に踏み込んだ。バットの表面に青い電磁火花が激しく炸裂する。東条は野生的な勘だけで、暗闇から迫る猟犬の頭部を正確に強打した。


 衝突の瞬間、サイレンサー越しに、魁人の脳裏に直接「ノイズ」が響いた。物理的な打撃音ではない。電磁バットのコーティングと、猟犬のバイナリコードが激突したことによる、凄まじいデータバーストの波形だ。


 キィィィィィン!


 東条のバットが猟犬を弾き飛ばす。だが、魁人のコード・ビジョンは、東条のバットの耐久値が一気に減少していくのを捉えていた。バットの表面を覆っていた電磁コーティングが、猟犬の身体に触れた瞬間から青いピクセルノイズとなって削り取られ、溶解し始めている。バットの耐久値はすでに半分以下。このまま物理的な接触を続ければ、武器そのものがデータ分解されて消滅するだろう。


「魔法使い、早くしろ!」


 サイレンサーの隙間から、東条の掠れた悲鳴がかすかに聞こえた。東条の右腕は、先ほどの戦闘での切り傷から血が滲んでいる。彼らに残された時間は、もう数分もない。


(電波を追跡しているなら……その『目』を騙すしかない)


 魁人は震える指先を透過キーボードの上に走らせた。左手の指先が時折ピクセル化し、キーボードのホログラムをすり抜ける感覚に襲われる。自己喪失の恐怖が背筋を駆け上がるが、魁人はそれを強引に押し殺した。


「世界を疑え」――失踪した父、宗一の言葉が脳裏をよぎる。


 完璧なシステムであるイージスは、特定の規則(プロトコル)に基づいて動いている。ならば、その規則を逆手に取るバグを突く。


『import Network_Spoof;』

『Mask_Signal(frequency=2.4GHz, fake_id=VND-SBY-082);』


 魁人が入力したのは、自身の透過端末が発信する固有の電波シグナルを、周囲のオブジェクトに偽装するアクティブスキルだった。ターゲットに指定したのは、澁谷電子のハッチの外、地下連絡通路に並ぶ古い自動販売機だ。


 タタタン!


 エンターキーを叩く。端末から目に見えないパケットの嵐が放射され、自販機の通信モジュールへと魁人の端末のMACアドレスが強制コピーされた。


 効果は劇的だった。


 跳躍しようとしていたケルベロス・コードの動きが、ピタリと止まった。猟犬たちの赤い眼光が、魁人から逸れ、ハッチの向こうの暗闇へと向けられる。彼らの追跡アルゴリズムが、自販機から発信される偽のシグナルを「本物の海藤魁人」として再ロックオンしたのだ。


「今だ、走れ!」


 魁人はヘッドホンを首にずらし、澪の手を引いて駆け出した。東条もバットを担ぎ直し、彼らに続く。澁谷電子のハッチをすり抜け、彼らは暗い地下連絡通路へと脱出した。


 だが、通路を数十メートルも走らないうちに、魁人の右目の奥が再び熱を帯びた。


 ――ジジ、ジジジジッ。


 背後から、コンクリートをかきむしる爪の音が再び近づいてくる。それも、先ほどよりも遥かに激しい音量で。


「バカな、偽装を破られた!?」


 東条が振り返り、絶望的な声を上げた。青い光の猟犬たちが、自販機を素通りし、凄まじい速度でこちらへ向かって走ってくる。


 魁人は走りながら透過端末のシステムログをスキャンした。そこに表示された文字列に、魁人の背筋が凍りついた。


『Signal_Hunt tracking: Dual-layer mode active.』

『Carrier wave 1: Device Packet (Spoofed).』

『Carrier wave 2: Neural Noise (Locked).』


(二重構造……!?)


 猟犬の追跡ロジックは、端末の電波だけではなかった。魁人の脳がハッキング時に発する、あの「例外シグナル」の脳波ノイズそのものを、もう一つの発信源としてロックオンしていたのだ。デバイスのシグナルを偽装しても、魁人の脳がハックの負荷で熱を帯びている限り、彼らはその「脳波の熱源」を嗅ぎつけて追ってくる。


「カイト、危ない!」


 澪が叫んだ。狭い通路の角を曲がった瞬間、一頭のケルベロスが壁を透過して目の前に現れた。逃げ場のない一本道。猟犬の裂けた顎が、青いバイナリの牙を剥いて魁人の喉元へと迫る。


「魔法使い、後ろに下がれえっ!」


 東条が叫び、身を挺して魁人の前に割り込んだ。電磁バットを横一文字に構え、猟犬の牙を受け止める。


 ギギギギギギギギッ!


 鼓膜を突き刺すような金属の摩擦音。猟犬のバイナリの牙が、東条のバットに深く食い込んでいた。バットの表面の電磁コーティングが、青い火花を散らしながら急速にデータ分解されていく。東条の両腕が、凄まじい負荷で激しく震えていた。


「こいつ……俺のバットを『食って』やがる……! これ以上は、持たねえ!」


 バットの耐久値ゲージが、残り一〇%を切ろうとしていた。これが砕ければ、次は東条の肉体がデータ消去の餌食になる。


 魁人は冷や汗を流しながら、左手の指をキーボードへと伸ばした。だが、焦りと恐怖で指先が激しく震える。左手のピクセル化が進行し、ホログラムのキーを認識しない。コンパイル・ディレイは三十秒。今からコードを入力しても、発動する前に東条が噛み殺される。


(ダメだ……間に合わない……!)


 その時だった。


 キィィィィィン――という、耳を劈くような高周波の駆動音が、頭上の排気ダクトから響き渡った。


 暗闇の通路を、一筋の鮮烈な緑色の光が切り裂く。それは、複数のローターを高速回転させながら急降下してくる、超小型のカスタムドローンだった。機体の中央には、手作り感溢れる配線と、点滅する緑色のLEDレンズが剥き出しになっている。


「どいてろ、ド素人ども!」


 ドローンに取り付けられた小型スピーカーから、生意気そうな少年の声が響いた。


 ドローンは東条の頭上をかすめ、レオンの猟犬の顔面へと一直線に突撃した。そして、激突する寸前、機体内部の超高出力コンデンサが閃光を放った。


 ボガァァァァン!


 狭い通路内に、強烈な電磁パルスと物理的な爆風が吹き荒れた。ドローンの自爆ジャミングだ。強烈なホワイトノイズが空間を満たし、ケルベロス・コードの視覚センサーと電波検知システムを物理的に焼き切る。


「ギャンッ!」


 猟犬が悲鳴のようなノイズを上げ、そのバイナリコードの身体が激しくブレて霧散し始めた。一時的な機能停止(シャットダウン)だ。


「こっちだ、早くしろ! ジャミングの効果は十秒も持たねえぞ!」


 通路の奥の暗闇から、オーバーサイズのパーカーを羽織り、額にゴーグルをかけた十五歳ほどの少年――蓮見迅が、改造コントローラーを手に握りしめながら姿を現した。その瞳は、不敵な光を湛えて魁人たちを見つめていた。

HẾT CHƯƠNG

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