第4話:地下のバグ・イン
「――いい打鍵音ね。今のデリート、何ミリ秒で叩き込んだ?」
暗闇の奥から、赤いメッシュの入ったライダースジャケットを羽織った女が、静かに姿を現した。
道玄坂の狭い路地裏。抉り取られたコンクリート壁の断面から立ち上る、電子の焦げたような不気味な臭い。神代魁人は、両手で抱えた漆黒のメカニカルキーボード「宗一郎モデル」を構えたまま、その女を鋭く睨みつけた。
「誰だ……」
魁人の右目に投影された緑色のシステムUIが、女の身体をスキャンしようとグリッド線を走らせる。だが、彼女の周囲の空間は、強力なノイズシールドによって完全に防護されていた。スキャナーは『`ACCESS DENIED̀』の赤いエラーログを虚しく吐き出すだけだ。ただ者ではない。魁人の直感がそう告げていた。
「警戒しないで。私は柊杏奈。君たちと同じ、この狂った世界の『バグ』を追いかけているデバッガーよ」
女――杏奈は、シルバーのリングがいくつも嵌められた指先で、自身のサイドカットされた黒髪を軽くかき上げた。その背後、路地の暗闇から、さらに数人の影が音もなく現れる。全員がタクティカルギアを身に纏い、手元にはハッキング端末を忍ばせている。地下組織「バグ・イン」のメンバーたちだった。
「神代くん、まずい!」
魁人の背後で、織田レンが残された唯一のスマートフォンを凝視しながら悲鳴のような声を上げた。彼の眼鏡の奥の瞳が、恐怖と焦燥で激しく揺れている。
「警察のサイバー対策課の無線を傍受した……! あの長谷川ってベテラン刑事、ただのデカじゃない。さっきのスクランブル交差点の現場検証で、君が叩いたコンクリートの『打鍵痕』を見つけ出したんだ。物理的なキーの摩耗痕から、犯人が『物理キーボードを武器にする新種のハッカー』だって、もう気づかれ始めてる! 包囲網がこのエリアに絞り込まれてるぞ!」
「チッ……さすがは長谷川刑事、仕事が早いわね」
杏奈は舌打ちをすると、ライダースジャケットのポケットからガムの箱サイズのデバイスを取り出し、スイッチを入れた。「アイズ・ブラインダー」が起動し、周囲の防犯カメラのレンズに向けてダミーのループ映像を放射し始める。
「警察に捕まりたくなければ、私についてきなさい。お喋りは安全な場所でするわ」
魁人は一瞬、その場から逃走する選択肢を脳内で演算した。だが、右腕の痺れ――ウイルスの初期兆候である微細な麻痺が指先をかすめ、脳メモリの使用率はすでに危険領域に近い。レンの言う通り、警察の包囲網が完成すれば、この重い「宗一郎モデル」を抱えて逃げ切ることは不可能です。何より、スマホの中で消えかけている橘美咲のデータを復元するためには、より高度なハッキング環境が必要だった。
「……分かった。案内してくれ」
魁人はキーボードのUSBケーブルをプロト・ターミナルから引き抜き、リュックサックへと滑り込ませた。レンを促し、杏奈たちの先導に従って、ネオンの光が届かない道玄坂の地下通路へと潜り込んでいく。
幾重にも折れ曲がった暗いメンテナンス用の地下道を抜け、彼らが辿り着いたのは、古びた雑居ビルの地下に隠された空間だった。
重厚な防音扉が開くと、そこには現実の渋谷から完全に隔絶された「聖域」が広がっていた。レトロゲーム喫茶「バグ・イン」。
薄暗い店内には、1980年代のブラウン管モニターが不気味なハチミツ色の光を放ち、スペースインベーダーやパックマンといった旧時代のアーケード筐体が並んでいる。空気中に漂うハンダ付けの焦げた匂いと、淹れたての苦いコーヒーの香り。壁一面に敷き詰められた電波シールドが、管理者機関の超巨大監視AI「アイズ」の検閲電波を100%シャットアウトしていた。
「ここなら安全よ。システムの目も、警察のGPSもここには届かない」
杏奈がカウンターの奥に腰掛け、魁人たちを見据えた。レンはそのレトロな機材の山に目を輝かせ、すぐに手持ちのスマホを店のプライベート・イントラネットに接続し始めた。
だが、魁人が一息つく間もなく、店の奥の暗闇から巨大な影がぬっと進み出てきた。
「おいおい、アネさん。冗談だろ」
床を軋ませながら現れたのは、筋骨隆々の大柄な男だった。防弾ベストを着用し、顔面には鋭い刃物で切り裂かれたような大きな傷跡がある。その手には、不気味に赤く明滅する金属製のグリップが握られていた。用心棒のシンだ。
「こんな素性も分からねえガキをアジトに入れるなんて、何のつもりだ? 渋谷のバグをDeleteしたって噂の『緑のノイズ』が、こんなもやし野郎だとは信じられねえな。画面の前でしかイキがれないスクリプトキディの類いじゃねえのか?」
シンの三白眼が、魁人の抱える「宗一郎モデル」を値踏みするように睨みつける。
「シン、口が過ぎるわよ。彼のタイピング速度は本物よ」
杏奈が制止しようとするが、シンは鼻で笑い、赤く光るグリップのスイッチを押し込んだ。
キィィィン――!
鼓膜を物理的に引き裂くような高周波の駆動音とともに、グリップから超高周波で振動する漆黒のブレードが伸長した。「高周波電磁ブレード」。触れた物質の分子結合コードを一時的に緩め、あらゆる金属すらバターのように切り裂く、物理介入型の最悪の近接武器だ。
「アネさんが認めても、俺は認めねえ。バグ・インに入りたきゃ、俺のテストをパスしてみな。お前がハックを完了させるのが先か、俺のブレードがお前の指を切り落とすのが先か――『入会タイピング決闘』だ」
「決闘……!? おい、神代くん、そんなの無茶だ!」
レンが止めようと叫ぶが、シンはすでに低く身を構えていた。シンの周囲の空気が、ブレードの高周波振動によって陽炎のように歪んでいる。
魁人は無表情のまま、リュックサックから「宗一郎モデル」を取り出し、プロト・ターミナルに物理接続した。緑色のバックライトが、再びキーボードの底から脈打つように発光する。
(近接ゼロ距離。ハッカーにとって最も脆弱な間合い……。論理的に考えて、まともにタイピングする時間はない。だが、やるしかない)
「いいだろう。テストを始めろ」
魁人の右目に、再び緑色のシステムUIが起動した。戦闘開始(コンパイル)のシグナルが、静かに明滅する。
「ハッ! 泣き言を言うなよ、もやし野郎!」
シンが地を蹴った。その巨体からは想像もつかない爆発的な瞬発力。ハッカーの最大の弱点である「近接ゼロ距離」が、一瞬にして構築される。シンの振り下ろした高周波電磁ブレードが、赤い残像を描きながら魁人の脳天めがけて迫る。
魁人は後退する時間が物理的に足りないと判断。瞬時に「宗一郎モデル」のアルミニウム削り出しの筐体を両手で掲げ、シールドとして物理的にブレードを受け止めた。
ギィィィン――!!!
金属とデジタルノイズが衝突する、鼓膜が焼き切れそうな激しい高音。キーボードの表面を、高周波の火花が激しく走り抜ける。強烈な物理的衝撃が魁人の両腕を伝い、脳髄まで痺れが走った。腕の骨がきしみ、キーボードを支える指先の感覚が、一瞬にして麻痺しかける。
「が、はっ……!」
「おいおい、キーボードを盾にするなんていい度胸だが、それじゃあコードは打てねえぞ!」
シンがさらに力を込め、ブレードを押し込んでくる。ブレードの放つ高周波振動が、キーボードを介して魁人のタクティカルパーカーの繊維に伝わり、右肩の布地がピクセル状に細かく切り裂かれ始めた。このままでは、パーカーごと肉体データの分子結合を破壊され、右腕を失う。
魁人はキーボードを斜めに傾け、シンのブレードを物理的に受け流しながら、強引に一歩後退した。コンクリートの床を靴底が滑る。わずかに生じた、コンマ数秒の猶予。
(敵のブレードのソースコードを直接消去する――)
魁人は指先をキーボードのホームポジションへと走らせた。打鍵を開始しようとする。だが、シンの突進スピードは魁人の想定を遥かに超えていた。体勢を崩した魁人の眼前に、シンの第二撃が、今度は横薙ぎに迫る。ターゲットは、魁人のキーボードを握る両手だ。
(速すぎる。タイピングの物理的なブレで照準が合わない!)
焦りから指がキーを押し間違える。右目の視界に『`Syntax Error̀』の警告が赤く明滅した。コマンドが不発に終わる。シンのブレードが、魁人の指先を切り裂く寸前まで肉薄した。
「ハハッ! 焦って誤字(バグ)ったな! 終わりだ!」
シンが勝ち誇ったように叫び、ブレードの出力を最大にした。ブレードの刀身が真っ赤に発熱し、魁人の首元へ向けて、一撃必殺の軌道で突き出される。
タイピングを完了させるまでの猶予は、残り「0.5秒」。
魁人の右目のスキャナーが、迫り来るシンのブレードの「高周波振動コード」をミリ秒単位で解析した。直接ブレードをDeleteすることは不可能。シンのシールドのファイアウォールが、外部からの消去パケットを完全に拒絶している。
(ブレードをハックできないなら、ターゲットを変更する。書き換えるべきは、俺自身の――)
極限の集中力の中、魁人の脳波が論理演算のシータ波へと強制遷移した。右腕の痺れをロジック・マインドでねじ伏せ、指先がキーボードの上で目に見えない速度で動き出す。カチャカチャカチャカチャッ! 摩擦熱を帯びたキースイッチが、悲鳴のような超高速の打鍵音を路地裏の地下室に響かせた。
シンのブレードの先端が、魁人の首元の皮膚に触れ、熱いデジタルノイズの火花が散る。
その瞬間、魁人の指先が「ENTER」キーを強打した。キーボードの緑色のバックライトが、爆発的な輝きを放ち、魁人の黒いタクティカルパーカーの表面に、ハニカム構造の緑色のバイナリ環が浮かび上がった。
「な……ッ!?」
シンの目が見開かれる。ブレードの刃先が、魁人の首元で完全に静止していた。分子結合を緩めるはずの高周波ブレードが、魁人のパーカーの繊維を1ミリも切り裂くことができず、激しい火花を散らすだけで押し留められているのだ。
「Modify(属性操作)――硬度パラメータ、最大化」
魁人が感情の消えた平坦な声で呟いた。彼のパーカーの分子結合硬度は、今やダイヤモンドをも凌駕する絶対的な防壁へと書き換えられていた。
シンのブレードが、魁人の首元の防壁を突き破るかどうかの極限の瞬間。打鍵の残響が、レトロゲームの電子音と混ざり合いながら、地下室に冷たく響き渡っていた。
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