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第9話:真空管のデクリプター

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魁人が意識を取り戻したとき、最初に鼻腔を突いたのは、安っぽい合成洗剤の香りと、焦げたハンダの匂いが混ざり合って焦げ付いた、セーフハウス特有の奇妙な悪臭だった。こめかみに貼り付けられた「ニューロ・冷却ジェル」の強烈な冷感が、焼き切れそうだった脳神経をかろうじて氷点下へと繋ぎ止めている。


右目の視界は、未だに完全な電脳色盲(モノクローム)のままだった。世界は濃淡の異なる緑色のワイヤーフレームだけで構築され、エラーログのノイズが雨のように上から下へと降り注いでいる。右腕の痺れは肘を越え、すでに上腕の筋肉を強張らせていた。プロト・ターミナルのバッテリー残量を示すインジケーターは、虚しく四十%のラインで低空飛行を続けている。


「気がついたか、アノマリー(特異点)」


低く、冷笑的な声。魁人がコンクリートの冷たい床から身を起こすと、緑の走査線で満ちた視界の向こうに、白髪交じりの細身の青年が立っていた。青年の右目は重厚な革製の眼帯で覆われており、その隙間から赤く明滅するエラーコードが微かに漏れ出ている。「バグ・イン」の技術顧問であり、かつて管理者機関のプログラマーだった天才デクリプター、ミカゲだ。


その傍らには、魁人が命がけで死守した「宗一郎モデル」のキーボードが置かれていた。アルミ削り出しの筐体には、フォーマッターの消去波を掠めた際の微細な焦げ跡が残り、キースイッチは未だかすかに熱を帯びている。


「オオトモがお前をここまで運んできた。宮下公園でフォーマッターと鬼ごっこをして生き延びたばかりか、これを持ち帰るとはな」


ミカゲが顎で示したのは、コンクリートの作業台の上に固定された重さ五十キロはあろうかという鉄の怪物――レトロな真空管と最新の超高速プロセッサーが不格好に融合した、ミカゲ特製の「ハードウェア・デクリプター」だった。そのスロットには、魁人がクローゼットの奥から回収した「神代昭人の暗号化SSD」が物理的に挿入されていた。


「お前の親父、神代昭人が残したこのSSDは、管理者機関が使う百二十八ビットの軍用プロテクトで何重にもロックされている。通常のハッキングでは解読に数百年はかかる。だがな……」


ミカゲが鉄のレバーを引き下ろすと、デクリプターの内部で十数本の真空管が「カチ、カチ」と乾いた機械音を立てて起動し、怪しく濁ったオレンジ色の光を放ち始めた。真空管の熱ノイズを利用した非線形暗号解読システムが、物理的な振動を伴ってブーンという重低音を響かせ、地下室の空気を震わせる。


「この真空管が放つアナログの熱雑音(ホワイトノイズ)は、システムの論理演算フィルターには検知できない。完全な検閲の盲点だ。ここから暗号キーの『脆弱性』を物理的にこじ開ける」


画面の解読進行度が十%に達した瞬間、メインモニターに十年前の「東京大災害」の極秘記録ログがノイズ混じりのホログラムとして投影された。魁人はその光景に息を呑んだ。


ホログラムが映し出したのは、地震による物理的な崩壊ではなかった。東京タワーを、渋谷のビル群を、アスファルトを、緑色のバイナリコードが侵食し、それらが文字通りの「立方体のピクセル」に分解され、白い虚無へと吸い込まれていく凄まじい光景だった。


「大地震なんかじゃない……。これは、世界システムが最初に起動したときに発生した、超巨大な『初回起動暴走バグ』だ。現実そのものが演算エラーを起こして、物理的に消去されたんだ」


ミカゲの言葉が冷たく響く。その瞬間、魁人の右目UIが、投影されたソースコードの最深部と激しく共鳴した。視界の奥で、緑色のバイナリの羅列が激しく明滅し、一つの固有署名(シグネチャ)を浮かび上がらせる。


――`[Signature: AKITO]`


それは、魁人の魂の最深部に埋め込まれている「最初のバグ残渣」のコード配列と、一文字の狂いもなく完全に対称をなす二重螺旋の論理構造だった。魁人は、自分がシステムに仕組まれた「歩くデバッグプログラム」であることを、本能的に理解させられた。


「神代くん、大変だ!」


突如、インカムから織田レンの悲鳴に近い通信が飛び込んできた。その背後で、サーバーラックの冷却ファンが爆音で鳴り響いているのが聞こえる。


「バグ・インの監視網が、管理者代理・安藤俊介の不審なトラフィックを検知した! 奴の部下が、玲奈ちゃんの中学校の通学路にある防犯カメラに侵入し、彼女の顔認識データをジャックし始めてる!」


「安藤……! 玲奈を狙っているのか!」


魁人の心拍数が急上昇し、脳内の「ロジック・マインド」が怒りの熱量で掻き消されそうになる。レンは即座に「高帯域幅プロキシ・キー」を投入し、安藤の監視回線への逆探知を試みた。


しかし、画面の向こうでレンが悲鳴を上げる。「ダメだ! 安藤の奴、カメラの制御コードの裏に『シンタックス・シャッフル(キー配列シャッフル)』のトラップを仕込んでやがった! 俺のコンソールがバグって、逆探知のタイピングが追いつかない!」


さらに、SSDの解読にレンの並列サーバーの全演算処理を占有させているため、魁人へのリアルタイム戦闘サポートは一時的に完全に遮断されていた。


(安藤は俺の『Delete』を封じるために、玲奈を拉致して人質にする気だ。管理者本部の強固なファイアウォールをネット経由で崩すのは時間が足りない……。なら、物理的に現場へ急行し、玲奈の周囲の電波を直接ジャミングして、カメラの顔認識システムに強制エラーを誘発させるしかない!)


「ミカゲ、デクリプターはそのまま動かしておけ。俺は行く」


魁人は感覚の麻痺した右腕を無理やり動かし、「宗一郎モデル」のキーボードをリュックに押し込んだ。指先からは未だに微小な血が滲んでいたが、それを黒いタクティカルグローブの中に隠し、黒いパーカーのフードを深く被る。


その瞬間、デクリプターのレトロなスピーカーから、真空管のノイズの隙間を縫って、低く、重厚な、しかし聞き覚えのある男の音声ログが再生された。


『魁人、聞こえるか。もしお前がこのコードを解読しているなら、世界はすでに歪んでいる。世界を恐れるな……。お前のコードで、この世界を再起動(Reboot)しろ』


父親、神代昭人の遺した生の声だった。


だが、その余韻に浸る時間は、システムによって無慈悲に引き裂かれた。魁人のポケットの中で、プロト・ターミナルが、鼓膜を貫くようなけたたましい緊急警告音(アラート)を鳴らし始めたのだ。


画面には、玲奈の通学路に設置していた小型防衛ロボ「センチネル・ミニ」からの、赤く激しく明滅するテキストが投影されていた。


【WARNING: Target_Reina_LOCKED_ON. Physical approach detected. Target distance: 50m.】


「玲奈……!」


魁人は父親のログを振り切り、セーフハウスの鉄の階段を駆け上がった。背後の暗闇で、オレンジ色の真空管が、まるでカウントダウンを刻む秒針のように怪しく点滅を続けていた。

HẾT CHƯƠNG

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