第5話:ダイヤモンド・パーカー
ジジジ、と鼓膜を焼き切るような高周波の摩擦音が、地下室の冷え切った空気を引き裂いた。
シンの「高周波電磁ブレード」の真っ赤に熱した刃先が、魁人の首元に完全に接触していた。だが、刃は魁人の皮膚を裂くことはなかった。接触した瞬間、魁人のまとう黒いナノファイバー製タクティカルパーカーの襟元から、鮮烈なエメラルドグリーンの光が波紋のように放射された。ハニカム構造の幾何学的なバイナリコードが幾重にも重なり合い、物理的な盾となってブレードの突進を完全に阻んでいた。
「な……にッ!? なんだこの硬さは!」
シンが驚愕の声を上げ、太い腕の筋肉をきしませてさらにブレードを押し込む。しかし、火花が激しく飛び散るだけで、刃先は1ミリも前進しない。それどころか、金属の結合を破壊するはずの高周波振動が、魁人のパーカーに触れた瞬間にまるで砂が水に吸い込まれるように、急速に減衰し、無効化されていく。
「無駄だ」
魁人の右目の奥で、緑色のシステムUIが冷酷に明滅していた。視界はすでに色彩を失い、冷たいモノクロームの世界へと反転している。その網膜に、シンのブレードから放出される物理振動の周波数グラフがリアルタイムで投影されていた。
(シンのブレードの振動数は毎秒4万8千ヘルツ。このパーカーの分子結合コードを、その振動に対する完全な『不感帯』へ書き換えた。結合を強めて防いだんじゃない。結合破壊のロジックそのものを上書きしたんだ)
「Modify(属性操作)――パラメータ『分子密度(Density)』、最大値100」
魁人の平坦な声が、レトロゲームの電子音に混ざって響く。彼がキーボード「宗一郎モデル」で超高速入力した『M-O-D_D-E-N-S-I-T-Y_1-0-0』の構文が、世界の物理法則を「上書き(オーバーライド)」していた。パーカーの繊維は今や、ダイヤモンド以上の硬度を誇る絶対の防壁と化している。
「クソがッ! 小細工を!」
シンが体勢を立て直そうと、ブレードを引き戻し、強引に一歩後退しようとした。巨体に見合わぬ素早い引き際。だが、ハッカーの領域に踏み込んだ肉体派の戦士に対し、魁人の論理的思考はすでにその先を演算していた。
(決闘を長引かせるのは自殺行為だ。Modifyの維持だけで脳メモリを常時40%消費している。右腕の痺れも酷くなっている……次の一手で、強制終了させる)
シンが一歩を踏み出し、地面を蹴ろうとしたその一瞬の隙。魁人の両手が、重厚なアルミ削り出しのキーボードの上で目にも留まらぬ速度で躍動した。カチャカチャカチャカチャッ! 小気味良い、しかし金属的な神速の打鍵音が地下室に鳴り響く。右手の感覚が麻痺し始めている焦燥を、宗一郎から伝授された精神規律「ロジック・マインド」で強引に抑え込み、脳波を完全な論理思考へと固定する。指先がホームポジションの突起を正確に捉え、コマンドをコンパイルした。
「Loop-Trap(無限ループ)――条件定義『while(true)』」
魁人が「ENTER」キーを強打した瞬間、シンの足元のアスファルトに、エメラルドグリーンに輝く巨大な無限ループの記号(∞)が投影された。シンの身体が、奇妙なグリッド線のノイズに包まれる。
「が、あ……っ? 身体が、動か……っ!」
シンが目を見開いた。彼は一歩後ろに下がろうとしたはずだった。だが、彼の右足が地面に着地した瞬間、まるで巻き戻されたビデオテープのように、彼の身体は一瞬前の「足を引く動作」の開始地点へと強制的に引き戻された。そして再び足を引こうとし、また引き戻される。カクカクとした、ゲームのバグのような不自然な動作を、シンは狂ったように繰り返し始めた。
「おい、なんだこれ! 何のバグだッ!」
シンが叫ぼうとするが、その声さえも「おい、な、おい、な」と無限ループのノイズに遮られる。彼がどれだけ筋力を引き上げようとも、システムが彼の「一歩下がる」という物理動作の終了フラグを削除してしまった以上、その動作から抜け出すことは論理的に不可能だった。
「そこまでよ、シン。みっともない真似は止めなさい」
カウンターの奥から、柊杏奈の冷徹な声が響いた。彼女は手に持っていたグラスを静かに置くと、魁人に向かって小さく頷いた。
「緑のノイズくん、コマンドを解放してあげて。シンの負けよ」
魁人は無表情のまま、キーボードの「ESC」キーを物理的に長押しした。足元の∞の記号が霧散し、シンは激しく息を荒くしながら床に膝をついた。高周波電磁ブレードの光刃が消え、ただの金属のグリップが床に転がる。シンは信じられないといった目で魁人を睨みつけたが、その瞳には明らかな恐怖が宿っていた。
「……信じられねえ。あの至近距離で、ブレードの周波数をスキャンしてパーカーの硬度を書き換えたってのか? しかも、打鍵ミス一つなしで『while(true)』を仕込みやがった……」
「見事なデバッグ戦術ね」
杏奈がゆっくりと拍手をしながら、決闘リングへと近づいてきた。彼女の赤いメッシュの入った黒髪が、ブラウン管モニターの蜜色の光に照らされている。
「シンのブレードの特性を瞬時に見抜き、直接ハックするのではなく、自分の装備を Modify して無力化する。さらに、シンの踏み込みの慣性を利用して『Loop-Trap』で完全ロック。ただのスクリプトキディじゃない。君のタイピング速度と、危機的状況での論理的思考力は、本物の『ソースコード操作者』のものよ」
杏奈は魁人の前に立ち、胸元のシルバーリングを輝かせながら、不敵な笑みを浮かべた。
「歓迎するわ、神代魁人。デバッガー同盟『バグ・イン』へ。君のその力、私たちの組織にはどうしても必要なの」
「俺は、仲間ごっこをしにここに来たんじゃない」
魁人はキーボードの接続を切り、冷たく言い放った。その声には感情の起伏が全くなかった。だが、その直後、魁人の身体を激しい異変が襲った。
「が、はっ……!」
突如、魁人のこめかみから、焼き切れるような激しい熱量が発生した。視界が激しくブレ、モノクロの世界が赤いノイズで埋め尽くされる。右目の奥から、たらりと一筋の鮮血が流れ落ち、頬を伝った。脳が沸騰するような凄まじい頭痛に、魁人は思わず膝をつき、キーボードを床に落としそうになった。
【警告:脳メモリ使用率 88%】
【危険:電脳熱暴走(サーマルフロー)の兆候を検出】
網膜UIに、シオンの青いアバターが警告のグリッド線を激しく明滅させて現れた。
『ユーザー神代魁人、警告します。短時間でのDeleteコマンドの連用、およびModifyの維持、Loop-Trapの同時詠唱により、あなたの脳神経細胞が許容電位を超えています。このまま接続を維持すれば、末梢神経が不可逆的に焼き切れます』
「はあ、はあ……クソ、脳が……熱い……!」
(これが、システムをハックする代償か。Deleteを使うたびに、俺の脳メモリが摩耗していく。今回はさらに Modify まで使った……。このままじゃ、美咲を救う前に俺の脳が廃人にされる)
視界が完全にモノクロの砂嵐に包まれ、魁人の意識が闇に沈みかけたその時、冷たい感触が彼の首筋に触れた。
プシュッ、と微細な高圧ガスの音が響く。直後、凍りつくような冷気が魁人の頸動脈を通じて脳内へと一気に駆け巡った。沸騰していた脳神経が、急速に冷却されていくのが分かった。頭痛が引き、視界の赤い警告灯が徐々に消え去っていく。
「無理は禁物よ、緑のノイズくん」
杏奈が、空になった金属製のインジェクターを手に、魁人を見下ろしていた。彼女の指先には、まだ微かに青い冷却用のナノマシン液が残っている。
「それは『抗ウイルスバッファ(プロトタイプ)』。私たちの提携している闇医者ユーリが作った、電脳熱暴走用の緊急冷却剤よ。ハッカーが脳を焼かれるのを防ぐためのね。君の右腕の痺れ、そして右目の異常……。君の身体は、すでにシステムの負荷で悲鳴を上げているわ」
魁人は荒い呼吸を整えながら、首筋を押さえた。冷たいナノマシンが神経を修復していく感覚とともに、失われかけていた右手の感覚が微かに戻ってくる。
「……なぜ、俺を助ける」
「言ったでしょう、君の力がどうしても必要なの」
杏奈は魁人を立たせると、店の奥にある重厚な防音壁の一部をハックして開いた。そこには、現実の渋谷の地下には存在し得ない、真っ白な静寂の仮想空間へのゲートが広がっていた。
「ここは『サンドボックス・ドーム』。かつて伝説のハッカー、澁谷宗一郎が開発者権限を使ってシステム内に隠した、完全なプライベートテスト空間よ。現実世界に一切の影響を与えず、管理者機関の監視AI『アイズ』からも100%検知されない。新しいコマンドの練習や、身体の冷却には最適な場所よ。ここを君に提供するわ」
「サンドボックス……」
魁人はその真っ白な空間を見つめた。外の世界のあらゆるノイズから遮断された、完璧なデバッグ環境。ここでなら、自分の「Delete」や「Modify」の精度を、誰にも知られずに鍛え上げることができる。
だが、魁人がその聖域に一歩を踏み出そうとしたその瞬間。彼のポケットの中で、プロト・ターミナルが激しく震動した。鼓膜を突き刺すような、けたたましい警告アラートが地下室に鳴り響く。
「美咲……!?」
魁人は慌ててスマホを取り出した。画面には、赤く明滅する最優先警告ログが、冷酷な数値を弾き出していた。
【緊急警告:橘美咲の存在データが急速に減衰中】
【データ復元率:15.02% >> 9.8%】
【ロストまで、残り時間:30分】
「嘘だろ……なんで急に減衰が始まったんだ!」
シオンの青いアバターが、悲壮な表情でログをスクロールする。
『ユーザー魁人、渋谷セクターの重力ノードが管理者の手によって再起動(リブート)されかけています。美咲の残存パケットが、宮下公園のバグ領域へと強制吸引されています。このまま復元率が10%を切れば、彼女の存在定義ファイルはシステムから完全に永久消去(フォーマット)されます』
「宮下公園……!」
魁人はキーボード「宗一郎モデル」を力強く握りしめ、地下室の扉へと視線を向けた。右目の視力は低下し、世界はモノクロのままだ。脳の熱暴走の余熱も完全に引いてはいない。だが、彼に迷っている時間は1秒も残されていなかった。
「待ってろ、美咲……今、行く」
魁人はフードを深く被り、冷たいコンクリートの通路へと向かって、再び走り出した。
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