第7話:神速のブラインド・ハック
「落下まで、あと二秒――」
宮下公園の空中に浮遊する魁人(カイト)の脳内で、システムアシスタント「シオン」の冷徹な警告がカウントダウンを刻んでいた。
無重力空間のただ中で、神崎エリカの身体が突如として「5G」の超重力に囚われ、地面に向けて急降下していく。このまま激突すれば、彼女の肉体データは物理的衝撃によって粉砕され、システムから強制消去(デリート)される。エリカ自身はデーモンの重力コードによってロックされており、彼女を直接ハックしようとすれば「ダブルハック禁止令」の演算衝突(コンフリクト)を誘発し、魁人のプロト・ターミナルが完全にクラッシュする。救うための猶予は、もう一秒もない。
(対象は『エリカ』じゃない。彼女の落下軌道上にある『空気』の密度パラメータだ。空気を固体化させてクッションを作る!)
魁人は空中を漂う不安定な姿勢のまま、重厚なアルミ削り出しのキーボード「宗一郎モデル」を両手で引き寄せた。感覚の鈍り始めた右腕に焦燥が走る。だが、タイピングを開始しようとしたその瞬間、公園の中央にそびえ立つ半透明の巨大な悪魔「バイナリ・デーモン」の赤い単眼が、不気味な輝きを放った。
キィィィン――!
デーモンの巨体から、現実の物理演算を強引に書き換える「精神汚染ノイズ」が放射された。それは緑色のバイナリコードが絡み合った、物理的なデータ弾丸となって魁人の顔面を直撃した。
「く、あ……ッ!」
脳髄を直接電磁針で突き刺されたような激痛。魁人の右目の視界が、一瞬にして激しい砂嵐(スノーストーム)で埋め尽くされた。一時的な電脳色盲どころではない。網膜UIが完全にクラッシュし、緑色のワイヤーフレームすら見えない暗黒の世界へと叩き落とされたのだ。
【警告:UI_CRITICAL_ERROR(視覚データ破損)】
【エラー:外部認識率0.00%。コマンドラインの非表示状態】
暗闇。何も見えない。エリカが今どこを落下しているのか、デーモンが次にどこから攻撃を仕掛けてくるのか、視覚的な情報は一切遮断された。プロト・ターミナルの画面をタッチして操作することなど、物理的に不可能な状況だ。
(落ち着け……パニックになるな。ロジックを回せ)
魁人は呼吸を整えた。宗一郎から伝授された精神規律「ロジック・マインド」を強制起動する。激鐘のように脈打つ心拍数を、毎分六十回へと強引に引き下げる。感情の揺らぎを排し、脳の演算領域を完全なシータ波へと遷移させた。視覚が死んだのなら、他の感覚でコードを記述するまでだ。
魁人はキーボードのホームポジションに指を置いた。「F」と「J」のキートップにある、物理的な微小な突起。素肌に伝わるその冷たい感触だけが、暗闇の中の唯一の道標だった。指先がキーの配置を脳内マップと同期させる。
ピコ……ピコピコ……ピ、ピ、ピ!
その時、魁人の肩口から浮遊した「プロトタイプ・ビット」が起動音を鳴らした。ビットは魁人の失われた視覚を補うため、周囲の重力波の変動とデーモンの座標データを、リアルタイムで高低音の音響信号(オーディオ・パルス)へと変換し、魁人の脳波レシーバーへと直接送信し始めたのだ。
高音は垂直軸(Y)、低音は水平軸(X)。パルスの間隔が狭まるほど、対象が接近していることを示す。
「ピ、ピ、ピピピピ――」
(そこだ。エリカの落下予測座標、高度二メートル)
魁人は目を閉じた。視覚のノイズを完全にシャットアウトし、指先の物理的感覚と、耳の奥で鳴り響くビットの音響コードだけに全神経を集中させる。これぞ、敵を見ずに世界を書き換える不意打ち技術「Blind Hack(ブラインドハック)」の極致。
エリカの激突まで、あと〇・一秒。
カチャカチャカチャカチャカチャッ!
静寂に包まれた無重力の空間に、小気味良くも凄まじい速度の打鍵音が響き渡った。魁人の両手が、残像を伴ってキーボードの上を疾走する。感覚の麻痺した右手の震えを、左手の完璧なサポートで補いながら、一文字の誤字(タイピングミス)も許されない構文を高速で叩き込んでいく。
『M-O-D_G-R-A-V-I-T-Y_0』――[ENTER]!
重厚なエンターキーの打鍵音が、宮下公園の空間を物理的に震わせた。
次の瞬間、エリカの落下軌道上にある「空気の密度定数」のコードが、上書きされた。彼女が激突する寸前の空間に、ダイヤモンド並みの密度を持つ「不可視の空気のクッション」が局所生成されたのだ。さらに、魁人はエリカ自身の肉体の質量パラメータを一時的に「ゼロ(Mass=0)」に書き換えることで、5Gの重力加速度がもたらす致命的な物理エネルギーを、論理的に完全に無効化した。
フワッ、とエリカの身体が、地面のわずか数十センチ手前で静止した。5Gの重圧から解放され、彼女は空中で自由を取り戻す。
「え……? 重力が、消えた……?」
エリカは驚愕に目を見開いた。自らの身体が、一切の質量を持たない羽毛のように宙に漂っている。彼女はすぐに、目の前で目を閉じ、出血する右目を押さえながらキーボードを抱えて浮遊する魁人の姿を捉えた。
「あなた、まさか……!」
「神崎、喋るな! デーモンの核(コア)を狙え!」
魁人が叫んだ。ビットの音響信号が、デーモンの胸部にある「演算ノード」の防御隔壁が一瞬だけ開いたことを告げていた。エリカを救うためのハックの余波で、周囲の重力定数が一時的に「G=0」へと強制同期され、デーモン自身の姿勢制御プログラムに一瞬の遅延(ラグ)が発生したのだ。
「言われなくても……!」
エリカはアスリートとしての驚異的な反射神経で、宙に浮遊する自動販売機の残骸を物理的に蹴り飛ばした。無重力空間を弾丸のように滑走し、デーモンの顔面へと肉薄する。彼女の特注グローブ「ビート・マスター」が、青いコンバット・パケットの光条を激しく散らした。
「ハアアアッ!」
エリカの放った渾身の打撃が、デーモンの顔面に直撃した。バキィィィン! とガラスが割れるような音が響き、デーモンのエメラルドグリーンの外殻が砕け散る。その奥に、脈打つ緑色の球体――システムの不整合の根源である「核」が露出した。
「カイト、今よ!」
エリカの声が響く。魁人は目を閉じたまま、かつて「グリッチ・ウルフ」との戦闘で身体に叩き込んだ、敵のデータ更新の「同期タイミング(フレーム)」を脳内でカウントした。デーモンの核が再起動するまで、残り〇・五秒。
魁人の指先が、キーボードの右端にある「DEL」キーへと引き絞られた。
(消えろ、世界のバグ)
ガツン!
渾身の力で叩き込まれた「DEL」キーの打鍵音が、暗黒の視界の中で鮮やかな緑色の波紋となって広がった。魁人のプロト・ターミナルから放たれた消去コマンド「Delete」のパケットが、ビットの誘導信号に乗ってデーモンの核へと一直線に突き刺さる。
ズズズ、ズガァァァァン!
デーモンの巨体が激しくグリッチを起こし、エメラルドグリーンのバイナリコードへと分解され始めた。光の粒子が、宮下公園の夜空へと美しく霧散していく。それと同時に、公園を支配していた無重力バグ領域が解除され、宙に浮いていたベンチや自販機の破片が、一斉に本来の重力に従って地面へと落下した。
「きゃっ……!」
エリカとルカが地面に尻餅をつく中、魁人もまた、重いキーボードを抱えたまま芝生の上へと着地した。右目の砂嵐が徐々に引き、モノクロームのワイヤーフレームの世界が戻ってくる。右腕の痺れは肘のあたりまで進行しており、激しい疲労感で立っていることすら困難だった。
消滅したデーモンの残骸の中心に、一際強く輝く緑色の結晶が浮かび上がっていた。バグモンスターの核から抽出される純粋なデータ――「コア・メモリ」だった。
魁人のプロト・ターミナルが、自動的にその結晶をスキャンし、吸引を開始する。
【コア・メモリの吸収を完了】
【プロト・ターミナルの処理スレッドを拡張:1→2】
【橘美咲の存在データ復元率:15.00%に上昇】
スマホの画面上で、美咲のデータ復元率が「15%」へと跳ね上がった。その瞬間、魁人の網膜UIに、かすかな、しかし鮮明な美咲のホログラムが投影された。
『カイト……ありがとう……私、少しだけ……思い出せたよ……』
ホログラムは一瞬で消え去ったが、その温かいノイズは魁人の胸に確かに残った。美咲はまだ生きている。この世界のどこかで、救い出されるのを待っているのだ。
「はあ、はあ……」
魁人が膝をつき、荒い息を吐きながらキーボードをリュックにしまおうとしたその時、目の前に影が落ちた。
見上げると、そこには息を切らし、土埃に汚れながらも、鋭い眼差しで魁人を凝視する神崎エリカが立っていた。彼女の視線は、魁人の胸元にある「宗一郎モデル」のキーボードと、緑色のノイズが明滅する彼の右目に完全に釘付けになっていた。
「あなた……ただの民間人じゃないわね」
エリカは一歩踏み出し、魁人に冷徹な問いを突きつけた。
「今のハッキング……キーボードの物理打鍵で世界のパラメータを書き換えるなんて、サイバー・アスレチックの公式ルールにも存在しない。あなた、一体何者なの?」
ライバルからの執拗な追及。その問いに魁人が答える間もなく、渋谷の夜空に不気味な赤い警告灯のグリッドが走り始めた。デーモン消滅の瞬間、渋谷セクター全体のセキュリティレベルが「警告(Warning)」に上昇したのだ。管理者の特殊部隊の足音が、遠くから静かに迫りつつあった。
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