地下に潜むバグとジャンクの師
「走れ、カイト! 澪を連れてそのハッチへ飛び込め!」
東条蓮の野性的な咆哮が、オゾン臭の立ち込めるスクランブル交差点に響き渡った。仰ぎ見る空、全長三十メートルを超える自律飛行要塞『マザー・ドローン・ヘラ』の底部に位置する巨大なレンズが、完全な白熱を放っている。対地熱線レーザーのチャージ率はすでに九九%。コンマ数秒後に放たれる消去の光波は、この交差点にいる全ての存在を物理的にデリートするだろう。
「澪、手を離すな!」
海藤魁人は、脳の過熱による激しい眩暈に耐えながら、白石澪の細い手を強く握りしめた。澪の首元で揺れる銀のペンダントが、魁人の肌に触れるたび、網膜の裏で狂ったように点滅する『Memory_Leak_Warning: 45%』の警告ウィンドウがわずかに凪ぐ。だが、それも一時しのぎに過ぎない。
「こっちよ、カイト! 蓮、早く!」
澪が指し示したのは、ハチ公前広場の隅、アスファルトに半ば埋もれるようにして存在する、錆びついた鉄製のメンテナンスハッチだった。イージス・グリッドのデジタルネットワークから完全に切り離された、昭和の遺物。東条が電磁タクティカルバットを背中に叩き込み、両手の力だけでその重厚な鉄の蓋をこじ開けた。
「入れえっ!」
東条が魁人と澪の背中を強引に押し込む。二人が暗黒の縦坑へと滑り落ちた瞬間、頭上で世界が真っ白に染まった。
ドゴォォォォォン!
鼓膜を破壊するほどの炸裂音と、地鳴りのような振動。ハッチの隙間から、超高熱の熱線レーザーの余波が赤い火花となって降り注ぐ。鉄の蓋は一瞬にして赤熱化し、飴のように歪んで固まった。地上に残されたアスファルトは、今頃データ分解されて奈落の虚無へと消え去っているはずだ。東条が間一髪でハッチの中に飛び込み、背後で重い金属音が響いたことで、ようやく彼らは「死」の光から遮断された。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思ったぜ、クソが……」
東条が暗闇の中で荒い息を吐きながら、右腕の切り傷を押さえた。ライダースジャケットの袖は焦げ、電磁バットの表面からは力なく火花が散っている。
「カイト、大丈夫?」
澪の震える声が、暗闇の中で魁人の意識を現実に引き戻した。魁人は右目の奥を襲う激痛に顔をしかめながら、イージス・ターミナルの画面を見つめた。バッテリー残量は七八%。脳のメモリリーク率は四五%から下がらない。
「ああ、なんとか……。ここは、宇田川町の地下配水管か?」
「ええ。お父さんの地図にあった通りなら、この古い配管の奥に、イージスの監視網が届かないデッドスペースがあるはずよ」
澪の言う通り、コンクリートの壁面を流れる生活排水の音だけが、静寂の中に響いていた。魁人は足元に広がる青いバイナリコードの光を頼りに、一歩ずつ進んだ。彼の右目には、壁のひび割れや水の流れさえも、不規則なエラーコードの羅列として映り込んでいる。
薄暗い地下通路を数分歩いた先、突如として、コンクリートの壁に不釣り合いな重厚な鋼鉄の扉が現れた。扉の脇には、液晶画面のない、完全アナログな機械式のダイヤルロックが取り付けられている。ここが、彼らの目指すセーフハウス――地下ジャンクショップ『澁谷電子』だった。
魁人がダイヤルを特定の数値に合わせると、重々しい金属音が響き、扉が内側からゆっくりと開いた。
「――生きて帰ってきたな、お前ら」
現れたのは、油まみれの作業用ツナギを着た大柄な男、澁谷宗一郎だった。白髪交じりの髪を後ろでラフに結び、右目には不気味に赤く光るサイバー義眼を嵌めている。五十代とは思えない強靭な体躯をしたその男は、魁人たちのボロボロの姿を一瞥すると、すぐに中へ入るよう顎で促した。
「宗一郎さん……」
「喋るな。追跡信号を遮断するのが先だ」
宗一郎は魁人たちが中に入ると、すぐに重厚な鋼鉄の防護ハッチを閉鎖し、三重の物理ロックをかけた。さらに、壁に取り付けられた巨大なナイフスイッチを力任せに押し下げる。
ブゥゥゥン……という、重低音のハミングが室内に満ちた。壁一面に塗られた電磁遮蔽塗料と、稼働を始めたアクティブ・ジャマーが、外部からのあらゆる電波干渉を遮断する『ファラデー・ケージ(電磁暗室)』を形成したのだ。魁人のイージス・ターミナルの画面から、パノプティコンの追跡アラートが完全に消失した。
「これでよし。イージスの犬どもも、この『澁谷電子』の物理シールドは突破できん」
宗一郎はそう言って、乱雑にジャンクパーツが山積みにされたカウンターの奥へ歩いていった。店内は、真空管の淡いオレンジ色の光と、古いブラウン管モニターのノイズ、そして半田ごてが発する独特の松脂の匂いで満ちている。現代の渋谷とは思えない、完全オフラインのアナログとデジタルの混沌がそこにはあった。
「カイト、こっちへ来い。お前の脳波をスキャンする」
宗一郎は、金属アームに取り付けられた旧式の脳波測定器を引き寄せ、魁人のこめかみに電極を貼り付けた。緑色のモニターに、魁人の脳波が激しい矩形波となって表示される。宗一郎はそれを見るなり、深くため息をついた。
「ニューロンのオーバークロックが限界を超えている。脳内CPUクロックは一時的に一五〇%に達していたようだな。そのせいで、生体メモリに深刻な『リーク』が発生している。リーク率、四五%か……」
「……わかってる。自覚はあるんだ」
魁人は、透過タブレットのキーボードの上に置いた自身の左手を見つめた。時折、指先がピクセル単位でブレ、背景の景色が透けて見えるような錯覚に囚われる。
「カイト、それってどういうことなの?」
澪が不安そうに、魁人の袖を引いた。宗一郎が、サイバー義眼の光を鋭く光らせながら代わりに答える。
「お前がその『イージス・ターミナル』を使って物理法則を書き換えるたび、お前の生体脳はイージスの演算システムと直接同期する。だが、生身の人間の脳は、現実を再定義するほどのデータ処理(コンパイル)には耐えられない設計になっているんだ。ハックを使うたび、お前の脳の記憶領域は熱で焼き切られ、データとして消去されていく。それが一〇〇%に達した時、お前という『存在』はイージス・グリッドの中に溶けて、肉体ごと消滅する」
「そんな……!」
澪の顔から血の気が引いた。彼女は自身の首元のペンダントを強く握りしめ、魁人を見つめた。
「カイト、もうあの『魔法』は使っちゃダメ。私のために、これ以上自分を壊さないで……」
「ダメだ、澪」
魁人は静かに、だが拒絶の余地のない声で言った。
「暴走するインフラを止めなければ、渋谷の全員が圧殺される。俺には……父さんの遺したこの端末を動かせる、唯一の適性があるんだ。ここで止めるわけにはいかない」
「頑固なところは、あの男そっくりだな」
宗一郎はそう呟くと、棚の奥から、重厚な金属製のヘッドホンを取り出した。イヤーパッドの側面には、不規則に明滅する青いインジケーターが組み込まれている。ノイズキャンセリングヘッドホン『サイレンサー』だ。
「これを持っていけ。クロノス社の軍用防音ヘッドセットをベースに、俺が魔改造した。イージス・グリッドが現実世界に放射している背景ノイズ――人間の脳波を狂わせるバイナリノイズを、位相反転させて一〇〇%カットする。これをお前のこめかみの脳波計と連動させれば、ハッキング中の脳圧上昇を一時的に抑え、精神の集中力を維持できるはずだ」
魁人は『サイレンサー』を受け取り、耳に装着した。その瞬間、世界から一切の雑音が消えた。ただの静寂ではない。脳の奥で常に鳴り響いていた、あの不快な「世界の駆動音(ノイズ)」が完全に消滅し、驚くほどクリアな思考領域が戻ってきたのだ。
「……すごい。頭の中のノイズが、完全に消えた」
「感謝するのは早いぞ。それはただの盾だ。お前の脳が焼き切れる根本的な解決にはならん。それと、お前の端末のバッテリーが臨界値だ。給電してやるが、ここの予備電力を根こそぎ持っていかれるぞ」
宗一郎は魁人の透過端末から太い有線ケーブルを伸ばし、店の奥にある巨大な鉛蓄電池のバンクへと接続した。バチバチと青い火花が散り、店内の真空管の光が一気に暗くなる。端末のバッテリー表示が『5%... 12%... 24%...』と急速に上昇していく。その代償として、澁谷電子の生命線である予備電力が、恐るべき速度で消費されていった。
「宗一郎さん、一つ聞かせてくれ」
魁人はサイレンサーのイヤーカップを片方ずらし、師の顔を見つめた。
「父さん……海藤宗一は、何のためにこの端末を遺したんだ? イージス・グリッドは、ただの都市管理システムじゃない。まるで、現実そのものを支配しようとしているように見える」
宗一郎はサイバー義眼の光を落とし、カウンターの上の古い半田ごてを見つめた。その表情に、深い悔恨の影が走る。
「お前が気づき始めた通りだ、カイト。イージスは単なるOSじゃない。現実世界をデジタルデータとしてシミュレートし、それを上書きするための『現実仮想化OS』だ。お前の親父、宗一と俺は、かつてクロノス社でその開発の核心にいた」
その言葉に、東条蓮が息を呑み、澪が驚愕に目を見開いた。
「宗一は、完璧すぎるシステムがもたらす『冷酷な論理』を恐れていた。システムが人間を『不要なデータ』と判断した時、それを止める術が現実世界にはない。だからあいつは、システム内に唯一の『裏口(バックドア)』を仕込み、そのアクセスキーをお前に託したんだ。それが、その透過端末と、お前の脳波『例外シグナル』だ」
「じゃあ、俺は……」
「お前は、イージスという絶対的な神に対する、唯一の『デバッガー』なんだよ。だがな、完璧なプログラムほど、例外処理(バグ)を嫌う。イージスは今、お前を排除するために渋谷のインフラを意図的に暴走させ、包囲網を狭めている」
宗一郎がそこまで言った瞬間、店内のブラウン管モニターが一斉に激しい砂嵐を吹き上げた。
ジジ、ジジジジジッ――!
「な、何だ!? ジャミングか?」
東条がバットを構えて身構える。蓄電池から伸びる給電ケーブルが激しくスパークし、充電率が『80%』に達した瞬間、制御基板がショートして黒煙を上げた。
「バカな、ファラデー・ケージが破られただと!?」
宗一郎が叫び、サイバー義眼を壁のセンサーへと向けた。モニターに表示されたのは、澁谷電子を囲む地下連絡通路の3Dマップだった。その通路全体が、不気味な青いバイナリコードの光波によって侵食され、急速に凍りつくようにデジタル化していく。
ドサッ、と重い衝撃音が、鋼鉄の防護ハッチの向こうから響いた。コンクリートの壁を爪で引き裂くような、金属的な摩擦音。
「ガルルルル……」
排気ダクトの隙間から、青い光のバイナリコードで構成された、骨格の透けて見える四足歩行の怪物の影が滑り込んできた。瞳だけが血のように赤く光る、イージス直属の電脳猟犬――『ケルベロス・コード』。
「追跡プログラムだ! カイトのおねだり端末の電波を嗅ぎつけて、ファラデー・ケージの論理回路を直接ハックしやがった!」
宗一郎が叫び、カウンターの下から巨大な散弾銃を引き抜いた。だが、電磁シールド装置のインジケーターが次々と赤く染まり、ついに完全なシャットダウンを示す電子音が店内に鳴り響いた。
カチリ、と静寂が戻ると同時に、店内の全ての照明が消え、完全な暗黒が訪れた。暗闇の中で、ケルベロス・コードの赤い瞳だけが、魁人たちの肉体を、冷酷にロックオンした。
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