コンパイルの代償と赤いジャケット
「――警告。イージス・システム防衛プロトコルがアクティブに移行しました。エリア内の『例外シグナル』を最優先排除対象に設定」
脳髄に直接流し込まれる電子の合成音声が、魁人の鼓膜の内側で不快に反響していた。頭を割るような激痛。右目の奥が熱い鉄を押し当てられたように焼け焦げ、視界の右半分は砂嵐のようなバイナリノイズで完全に潰れている。
「カイト! しっかりして、カイト!」
白石澪の悲痛な叫び声が、ノイズの向こうからかすかに届く。彼女の細い腕が、崩れ落ちそうになる魁人の身体を必死に支えていた。澪が魁人の肩を抱き寄せた瞬間、彼女の首元からこぼれ落ちた小さな銀のペンダントが、魁人の首筋に触れた。完全なアナログの金属――イージス・グリッドのネットワークに一切接続されていないその冷たさが、熱暴走を起こしかけていた魁人の脳波を、奇跡的に数ヘルツだけ引き下げ、辛うじて意識の糸を繋ぎ止める。
「あ、が……はぁ、はぁ……」
魁人は鼻から垂れる赤い血を手の甲で拭ったが、血はアスファルトの上に刻まれた青いバイナリコードの光を汚すように点々と広がっていった。透過タブレット『イージス・ターミナル』の画面には、最悪のシステムログが赤く点滅している。
『Warning: CPU Core Temperature Critical.』
『Memory_Leak_Warning: 45% - 記憶領域の一部に不可逆的破損の恐れあり。』
「記憶の……破損……?」
冷たい汗が背中を伝う。魁人は自分の頭の中をまさぐった。自分の通っていた小学校の名前は? ――思い出せない。昨日、アパートの部屋で何を食べた? ――霧がかかったように白い。現実の物理法則を書き換える『ソースコード・マニピュレーション』を実行した代償は、彼の脳細胞そのものを物理的に焼き切る、恐るべきメモリリークだった。
キィィィィィン!
思考を強制遮断するように、上空から鼓膜を突き刺すローター音が響き渡った。見上げれば、夕暮れの渋谷の空を埋め尽くすように、赤く光るカメラアイを持った無数の監視ドローンが下降してきている。その数、数十、いや、百を超える。イージス・システムが交差点の『重力エラー』を検知し、魁人を排除すべき有害な『ウイルス』と認識したのだ。
「ちっ、次から次へと、湧いてきやがるな!」
魁人の前に割って入ったのは、赤いライダースジャケットを羽織った金髪の青年、東条蓮だった。彼は肩に担いだ、バグドローンの装甲を削り出して作った『電磁タクティカルバット』を握り直し、不敵な笑みを浮かべてドローン群を睨みつける。
「おい、魔法使いの兄ちゃん。お前のその『魔法』、今は使えそうにねえな?」
「魔法じゃない……ハッキングだ……」
魁人は掠れた声で否定しようとしたが、指先が震えて透過キーボードのホログラムを叩くことすらできない。脳波が完全にフリーズしている。コードの入力はおろか、コンパイルの開始すら不可能な状態だった。今、ドローンに襲われれば、確実に一瞬で肉体をデータ分解されて消去される。
「ハッ、どっちでも同じだ。要するに、今は動けねえんだろ。だったら――」
東条はバットのグリップを両手で引き絞り、バットの表面に青い電磁火花を走らせた。
「ここからは、俺たち『シブヤ・アウトローズ』の仕事だ。下がってろ、魔法使い!」
ドローンの第一波、三機が猛烈な速度で急降下してきた。その底部には、肉体を物理的に引き裂くための超高速回転ブレードが展開されている。
「ラアアアアッ!」
東条蓮はストリートの獣そのものの踏み込みで、アスファルトを蹴った。彼の身体能力はイージスの恩恵によるものではない。日々、渋谷の裏路地で実戦を繰り返してきた、純粋な筋肉と反射神経の結晶だ。東条は最先頭のドローンの突進軌道を完璧に見切り、真横から電磁バットをフルスイングした。
ガギィィィン!
火花が炸裂し、打撃の衝撃波が周囲の空気を震わせる。バットの電磁コーティングがドローンの電子回路を物理的にショートさせ、一撃でその機体をスクラップへと変えた。墜落したドローンのリチウムバッテリーが小さな爆発を起こし、黒煙が立ち上る。
「二機目、右から来ます!」
物陰から、澪が鋭い声を張り上げた。彼女の瞳は『Map_Synchronize』の直感によって、入り組んだ交差点の死角から回り込んでくるドローンの軌道を正確に捉えていた。東条は澪の指示を信じ、振り返りざまにバットを逆手で薙ぎ払った。
ドゴォッ!
二機目のドローンがバットの側面で叩き潰され、ハチ公像の台座へと激突して粉砕される。しかし、三機目のドローンは東条の死角、頭上からブレードを回転させて急襲した。東条の反応速度を上回る、機械的な神速の突進。
「しまっ――」
東条が顔をしかめた瞬間、魁人は無理に右腕を持ち上げ、透過タブレットのエンターキーを叩こうとした。だが、脳波のシンクロ率が低すぎて、画面には『Syntax_Error: Neural_Link_Unstable』の文字が無慈悲に表示されるだけで、重力ハックは起動しない。
「蓮、左へ跳んで!」
澪の叫び声と同時に、東条は左側のアスファルトへと身体を投げ出した。コンマ数秒の差で、ドローンの回転ブレードが東条の赤いライダースジャケットの袖を切り裂き、彼の右腕に浅い切り傷を作る。鮮血が滲み、ジャケットの赤をさらに濃く染めた。
「痛ってえな、クソ機械が!」
東条は転がりながらもバットを突き出し、至近距離からドローンの無線通信アンテナをピンポイントで強打した。打撃の衝撃でアンテナが物理的に折れ曲がると、ドローンは一時的な通信エラーを起こして制御を失い、ふらふらと高度を落としたところを、東条の容赦ない踏みつけによって完全に沈黙した。
「はぁ、はぁ……やるじゃないか、ギャングスタ……」
魁人は澪に支えられながら、何とか立ち上がった。脳の過熱は、澪のペンダントの冷たさと、時間の経過によって辛うじて限界値を下回ったが、依然としてRAMの空き容量は致命的に不足している。
「おいおい、褒めてる場合かよ。見ろよ、この数を!」
東条がバットを向けた先、渋谷の空が、信じられない光景に変貌していた。数十機の小型ドローンを撃破したのも束の間、それらは単なる『尖兵』に過ぎなかったのだ。上空の雲が青いノイズのように歪み、その巨大な質量が渋谷の街を見下ろすように降臨してきた。
全長三十メートルを超える、巨大なカブトガニ型の自律飛行要塞――『マザー・ドローン・ヘラ』。
その巨大な機体の底面から、無数の青い発光ラインが脈打つように走り、渋谷スクランブル交差点全体を、不気味な影で覆い尽くしていく。と同時に、交差点周辺の巨大デジタルサイネージ、信号機、すべてのデジタルスクリーンが一斉に、血のような赤色に染まった。
『SECURITY ALERT: LEVEL 4』
『ELIMINATION PROTOCOL: ACTIVE』
街中のスピーカーから、耳を塞ぎたくなるような大音量の警告音が鳴り響く。マザー・ドローンの中心部に位置する巨大なレンズが、不気味な赤から白熱の青へと輝きを変え始めた。物理的な熱線レーザーのチャージが開始されたのだ。交差点全体が、まるで電子レンジの内部のように不穏な電磁波で満ちていく。
「おい、魔法使い……。あれも、その『ハッキング』とやらで、宙に浮かせられるのか?」
東条蓮の額から、冷たい汗が流れ落ちる。赤いライダースジャケットの下で、彼の屈強な身体が、初めて目にする『システムそのものの怒り』の前に、かすかに強張っていた。
魁人はイージス・ターミナルの画面を見つめた。バッテリー残量は80%。しかし、脳のメモリリーク率は45%のまま固定され、右目の視覚ノイズはさらに激しさを増している。あの超巨大な飛行要塞の質量をハックするには、今の魁人のRAM容量では、一文字入力した瞬間に脳が完全に焼き切れて死に至る。
「……無理だ。今の俺のスペックじゃ、あのデカい奴のコードをコンパイルする前に、俺の脳ミソが爆発する」
魁人は、冷酷な現実を告げた。マザー・ドローン・ヘラの巨大なレンズが、完全な白光を放ち、交差点の中央――まさに魁人たちが立っている座標をピンポイントでロックオンした。逃げ場のない、絶対的な消去の光が、上空から降り注ごうとしていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!