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第3話:ノイズの鳴る路地裏

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不気味に蠢く防犯カメラのレンズから逃れるように、神代魁人は道玄坂の薄暗い路地裏へと滑り込んだ。


 頭上を走る高架線から、電車の通過に伴う重々しい振動が降ってくる。湿ったアスファルトの臭いと、ゴミ箱から漂う饐えた臭気が鼻腔を突いた。壁面に並ぶピンクや青のネオンサインが、雨上がりの水たまりに反射して、歪んだ光のモザイクを描いている。


「はぁ、はぁ……っ……!」


 魁人は濡れたコンクリートの壁に背を預け、激しく上下する肺を震わせた。黒いパーカーのフードを深く被り、周囲の闇に同化しようと身を潜める。


 右目が、狂ったように熱い。網膜の視界を侵食する緑色のシステムUIが、ネオンに照らされた路地裏の景色を「ソースコード」へと強制的に翻訳し続けていた。配電盤からはノイズの糸が伸び、錆びついた非常階段の鉄骨には、その構造強度を定義する『`Hardness: 45`』というバイナリの数値が明滅している。世界の「皮」が剥がれ、剥き出しのプログラムコードが視界を埋め尽くすこの感覚に、魁人の脳は悲鳴を上げていた。


 ポケットからプロト・ターミナルを引き抜く。液晶画面の端で、かろうじて生き残っている緑色のインジケーターが、心許なく瞬いていた。


【橘美咲:存在データ復元率 15.02%】


「美咲……」


 画面の向こう、砂嵐の奥に沈む彼女のゴーストは静まり返ったままだ。完全に消去されるのを防ぐためには、一刻も早くこの不整合な世界をハックし、失われた彼女のデータ断片を回収しなければならない。だが、今の魁人にはそのための安全な足場すら存在しなかった。


「――やっぱり、君だったんだね、神代くん」


 突如、闇の奥からかけられた声に、魁人の全身の毛毛が逆立った。咄嗟にプロト・ターミナルを構え、声のした方向を睨みつける。


 薄暗い路地の奥、ネオンの光が届かない影から、一人の少年が猫背の体躯を揺らしながら歩み出てきた。ボサボサの髪に、不釣り合いなほど分厚い黒縁眼鏡。都立桜ヶ丘高校の制服のシャツをだらしなく外に放り出し、両手にはそれぞれ異なるメーカーのスマートフォンを握りしめている。魁人のクラスメイトであり、重度の情報オタクとして知られる織田レンだった。


「織田……? なぜお前がここに……」


「なぜって、そりゃあ君を逆探知してきたからだよ!」


 レンは恐怖するどころか、眼鏡の奥の瞳を異常なほどの興奮でギラギラと輝かせていた。彼は手元のスマホの一台を魁人に突き出し、画面に表示された不規則な電波グラフを示した。


「渋谷のスクランブル交差点で起きた『あの現象』の直後から、道玄坂周辺のトラフィックに異常な『空き容量(バッファ)』が発生してたんだ。通常じゃあり得ない、現実の物理演算がクラッシュしたようなノイズ。それを辿っていったら、君のプロト・ターミナルが放つ固有のIPアドレスに突き当たった。確信したよ。君は……君の右目は、この世界の『裏側』が見えているんだろう?」


「お前、何を言っている……」


「隠さなくていいよ! 僕はこういう『バグ』をずっと探してたんだ! この管理され尽くした退屈な東京の、システムの隙間に潜む真実をね!」


 レンは狂信的なハッカー特有の早口でまくしたて、一歩、また一歩と魁人に近づいてくる。その眼差しは、未知の超常現象を目撃した科学者のそれだった。


「君のハッキング、技術的にはまだ荒削りだけど、パケットの通し方が異常に速い。僕の情報分析能力があれば、君のナビゲーターになれる。相棒として僕を使いなよ、神代くん。スリル満点のデバッグ作業、僕も一枚噛ませてくれ!」


 魁人は絶句した。世界中が自分を「テロリスト」と誤認し、妹すら美咲の存在を忘れてしまったこの孤独な戦いの中で、目の前の男はただの好奇心とスリルのために、自ら奈落へ飛び込もうとしている。


 だが、拒絶の言葉を紡ぐ時間は、世界によって無慈悲に奪われた。


 キィィィン――。


 耳を刺すような、金属的な超高周波のノイズが路地裏に響き渡った。ネオンの明かりが一瞬にして激しく明滅し、水たまりの水面が、まるで物理演算のバグを起こしたように四角いピクセル状に波打ち始める。


「……ッ! くるな、織田!」


 魁人はレンの胸元を押し込み、背後の壁へと突き飛ばした。直後、二人が立っていたコンクリートの地面が、緑色のノイズを放ちながら「四角く削り取られる」ように消滅した。


 ビルの壁面を蹴り、音もなく着地した影がある。


 それは、ノイズまみれの緑色と黒色のワイヤーフレームで形成された、巨大な狼の姿をしていた。半透明の身体の表面には、読み込みエラーを示す赤い文字列がグリッチ(静電気ノイズ)となって四方に飛び散っている。剥き出しの牙からは、周囲の物質データを分解する微細な火花が滴っていた。システムの速度管理プログラムがバグを起こし、野生の獣のデータと融合して生まれた高速型バグ獣――「グリッチ・ウルフ」だった。


「な、なんだよあれ……! CGのバグが実体化して……!?」


 レンが尻餅をついたまま、初めて恐怖の混じった声を上げた。ハッカーとしての知識はあっても、現実の物理法則を破壊するバグモンスターを目の当たりにするのは初めてなのだろう。


「システムの防衛プログラム、いや、野良のバグ獣だ……! 美咲のデータを喰うために、俺を追ってきたんだ!」


 魁人はプロト・ターミナルを構え、仮想キーボードを展開しようとした。だが、その瞬間、右目の奥を焼くような激痛が走る。


「ぐああっ……!」


【警告:脳メモリ使用率 82%。危険領域】

【シオン:前回の時間遅延(Ping Delay)による神経熱暴走の残渣を検出。脳内直接詠唱を一時ロックします】


 脳内での直接的なコマンド構築(詠唱)が、過負荷によって拒絶された。指先が震え、プロト・ターミナルの画面上のソフトウェアキーボードでは、ミリ秒単位の超高速入力など到底不可能だった。物理的な入力デバイスがなければ、ハックが起動しない。


 グルルルル……。


 グリッチ・ウルフが低周波の唸り声を上げ、その身体が「ブレる」ようにして一瞬で消失した。フレーム飛び(超高速移動)だ。一瞬の後にウルフが実体化したのは、魁人のわずか数メートル手前。空気を切り裂く鋭い爪が、魁人の喉元めがけて振り下ろされる。


「しまっ――」


 魁人は、背負っていたリュックサックのジッパーを力任せに引き裂き、中から「それ」を取り出した。


 漆黒のアルミニウム削り出しで作られた、異様なまでの重厚感を放つキーボード。かつて祖父、神代宗助から譲り受け、かつて伝説の老ハッカー宗一郎が開発したとされるレガシー・メカニカルキーボード「宗一郎モデル」だった。


「指先の感覚を信じろ、カイト。電気の波に呑まれるな」


 脳裏に、頑固だった祖父の言葉が蘇る。魁人はキーボードから伸びる太いUSBケーブルを、プロト・ターミナルの側面に物理接続(プラグイン)した。カチリ、と端子が噛み合う音が響くと同時に、キーボードの全キーの隙間から、鮮やかな緑色のバックライトが脈打つように発光した。


 物理キーボードを両手で構え、ウルフの爪をその頑丈なアルミニウムの筐体で物理的に受け止める。


 ギィィィン!


 金属とデジタルノイズが衝突する凄まじい衝撃。魁人の両腕の骨がきしむような振動が走り、身体が数メートル後方へと弾き飛ばされた。だが、キーボードは無傷だ。キーボードの接続と同時に、魁人の右目に投影されたUIの処理速度が劇的に向上し、コマンドの入力遅延(レイテンシー)がほぼゼロへと短縮されていた。これなら、物理的なタイピング速度がそのまま世界の物理改変速度に直結する。


 しかし、ウルフの動きは速すぎる。ビルの壁から壁へと目にも留まらぬ速度で跳ね回り、残像(グリッチ)だけが四方に飛び散る。魁人の右目のスキャナーでも、その超高速移動の軌道を捉えきれない。照準(ターゲットロック)が合わなければ、一撃必殺の「Delete」コマンドを叩き込むことはできなかった。


「神代くん、ウルフの動きを追おうとするな!」


 背後から、レンの叫び声が響いた。彼は恐怖をアドレナリンでねじ伏せ、二台のスマホの画面を狂ったような速度でタップしていた。


「あいつは超高速で動いてるんじゃない! システムのクロックサイクルの隙間を突いて、描画更新(フレーム)を意図的に飛ばしてテレポートしてるんだ! 僕が周囲のWi-Fiパケットの乱れから、あいつの『次のレンダリング座標』を逆演算する!」


 レンの眼鏡の奥の瞳が、データ解析の狂気で満ちていた。彼は猫背のまま、スマホの画面に表示されるバイナリの濁流を瞬時に読み解いていく。


「くるぞ! 次のフレーム更新は0.3秒後! 出現座標は君の右斜め後方、非常階段の踊り場の真下だ!」


 魁人の右目のUIに、レンが送信した索敵データ「Code-Radar」が同期した。視界の右隅、何もない空間に、赤い「予測出現グリッド」が明滅する。


 魁人は振り返る。そこにはまだ、ウルフの姿はない。だが、彼はレンの言葉を、そして自身の指先を信じた。


 キーボード「宗一郎モデル」のホームポジションに指を置く。右目の「最初のバグ残渣」が、指先の電気信号とキーボードの基板を完全に同期させていた。魁人の指先が、目に見えない速度で動き出す。


 カチャカチャカチャカチャッ!


 静まり返った路地裏に、小気味良く、そして圧倒的に高密度な打鍵音が響き渡る。Cherry製緑軸の重厚なスイッチが底打ちされるたび、漆黒の筐体から緑色の火花が散った。入力するコマンドは、対象の存在定義そのものを世界システムから消去する、デバッガーの基本にして最大の攻撃コード――。


`DEL [target: spatial_coordinate_X34.2_Y12.8_Z1.2]`


 最後の「ENTER」キーを、魁人は力強く強打した。


 カチィン!


 打鍵の完了と同時に、指定された空間グリッドに、緑色の数式で描かれた巨大な「Delete」の防壁が展開された。その0.01秒後、非常階段の影からフレームを飛ばして出現したグリッチ・ウルフが、自らその消去防壁へと突っ込んだ。


 ギャァァァン!


 ウルフが悲鳴に似た高周波のノイズを上げた。消去防壁に接触した瞬間、ウルフの頭部を構成していたワイヤーフレームが、ガラスが砕け散るようにして一瞬で緑色のバイナリコードへと分解され、空気中へと霧散していく。


 ウルフは必死に身体をのけぞらせて逃れようとしたが、魁人は休むことなく次のDelete構文をタイピングした。指先がキーボードの上を滑るたび、打鍵音が路地裏の壁に反響する。


 カチャカチャカチャカチャッ、ターン!


 追撃のDeleteコマンドが炸裂し、ウルフの胴体、そして鋭い爪が次々とデータ分解されていく。最後の一撃がウルフの核(コア)を撃ち抜いた瞬間、巨大なバグ獣の姿は完全に消失し、路地裏には静寂だけが取り残された。


 Deleteの余波により、ウルフの背後にあったビルのコンクリート壁の一部が、まるでスプーンで抉り取られたように完全に消滅し、滑らかな虚無の断面を晒している。レンが持っていたスマホの一台は、過度な演算処理の負荷に耐えかねて内部から煙を吹き、ドロドロと融解し始めていた。


「はぁ……はぁ……」


 魁人はキーボードを抱えたまま、激しい息を吐き出した。右腕が激しく痺れ、脳波が急激に冷却されていくのを感じる。右目の視界から緑色のコードが消え、元のモノクロに近い夜の路地裏へと戻っていった。


「す、すげえ……本当に、世界を『消去』しやがった……」


 レンは融解したスマホを地面に放り出し、残されたもう一台のスマホを握りしめながら、狂喜の笑みを浮かべて立ち上がった。彼の眼鏡の奥の瞳には、神代魁人という「特異点」に対する、絶対的な信頼と狂信が宿っていた。


「決まりだ、神代くん。君のその打鍵速度と、僕の解析能力があれば、この狂った世界のシステムなんていくらでも上書きできる。美咲ちゃんのデータも、絶対に復元できるはずだ!」


 魁人は、レンの差し伸べた手を見つめ、静かにその手を握り返した。孤独だった戦いに、初めて「相棒」ができた瞬間だった。


 だが、その安堵は、路地裏の闇を切り裂く「足音」によって遮られた。


 コツ、コツ、コツ――。


 濡れたアスファルトを叩く、静かで、規則正しいヒールの音。魁人がハッキングの打鍵音を響かせすぎたのだ。その音が、渋谷の闇に潜む「別の存在」を引き寄せていた。


 魁人とレンが息を呑み、路地裏の奥を睨みつける。ネオンの明かりが届かない闇の境界線から、一人の女性がゆっくりと姿を現した。


 黒いタイトなインナーの上に、赤いメッシュの入ったライダースジャケットをルーズに羽織っている。サイドカットされた漆黒の髪の間から、鋭い眼光を放つ瞳が、魁人の抱えるアルミニウムのキーボードへと向けられた。


「――いい打鍵音ね。今のデリート、何ミリ秒で叩き込んだ?」


 女は不敵な笑みを浮かべ、路地裏の退路を完全に塞ぐようにして、そこに立ち塞がった。

HẾT CHƯƠNG

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