世界のエラー、青いグリッド
世界は、剥き出しのコードでできている。
渋谷スクランブル交差点のただ中に立ち、海藤魁人(かいとう かいと)はいつものように鬱陶しい「ノイズ」を瞬きで払おうとした。だが、網膜の裏側に焼き付いた青いグリッド線は消え去るどころか、むしろその輝度を増していく。
行き交う数千人の歩行者。その足元のアスファルトには、細かなバイナリコードが幾何学模様となって脈動していた。ビル壁面の巨大デジタルサイネージからは、映像信号の代わりに『Visible=True』『Render_Speed=60fps』といったプロパティが半透明の文字列となって空間に浮遊している。
それが、魁人の日常だった。
「また酷くなってるな……」
首にかけたヘッドホンの位置を少しずらし、魁人は小さく息を吐いた。黒いパーカーのポケットに両手を突っ込み、周囲の物質にオーバーレイ表示される数値群を凝視する。彼の脳は、生まれつき現実世界の「微細なコードノイズ」を視覚として認識できる特殊な脳波――『例外シグナル』を放っていた。彼が『Code_Vision(active=True)』と呼ぶその知覚拡張能力は、世界を美しい嘘ではなく、不完全なプログラムとして映し出す。
この異常な視界が始まったのは、五年前。現実世界の裏で稼働する都市制御システム「イージス・グリッド」の開発主任であった父・海藤宗一(かいとう そういち)が、「世界を疑え」という言葉を遺して失踪したあの秋の日からだ。魁人が一人で暮らす渋谷区桜丘町のアパートには、父の遺品であるいくつかの暗号化ストレージと、一台の奇妙なデバイスだけが残されていた。
魁人は、ただ静かに、普通の高校生として暮らしたかった。世界の不自然さに気づきながらも、その深淵に関わることを拒んできた。だが、その「普通の日常」というささやかな願いは、彼女の姿を見つけた瞬間に、温かい現実味を帯びて引き戻される。
「カイト!」
ハチ公前広場の雑踏をすり抜けて、黒髪のボブカットを弾ませながら一人の少女が駆け寄ってきた。白いカジュアルなシャツにデニム。首元で小さな銀のペンダントが陽光を反射してきらめいた。白石澪(しらいし みお)――魁人の唯一の幼馴染であり、彼の「世界がコードに見える」という異常な告白を、唯一からかわずに信じてくれた存在だ。
「待った? ちょっと道玄坂の方が混んでてさ。ほら、自動運転のバスが停留所じゃないところで急に停まっちゃって、後ろが大渋滞。最近、本当に街の機械がおかしいよね」
「いや、俺も今着いたところだ。お前の親父さんの店は大丈夫なのか?」
「うん、お好み焼き『白石』はガスも水道もアナログだから、イージス・グリッドがいくらバグってもびくともしないよ。お母さんも『最新のAI調理器なんて信用できない』って言ってるしね」
澪はいたずらっぽく笑った。彼女の明るい声を聞いていると、視界を埋め尽くす青いバイナリコードが少しだけ薄らぐような気がした。彼女の実家は、イージスに接続されていない完全なオフライン環境を維持している。それが、この過剰に管理された都市において、どれほど稀有で安全な場所であるかを魁人は知っていた。
二人は並んでスクランブル交差点へと歩き出した。信号が青に変わり、人の波が一斉に動き出す。澪が隣で、最近学校で流行っているアプリの話をしていた。魁人は適度に相槌を打ちながら、彼女の横顔を守るように、無意識に歩調を合わせた。
その時だった。
魁人の右目の奥に、突如として灼熱のような激痛が走った。
「――っ!」
「カイト? どうしたの、急に立ち止まって」
澪が心配そうに覗き込んでくる。だが、魁人は答えることができなかった。彼の視界が、一瞬にして青から「警告の赤」へと染まったからだ。
視界の端で、無数の赤いエラーウィンドウがポップアップし、高速でスクロールしていく。
『Warning: Critical exception detected in Traffic_Control_System.』
『Error: Signal_Eye logic loop detected.』
『Permission_Level: Guest - Action_Denied.』
信号機、監視カメラ、道路に埋め込まれたセンサー。交差点を構成する全てのオブジェクトのコードが、血のような赤色に変色し、狂ったように点滅していた。
「澪、下がれ!」
魁人が叫んだ瞬間、交差点の全ての信号機が同時に「赤」で固定された。歩行者用の信号も、車両用の信号も、全てが異常な赤色を発している。
キィィィィィッ!
凄まじい金属摩擦音が渋谷の街に響き渡った。自動運転の配送バン、EVタクシー、高級セダン――交差点に進入しようとしていた数百台の車両の電子制御が、一斉にカットされたのだ。タイヤが悲鳴を上げ、白煙がアスファルトから立ち上る。
「な、何!? 車が停まらない!」
周囲の群衆がパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。だが、逃げ場はなかった。暴走した交通管理AI「シグナル・アイ」のバグは、車両のブレーキシステムを強制的に解放し、狂ったように加速させていた。
魁人はとっさにスマートフォンを取り出し、イージス・グリッドが一般市民に提供している「緊急停止アプリ」を起動しようとした。しかし、画面に表示されたのは非情な文字列だった。
『Guest_Permission_Required. Connection_Timeout.』
一般市民に与えられた『ゲスト権限(Guest)』では、暴走するシステムに一ミリも干渉することはできない。ただ一方的な被害者として、システムに轢き殺されるのを待つだけの存在。それが、完璧に管理されたこの世界のルールだった。
「カイト、危ない!」
澪の鋭い悲鳴が耳を刺した。魁人が顔を上げると、制御を失った一台の大型電動デリバリーバンが、時速八十キロを超える猛スピードでスピンしながら、澪の立っている歩道へと突っ込んでくるのが見えた。
魁人の『Code_Vision』が、瞬時にバンの進行ベクトルを計算する。青い軌道予測線が網膜に描かれ、その終点は澪の身体と完全に重なっていた。
衝突まで、あと二秒。
物理的な回避は、不可能。澪を突き飛ばしても、スピンする巨体は彼女を巻き込む。魁人の頭脳が、生存確率「〇・〇〇%」という冷酷な数値を弾き出した。
「ふざけるな……!」
魁人は、背負っていたバックパックの底へ手を突っ込んだ。指先が、ひんやりとした金属とガラスの質感に触れる。父が遺した唯一の武器――『イージス・ターミナル(透過タブレット)』。
彼がその透過型プレートを掴み出し、自身の指紋がバイオメトリクスセンサーに触れた瞬間。
死んでいたはずのガラス画面が、見たこともない白熱の青い光を放って覚醒した。魁人の周囲の空間に、無数の青いホログラムキーボードが扇状に展開され、超高速のバイナリコードが彼の指先を包み込むように渦巻き始めた。
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