第8話:消去人の足音
「あなた、一体何者なの?」
宮下公園の芝生の上、神崎エリカの突き刺すような視線が、魁人(カイト)の胸元に抱えられた漆黒のアルミニウム筐体――「宗一郎モデル」のメカニカルキーボードへと注がれていた。彼女のポニーテールが夜風に揺れ、特注グローブ「ビート・マスター」が未だかすかに青い光の残滓を放っている。
魁人の右目は、すでに完全な電脳色盲(モノクロ視界)に陥っていた。世界は冷徹な緑色のワイヤーフレームと、不気味なノイズの明滅だけで構成されている。右腕の痺れは肘を越えて上腕まで進行しており、指先はキーボードを叩いた際の摩擦熱と微細な出血で赤く染まっていた。
「ただの、通りすがりのデバッガーだ」
魁人は感情を殺した声で短く答えると、キーボードのUSBケーブルをプロト・ターミナルから引き抜き、手早くリュックサックへと滑り込ませた。エリカの追及に答える時間など、一秒も残されていない。彼の網膜UIの端では、システムの警告ログがけたたましく明滅していた。
【警告:渋谷セクター・セキュリティレベルが『警告(Warning)』に上昇】
【検出:管理者直属の駆除プログラム(ハウンド)が急行中。到達まで約百二十秒】
「嘘を言わないで!」
エリカが一歩、距離を詰める。「通りすがりのデバッガーが、システムパラメータを直接書き換える『Modify』なんて使えるわけがない。それに、そのキーボード……まさか、十年前の開発者が使っていたレガシーデバイスなんじゃ――」
その言葉は、唐突に訪れた「異常」によって遮られた。
キィィィィィン――。
耳を劈くような高周波のノイズが、宮下公園の全域に響き渡った。公園の街灯が、まるで電圧の異常をきたしたように激しく瞬き、次の瞬間、周囲の空間が不自然に引き裂かれた。緑色のバイナリコードが空中から滝のように流れ落ち、芝生やベンチの輪郭がカクカクとしたグリッチノイズに変換されていく。
「な、何これ……? バグが再起動したの!?」
エリカが身構え、ビート・マスターを再び起動させようとする。だが、魁人の右目は、その歪みの中心から這い出てくる「最悪の存在」を捉えていた。
暗闇の奥から、音もなく現れたのは、全身が漆黒のバイナリコードで満ちた人型のプログラムだった。顔も、衣服の境界もない。ただ、蠢く黒いノイズの塊のようなその処刑プログラムは、歩くたびにその足元の地面を「白い虚無」へと塗り潰していった。コンクリートも、青々とした芝生も、彼が踏みしめた瞬間にテクスチャを剥ぎ取られ、文字通りの「何もない白い空間(ゼロ)」へと初期化されていく。
【警告:特化型処刑プログラム『フォーマッター』を検出】
【危険度:即死(Format_All)。一切の防御コマンドの実行を推奨しません】
(黒崎烈の奴……もう『フォーマッター』を送り込んできやがったか)
魁人の脳裏に、渋谷セクターの絶対支配者である黒崎の冷酷な笑みが浮かんだ。自らの不正を隠蔽し、邪魔なアノマリー(特異点)を周囲の環境ごと完全に「初期化」するための、システムの死神。
「下がれ、神崎! それに触れるな!」
魁人が叫ぶが、エリカのアスリートとしての闘争本能が先んじた。彼女は無重力戦闘の感覚を残したまま、鋭い踏み込みでフォーマッターの側面へと回り込み、ビート・マスターを嵌めた右拳を叩き込んだ。
「ハアッ!」
青いコンバット・パケットの光条が、フォーマッターの漆黒の身体へと突き刺さる――はずだった。だが、彼女の拳が触れた瞬間、ビート・マスターから放たれた攻撃コードは、爆発を起こすことすらなく、一瞬にして「白い光」の中に溶けるように消滅した。それだけではない。エリカの右グローブの先端が、まるで消しゴムで消されたかのように、一瞬で「ゼロ」に初期化され、虚無へと消え去った。
「え……? 私のグローブが……消え……?」
エリカが驚愕に目を見開く。フォーマッターが、顔のない頭部をゆっくりと彼女に向け、その漆黒の腕を振り上げた。その腕に触れれば、彼女の存在データそのものが一瞬で「フォーマット」され、この世界から永久に消去される。
「動くな!」
魁人はエリカの細い腕を強引に掴み、背後へと引き倒した。同時に、リュックから引き抜いた「宗一郎モデル」のUSBケーブルをプロト・ターミナルに物理接続する。拡張された処理スレッド2が、魁人の脳波と同調して超高速で立ち上がった。
【警告:一般市民の前でのハックが検出されました。絶対規則違反】
【システム警告:Quarantine(強制排除)の執行まで、あと十秒】
「うるさい、黙ってろ!」
魁人は脳内のシステム警告を怒鳴り散らし、キーボードのキーを神速で叩き始めた。カチャカチャカチャカチャッ! 静寂の宮下公園に、凄まじい打鍵音が響き渡る。右腕の痺れで指先が思うように動かない。だが、魁人は「ロジック・マインド」を極限まで起動し、指先の「筋肉記憶」だけで完璧な構文をコンパイルした。
『C-L-O-N-E_P-I-D_3』――[ENTER]!
発動トリガーの打鍵と同時に、魁人のプロト・ターミナルから放たれた位置情報キャッシュが、空中で多重複製(Git Clone)された。魁人の身体から、エメラルドグリーンのノイズを放つ「半透明の青い分身(デコイ)」が3体、四方八方へと一斉に走り出す。自己複製技「Echo-Decoy(エコーデコイ)」だ。
フォーマッターの動きが一瞬、停止した。システムの処刑プログラムは「対象のデータID」を検索して消去を実行する。同一のIDを持つオブジェクトが突如として4体に分裂したことで、フォーマッターのロックオンアルゴリズムに一時的な「処理遅延」が発生したのだ。
「走れ、神崎! 立ち止まるな!」
魁人は驚愕するエリカを逆方向へと突き飛ばすと、自身は靴底の摩擦パラメータを「ゼロ(Friction=0)」に Modify(書き換え)した。滑走するようにアスファルトの上を高速で移動し、宮下公園の連絡階段を滑り落ちるようにして渋谷駅の地下構内へと飛び込む。
背後から、冷酷な「フォーマット」の波動が追いかけてくるのが分かった。シュウゥゥゥ、と空気が物理的に消滅する不気味な音が響き、振り返る余裕すらない魁人の背後で、コンクリートの壁や鉄骨が次々と白い虚無へと消去されていく。フォーマッターの「強制消去波」が、魁人の背後をかすめた。
パリパリ、と乾いた音がして、魁人の「ナノファイバー製タクティカルパーカー」の裾が、一瞬にして白い光の粒子となって削り取られた。もし、あと数センチ回避が遅れていれば、彼の肉体そのものが「ゼロ」に初期化されていたはずだった。
「はあ、はあ、はあ……!」
渋谷駅地下の暗い通路を、魁人は必死に走り続けた。Echo-Decoyの維持と、摩擦ゼロのModify滑走の同時実行は、拡張されたばかりの処理スレッド2を限界まで圧迫していた。脳メモリの使用率は一気に危険領域へと跳ね上がり、こめかみを極太の電磁針で貫かれたような、強烈な頭痛(メモリ・リーク)が魁人を襲う。視界の端で、シオンの警告が赤く激しく明滅していた。
『警告。脳メモリ使用率92%。一時的な神経熱暴走を検出。直ちにハッキングを停止し、生体冷却措置を講じてください。さもなければ、末梢神経の不可逆な焼き切れが発生します』
「くそ、あ、あつ……熱い……!」
脳が物理的に沸騰しているかのような高熱。魁人は、道玄坂の裏通りにある、24時間営業の無人コインランドリー「ホワイト」の看板を、砂嵐の混ざるモノクロの視界の中に辛うじて捉えた。深夜の店内には人影はない。魁人は自動ドアを押し開け、洗剤の香りが漂う店内の最奥へと滑り込んだ。
特定の乾燥機のダイヤルを「宗一郎モデル」の物理ショートカットコードと同じ配列に合わせ、物理的に強く押し込む。ガチリ、と重厚なロックが解除される音がして、乾燥機のドラム全体が横へとスライドし、地下へと続く暗いメンテナンス用の階段が姿を現した。「バグ・イン」が管理する、アナログ通信の隠し中継基地(セーフハウス)だ。
魁人は階段を転がり落ちるようにして地下室へと滑り込み、冷たいコンクリートの床の上に倒れ込んだ。リュックからこぼれ落ちたキーボードが、虚しく金属音を立てる。
「が、はっ……!」
口内から鉄の味が広がり、魁人は床に血を吐き出した。脳の熱暴走が限界に達し、全身の毛細血管が悲鳴を上げている。魁人は震える手でポケットから「ニューロ・冷却ジェル」のパックを引き剥がすと、感覚のない右手を無理やり動かして、両方のこめかみに強引に貼り付けた。
キィィィンという冷感ナノマシンが脳神経を強制冷却していく。しかし、頭痛は和らぐものの、ジェルが脳の感覚野を麻痺させる副作用により、魁人の意識は急速に暗黒の底へと沈み込もうとしていた。プロト・ターミナルのバッテリー残量はすでに40%を切り、美咲の復元率を示す数値が、砂嵐の中で不気味に揺れている。
(ここまで、なのか……美咲、玲奈……俺は……)
意識が完全に途切れる寸前、暗いセーフハウスの奥から、静かな、しかし規則的な打鍵音が聞こえてきた。カチャ、カチャ、カチャ。それは、最新のハッキング端末ではなく、旧世代の古いメインフレームが稼働する、重厚なアナログの音だった。
暗闇の向こうから、一人の男がゆっくりと姿を現した。ヨレヨレのスーツを着た、目の下に濃い隈のある中年男性。その手には、アドミニストレーターの公式紋章が刻まれた、暗号化された物理データドライブがしっかりと握られていた。
男は、床に倒れ込んで血を流す魁人と、その傍らに転がる「宗一郎モデル」のキーボードを静かに見下ろした。男の瞳に、かすかな、しかし強烈な驚愕の光が宿る。
「……そのキーボード。まさかお前、神代昭人の、息子か?」
かつて管理者機関の末端にいたはずの男、オオトモの出現。その問いかけを最後に、魁人の視界は完全な暗黒へとシャットダウンされた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!