第6話:宮下公園の無重力
レトロゲーム喫茶「バグ・イン」の重厚な防音扉を飛び出した瞬間、夜の渋谷の冷気が魁人(カイト)の頬を刺した。
「はあ、はあ……っ!」
魁人は全力でアスファルトを蹴っていた。右腕を抱えるリュックサックの中には、伝説の老ハッカー宗一郎から譲り受けた漆黒のアルミニウム削り出しキーボード「宗一郎モデル」が重く収まっている。だが、それ以上に魁人の胸を圧迫していたのは、右手に握りしめたプロト・ターミナルの画面だった。
【警告:橘美咲の存在データが急速に減衰中】
【データ復元率:9.8%】
【完全ロストまで、残り時間:24分12秒】
(クソ、急がなきゃ美咲が消える……!)
魁人の右目の視界は、すでに色彩を失っていた。熱暴走の代償として引き起こされた一時的な「電脳色盲」。世界は冷徹なモノクロームのワイヤーフレームで描かれ、異常が発生しているノードだけが、不気味なエメラルドグリーンのエラーログとして明滅している。宮下公園の方角の空には、まるで空間が引き裂かれたかのような巨大なグリッド線のノイズが渦巻いていた。
ハッキングを繰り返すたびに、魁人の脳メモリは不可逆的に摩耗していく。こめかみには先ほどの熱暴走の鈍痛が残っていたが、杏奈に打たれた「抗ウイルスバッファ」の冷たい感覚が、辛うじて彼の理性を繋ぎ止めていた。
道玄坂を駆け上がり、再開発された空中公園――宮下公園へと続く階段を一気に駆け上がる。夜間の閉園時間を過ぎた公園は静まり返っているはずだった。しかし、魁人が最上階の芝生エリアに足を踏み入れた瞬間、異様な感覚が全身を襲った。
「……!?」
足が、地面を捉えられない。
芝生を踏みしめたはずの身体が、ふわりと重力を失って宙に浮き上がった。まるで水中に投げ出されたかのように、身体の軸が定まらない。周囲を見渡せば、植栽の葉やちぎれた芝生が、ゆっくりと空中に静止している。宮下公園全体が、物理法則の崩壊した「ゼロ・グラビティ・アレイ」へと変貌していた。
「キャーーーッ! みんな見て見て! これ、マジでヤバくない!?」
静寂であるべき空間に、場違いな甲高い叫び声が響いた。
ネコミミ型のスマートグラスをかけ、ピンク色のツインテールを揺らした少女が、自撮り棒を片手に宙に浮きながらはしゃいでいる。迷惑系配信者のルカだった。
「宮下公園が完全に浮いてるの! 超リアルなARグリッチ演出!? 視聴者のみんな、高評価とチャンネル登録よろしくね!」
ルカが配信アプリを起動しているせいで、周囲のローカル帯域は彼女の送信パケットで異常に混雑していた。プロト・ターミナルの回線速度(Ping)が急激に低下していく。魁人の網膜UIに赤い警告灯が明滅した。
『警告。周辺トラフィックの過密により、コマンドのパケット送信に遅延が発生しています。予測遅延:1.2秒』
「邪魔だ、どけ!」
魁人がルカに向かって叫ぼうとしたその時、暗闇からもう一つの影が弾丸のように飛び出してきた。
「下がってなさい、民間人!」
凛とした少女の声。ポニーテールを揺らし、活動的なスポーツウェアに身を包んだ少女――神崎エリカが、手にした特注グローブ「ビート・マスター」を青く輝かせながら、無重力空間のベンチを蹴って跳躍した。
「ここから先はサイバー・アスレチックの領域じゃない。本物のバグが発生してるわ!」
エリカが叫んだ瞬間、公園の中央の空気が激しく歪んだ。エメラルドグリーンのバイナリコードが螺旋を描いて収束し、半透明の巨大な悪魔の姿を形作っていく。宮下公園の空間演算プログラムが暴走して誕生した中ボス、「バイナリ・デーモン」だった。
ズゥゥゥン、と鼓膜を揺らす重低音のノイズが響き、デーモンがその巨大な腕を振るった。
デーモンが咆哮すると同時に、周囲の自動販売機が基礎ボルトを引きちぎられ、無重力の中でデーモンの周囲へと吸い寄せられていく。デーモンはそれらを巨大な弾丸のように、魁人たちに向けて次々と射出した。
「くっ……!」
エリカは空中で身を翻し、浮遊するベンチを足場にして華麗に回避した。だが、自販機の一台が魁人の正面へと一直線に迫る。
魁人はリュックから「宗一郎モデル」のキーボードを引き抜き、プロト・ターミナルに物理接続した。指先がホームポジションを捉える。右腕の痺れに耐えながら、迫り来る自販機に向けて「Delete」のコマンドを叩き込もうとした。
『D-E-L――』
しかし、打鍵が完了する直前、右目のUIが激しい赤色のエラーメッセージを吐き出した。
【警告:CONFLICT_DETECTED(演算衝突)】
【エラー:ダブルハック(重複書き換え)の禁止規則に抵触】
「しまっ……!」
その自販機には、すでにデーモンが書き換えた「質量ゼロ」と「推進ベクトル」のコードが常駐していた。システムの絶対ルール――同一オブジェクトに対する複数ハックの禁止。敵のコードを一度「Delete」で初期化せずに、上からさらにコマンドを重ねようとしたため、魁人のプロト・ターミナルは強烈な演算衝突(クラッシュ)を起こした。
バチバチッ! とターミナルの画面が激しいノイズとともにフリーズし、魁人の指先に軽い電撃が走る。
さらに最悪なことに、ルカの配信を視聴している数万人のパケットが、混雑したノードを通じて魁人の端末へ逆流してきた。バックグラウンド処理がパンクし、プロト・ターミナルのバッテリーが一気に20%も強制消費される。
「きゃああっ!?」
ルカの自撮り棒がデーモンの放った衝撃波で粉砕され、彼女は悲鳴を上げて無重力空間の彼方へと吹き飛ばされた。配信アプリが検閲システムに引っかかり、彼女のスマートグラスに「違反検知:配信強制終了」の文字が明滅する。
「うそ、私の配信が……!」
「遊んでる場合じゃないって言ったでしょう!」
エリカが空中を蹴り、デーモンの背後へと回り込もうとした。彼女の「ビート・マスター」グローブから、攻撃パケットの光条が放たれる。しかし、デーモンは冷酷にその赤い単眼を明滅させた。
デーモンが、エリカの空間座標をロックオンする。その周囲の重力定数(G)のコードが、一瞬にして書き換えられた。
【Modify: Gravity_Constant = G_5】
「え――」
エリカの表情が凍りついた。無重力だった彼女の身体に、突如として通常の5倍の重力――「5G」の超重圧がのしかかった。空中にいた彼女の身体は、目にも留まらぬ速度でコンクリートの地面へと叩きつけられそうになる。
「が、は……っ! 身体が、動か……っ!」
5倍の質量となった彼女の肉体が、空気の壁を切り裂きながら落下していく。この速度で地面に激突すれば、骨が砕けるだけでは済まない。
(まずい、エリカが潰される!)
魁人は無重力の中で必死に身体を安定させようとしたが、足場がないため姿勢が定まらない。重い「宗一郎モデル」を抱えたまま、宙で身体が不格好に回転する。
エリカが地面に激突するまで、残り時間は3秒。
(どうする!? エリカを直接ハックして重力を戻すか? ダメだ、彼女の肉体はすでにデーモンの重力コードでロックされている。直接ハックすれば、また『ダブルハック禁止』の規則に引っかかってクラッシュする!)
敵のハックを直接打ち破ることはできない。ならば、別のオブジェクトをハックして、その物理法則を書き換えるしかない。
魁人の脳細胞が、極限の熱量で稼働し始めた。モノクロの視界の中で、エリカの落下軌道上にある「空気」のソースコードが、緑色のワイヤーフレームとして浮かび上がった。
(オブジェクトを『エリカ』ではなく、彼女の下にある『空気の質量』に指定する。空気の密度を最大化して、クッションを作る!)
魁人は宙に浮いた状態で、キーボード「宗一郎モデル」を両手で無理やり固定した。感覚の鈍り始めた指先を、ホームポジションへと叩きつける。
エリカの激突まで、残り2秒。魁人の神速のタイピングが、無重力の静寂の中に響き渡ろうとしていた。
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