コマンド展開:Gravity_Set
「――警告。未登録デバイスがプライベート・カーネルへの割り込みを試行しています」
耳元で、冷酷なシステム音声が鳴り響いた。いや、それは耳から聞こえたのではない。魁人の脳波、その中心部に直接データパッケージとして流し込まれた電子の声だった。
手の中で、父の遺品である『イージス・ターミナル』が白熱の青い光を放っている。透過ガラスのプレートは、魁人の指紋と、彼特有の脳波シグナルを読み取った瞬間、完全にそのロックを解除していた。周囲の空間に、幾何学的な扇状を描いて展開される青いホログラムキーボード。それは、現実世界の物理法則を書き換えるための、唯一のインターフェースだった。
だが、感傷に浸っている時間は一ミリ秒すら残されていない。
キィィィィィッ!
アスファルトを引き裂くような金属摩擦音。スピンしながら歩道へと突っ込んでくる大型電動デリバリーバン。車輪は完全にロックされ、時速八十キロの質量兵器と化した鉄の塊が、澪の眼前に迫っていた。ヘッドライトの強烈な光が、澪の黒髪のボブカットと、恐怖に引き攣った白い顔を容赦なく照らし出している。
衝突まで、あと一・八秒。
魁人の右目に常時オーバーレイ表示されている『Code_Vision』が、バンの進行ベクトルと質量から、澪の生存確率を弾き出し続けている。画面の隅で、冷酷な数値が『〇・〇〇%』のまま、血のような赤色で点滅していた。
「動け……動けよ!」
魁人は震える指先を、空中に浮かぶ青いキーボードへと突き出した。まずは直接、あのバンの電子制御システムをハックする。それが最も確実なはずだ。彼は網膜に表示されたバンの個別識別アドレス『Vehicle_ID: SBY-9021』に向けて、強制シャットダウンのシグナルを送信した。
『System_Command: Force_Stop(SBY-9021)』
エンターキーのホログラムを叩く。だが、画面に返ってきたのは、無慈悲なシステムログの拒絶だった。
『Error: Connection_Refused. Permission_Level: Guest - Action_Denied.』
「くそっ!」
やはりダメだ。イージス・グリッドが提供する一般市民向けの『ゲスト権限(Guest)』では、暴走する交通管理AI「シグナル・アイ」が完全に暗号化し、プロトコルをロックした車両の制御権を奪うことなど不可能。システムにとって、魁人はただの「閲覧者」に過ぎない。
衝突まで、あと一・二秒。
バンのフロントグリルが、澪の身体まであと数メートルの位置に迫る。風圧が彼女の白いシャツを激しく揺らした。澪は恐怖のあまり目を閉じ、首元の小さな銀のペンダントを握りしめていた。
電子制御がダメなら、物理法則そのものをバイパスする。車両のシステムをハックするのではなく、その車両が存在する「空間の物理パラメータ」を書き換える。
魁人の脳裏に、父・宗一が残した言葉が蘇った。『世界は完璧なコードでできている。だが、完璧なプログラムほど、例外処理(バグ)に弱い』
「空間ハック……重力パラメータの強制上書き!」
魁人の指先が、青いキーボードの上で目にも留まらぬ速度で動き始めた。彼が生まれつき持っている「例外シグナル」の脳波が、イージス・ターミナルのOSと完全に同調する。視界の端に、父の遺した物理改変関数ライブラリ『Gravity_Lib』のヘッダーファイルが展開された。
『import Gravity_Lib;』
『Gravity_Set(target=SBY-9021, G_value=0.0);』
一文字の入力ミスも、構文エラー(シンタックスエラー)も許されない。もしここでコードを間違えれば、現実世界の空間構造が論理矛盾を起こし、魁人の周囲ごと爆発的に崩壊する『論理バースト』が発生する。極限の緊張の中、魁人のブラインドタイピングは加速していく。
タタタタタタタタタン!
最後のセミコロンを入力し、エンターキーを叩き込んだ。画面に青いプログレスバーが立ち上がる。
『Compiling...』
『Remaining_Time: 30s』
「三十秒……!? 嘘だろ!」
魁人は絶望に目を見開いた。コンパイル・ディレイ。強力な物理改変コマンドを実行するための、システム上の「詠唱時間」だ。最新のイージス・システムが現実の物理演算を書き換え、効果を現実に反映するまでに、どうしても三十秒のタイムラグが生じる。
だが、デリバリーバンが澪に激突するまでは、あと〇・五秒もない。
「カイトォッ!」
その時、交差点の喧騒を切り裂いて、野太い叫び声が響いた。赤いライダースジャケットを羽織った金髪の青年――渋谷のストリートギャングを率いる東条蓮(とうじょう れん)が、背後から飛び出してきたのだ。
「邪魔だ、どけえええ!」
東条は、逃げ遅れた一般市民を庇うようにして、自らの肉体を盾にしながら歩道側へと突き飛ばした。そして、手に持っていた、バグ化したドローンの装甲を削り出して作った『電磁タクティカルバット』を、突進してくるバンのフロントガラスに向けて物理的に叩きつけた。
ギィィィン!
火花が散り、バットの電磁コーティングがバンのバンパーと衝突して凄まじい衝撃波を生む。物理的な打撃だけで時速八十キロの質量を止めることはできない。だが、東条の命がけの「前衛」としての介入が、バンのスピン軌道を僅かに、ほんの数センチだけ外側へと歪めた。
「東条!」
魁人は叫びながら、キーボードを叩き続けた。プログレスバーのカウントダウンが、魁人の網膜の裏で狂ったように進んでいく。
『Compiling... 15s』
『Compiling... 8s』
『Compiling... 3s』
バンの側面が、澪の白いシャツの袖をかすめた。その瞬間、魁人の指先が最後の一行をインジェクションした。
『Execute: Gravity_Set(target=SBY-9021, G_value=0.0)』
『Compile_Completed. Code_Injected.』
ゴオオオオオオオオッ!
渋谷スクランブル交差点の中心で、突如として物理法則が歪んだ。バンの周囲に、不気味な青いバイナリコードのグリッドが渦巻き、上向きの重力ベクトル矢印が空間に無数に浮かび上がる。
キィィ……
アスファルトを引き裂いていたタイヤの摩擦音が、唐突に消失した。バンの四輪が、地面から完全に離れたのだ。空間の重力定数が「〇・〇G」――完全な無重力へと書き換えられた鉄の塊は、地面との摩擦力を完全に失った。
時速八十キロで突進していたバンは、その慣性エネルギーを維持したまま、ふわりと宙に浮き上がった。それは、まるで見えない空気のクッションに乗って滑空する巨大なクジラのようだった。バンは澪の頭上を、そして透過タブレットを構えた魁人の頭上を、ゆっくりと放物線を描いて飛び越えていく。
澪は、自分の頭上を通過していくバンの底面を、信じられないものを見るような目で見上げていた。バンの底部の金属配管や、青く点滅するバッテリーセルが、彼女の瞳に映り込んでいる。
ズウウウウウウウン!
交差点を飛び越えたバンは、重力改変の有効範囲(半径五メートル)を抜けた瞬間、再び通常の重力に捉えられ、ハチ公前広場の無人の植え込みへと激しく墜落し、横転した。
「……はぁ、……はぁ、……はぁ」
魁人はその場に膝を突き、透過タブレットを地面に落としそうになった。ハックの成功と引き換えに、彼の脳に凄まじい熱負荷(オーバーヒート)が襲いかかっていた。
「あ、が……っ!」
右目の奥が、焼けた鉄を押し当てられたように熱い。視界全体が激しい砂嵐(スノーノイズ)で埋め尽くされ、脳圧が急激に上昇していくのが分かった。こめかみの血管が破裂しそうなほどの拍動。魁人は左手で頭を抱え、荒い息を繰り返した。鼻から、一筋の赤い血が垂れて、アスファルトの青いバイナリコードの上に点々と落ちていく。
「カイト! 大丈夫!?」
澪が駆け寄り、魁人の身体を細い腕で支えた。彼女の首元のシルバーペンダントが、魁人の肩に触れる。そのアナログな金属の冷たさが、魁人の過熱した脳波を僅かに沈静化させるのを感じた。
「……あぁ、大丈夫だ……。ただ、少し、脳みそが沸騰しそうで……」
魁人は掠れた声で答えた。これが、現実を書き換える能力『ソースコード・マニピュレーション』の本当の代償だった。人間の生体脳をCPU代わりに使い、物理定数を上書きするコンパイルを行うことは、魁人の肉体に不可逆的な負荷を与える。
「おい、魔法使いの兄ちゃん! 今の、お前がやったのか!?」
東条蓮が、破損した電磁バットを肩に担ぎながら、驚愕の表情で近づいてきた。その赤いライダースジャケットは、バンの風圧による砂埃で汚れていたが、彼の目は獲物を見つけた野獣のように輝いていた。
「車を浮かせるなんて、どんな手品だ……?」
だが、彼らがその奇跡に驚嘆している暇はなかった。渋谷スクランブル交差点の暴走は、まだ始まったばかりだったのだ。
キィィィィィッ!
周囲を見渡せば、宙に浮いたデリバリーバンの軌道が逸れたことで、後続の自動運転車たちが次々と制御を失い、周囲のビルや街頭スクリーンに衝突し始めていた。ガラスの破片が雨のように降り注ぎ、街頭ビジョンからは火花が吹き出している。暴走交通管理AI「シグナル・アイ」のバグは、さらにその侵食範囲を広げ、交差点全体を「死のサーキット」へと変貌させようとしていた。
そして、上空から不気味なローター音が響く。イージス・システムの防衛論理が起動し、赤く光るカメラアイを持つ無数の監視ドローンが、魁人たちの頭上へと集結し始めていた。
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